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第八話 愛人の裏切り

第八話 愛人の裏切り


 六月の雨は、どこか湿った匂いがした。


 夜の東京。ネオンが濡れたアスファルトへ滲み、赤や青の光がゆらゆら揺れている。健一はコンビニの前で立ち尽くしていた。


 スマホが鳴り止まない。


 知らない番号。


 記者。


 取引先。


 SNS通知。


 どれも見たくなかった。


 画面には『不正幹部』『モラハラ夫』『愛人と共犯』という文字が並んでいる。


「……クソ」


 舌打ちした瞬間、背後から店員の小声が聞こえた。


「あれ、ニュースの人じゃない?」

「マジだ……」


 健一は帽子を深く被り直し、その場を離れた。


 数週間前まで、自分は“成功者”だった。


 タワマン、高級車、ブランドスーツ。会社では次期役員候補。SNSでは“理想の夫”。


 それが今では、ネットの晒し者だ。


 歩くだけで視線を感じる。


 笑われている気がする。


 全部、真琴のせいだった。


「あの女……!」


 怒りで喉が焼ける。


 だが同時に、恐怖もあった。


 真琴はまだ何か隠している。


 そんな気がしてならない。


 その時、スマホへメッセージが届いた。


『話ある。来て』


 麗奈だった。


 健一は舌打ちしながらタクシーを止めた。


 三十分後。


 麗奈のマンションへ着く。


 エントランスは高級感があったが、以前来た時のような浮ついた気分にはなれなかった。


 インターホンを押す。


 しばらくしてドアが開いた。


 麗奈は部屋着姿だった。


 だが、もう健一へ甘える笑顔はない。


「……入れば」


 冷たい声だった。


 部屋へ入ると、ワインと香水の匂いが混ざっている。


 テーブルには大量の雑誌が散乱していた。


 どれも自分たちのスキャンダル記事だった。


『不正愛人カップル』

『会社私物化』

『捨てられた妻の逆襲』


 健一は顔を歪める。


「お前のせいで全部こうなった」


「は?」


 麗奈がゆっくり振り返る。


「なにそれ」


「録音なんか出しやがって!」


「先に切り捨てようとしたの、そっちじゃん」


「だからって!」


「だからって何?」


 麗奈の目が冷える。


「自分だけ助かろうとしたくせに」


 健一は黙る。


 麗奈は鼻で笑った。


「ほんとダサい」


「……麗奈」


「前から思ってたけどさ、あんた小物なんだよね」


 健一のこめかみが震えた。


「なんだと」


「奥さんにも偉そうにして、自分は王様気取り。でも結局、全部バレたらビビって責任転嫁」


 麗奈は缶チューハイを開け、一口飲む。


「一番ダサい男」


 健一の拳が震える。


「俺はお前のために……!」


「は?」


 麗奈が吹き出した。


「マジで言ってんの?」


「お前を守ろうと……」


「守ってないじゃん」


 麗奈は即答した。


「会議で全部私に押し付けたくせに」


 沈黙。


 時計の秒針だけが響く。


 やがて麗奈はソファへ深く座り、面倒そうに言った。


「あんた、もう価値ないから」


 その一言は、ナイフみたいだった。


 健一の顔色が変わる。


「……なんだよそれ」


「聞こえなかった?」


 麗奈は冷たく笑う。


「会社も終わり。金も終わり。世間からも嫌われてる。そんな男に誰がつくの?」


「お前……!」


「私、負ける男嫌いなの」


 健一は唇を震わせた。


 数か月前まで、麗奈は自分を見上げていた。


『健一さんすごい』

『頼れる』

『奥さんかわいそう』


 そう言って甘えていた。


 なのに今は、ゴミを見る目をしている。


 健一は初めて理解した。


 麗奈は自分を愛していなかった。


 利用していただけだ。


「出てって」


 麗奈がスマホを見ながら言う。


「……は?」


「もう来ないで」


「ふざけんな!」


 健一が声を荒げる。


「お前も共犯だろうが!」


「証拠ある?」


 麗奈が笑う。


 その顔に、かつての甘さは一切ない。


「私、全部あんたの指示って形で残してるけど」


 健一の背筋が冷えた。


「脅してんのか」


「自衛だよ」


 麗奈は立ち上がり、玄関を指差す。


「帰って」


「……っ」


「みっともない」


 健一は何か言い返そうとして、言葉を失った。


 誰もいない。


 会社も。


 部下も。


 愛人も。


 もう誰も、自分の味方じゃない。


 健一は荒くドアを閉め、マンションを飛び出した。


 雨が降っていた。


 強い雨だった。


 スーツが濡れる。


 でもどうでもよかった。


 歩道橋の下で立ち止まり、健一は震える手で煙草を取り出す。


 火がつかない。


「クソ……!」


 ライターを投げ捨てる。


 頭の中で、真琴の顔が浮かんだ。


 静かに笑っていた。


『やっと自由になれたから』


 あの時の目。


 あれは怯えた女の目じゃなかった。


「……真琴」


 健一は壁へ拳を叩きつけた。


「全部、お前のせいだろ……!」


 一方その頃。


 真琴は静かな部屋で書類を整理していた。


 九条の事務所ではない。


 新しく借りた、小さなワンルームだった。


 白いカーテン。


 木目のテーブル。


 まだ家具は少ない。


 でも、息がしやすかった。


 誰の顔色も窺わなくていい空間。


 真琴は箱からマグカップを取り出す。


 昔、自分で買ったものだった。


 健一に「趣味悪い」と笑われて、ずっと使えなかった。


 でも今は違う。


 自由だった。


 インターホンが鳴る。


 九条だった。


「引っ越し祝い」


 コンビニ袋を掲げる。


「ケーキ?」


「安いやつな」


 真琴は笑った。


「十分だよ」


 九条は部屋を見回し、小さく頷く。


「いい部屋じゃん」


「狭いけどね」


「前より顔がいい」


 真琴は少し照れた。


 九条は缶コーヒーを開けながら言う。


「健一、完全に孤立した」


「……そっか」


「麗奈にも切られたらしい」


 真琴は窓の外を見る。


 雨粒が静かにガラスを流れていた。


 不思議だった。


 以前なら嬉しかったはずなのに。


 でも今は、少し違う。


 ただ静かだった。


「真琴」


 九条が低く言う。


「まだ終わらせるなよ」


 真琴は振り返る。


「え?」


「ここで終わったら、“浮気された妻”で終わる」


 九条の目が鋭くなる。


「お前が奪われたのは、人生だろ」


 真琴は息を呑む。


 九条は続けた。


「だったら、本当の地獄はここからだ」


 窓の外で雷が鳴った。


 真琴は静かに目を閉じる。


 胸の奥で、黒い炎がまだ消えていなかった。



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