最終話 私の人生を、取り戻す
最終話 私の人生を、取り戻す
春の風は柔らかかった。
東京駅近くのオフィス街を、真琴はゆっくり歩いていた。薄いベージュのトレンチコートの裾が風に揺れる。空は高く晴れ渡り、ガラス張りのビル群が朝陽を反射して眩しく光っていた。
数か月前。
あの雨の夜、スーツケースひとつで家を追い出された自分が、まるで遠い昔のことみたいだった。
「神崎さん!」
後ろから声が飛ぶ。
振り返ると、若い女性が駆け寄ってきた。
三十代前半くらいだろうか。少し疲れた顔をしているが、その目にはどこか必死な光があった。
「今日はありがとうございました」
女性は何度も頭を下げる。
「本当に、助かりました」
真琴は柔らかく笑った。
「いえ。少しでも力になれたなら」
女性は目を潤ませる。
「私……ずっと夫にお金管理されてて、自分の口座も知らなくて……」
その言葉に、昔の自分が重なった。
真琴は静かに頷く。
「怖かったですよね」
「……はい」
「でも、大丈夫」
真琴は優しく言った。
「ちゃんと、取り戻せます」
女性は涙を拭きながら笑った。
「神崎さんみたいになりたいです」
その言葉に、真琴は少しだけ驚く。
昔の自分なら、絶対に言われなかった言葉だ。
「ありがとう」
女性を見送ったあと、真琴はオフィスビルを見上げた。
入口のガラス扉には、小さな会社ロゴが貼られている。
『Makoto Financial Support』
女性向け資産相談サービス。
離婚、モラハラ、財産管理、生活再建。
同じように苦しんできた女性たちの相談を受ける仕事だった。
最初は怖かった。
本当に自分にできるのか不安だった。
でも、一歩踏み出してみたら、世界は思っていたより広かった。
誰かに怯えながら生きなくてもいい。
自分の人生を、自分で選んでいい。
それを今は知っている。
「社長」
低い声がした。
振り返ると、九条が立っていた。
黒いスーツ姿。相変わらず無愛想だが、どこか穏やかな目をしている。
「その呼び方やめて」
「いいだろ。実際社長だし」
九条は缶コーヒーを差し出した。
「ほら」
「ありがとう」
真琴は受け取り、小さく笑う。
缶の温かさが掌へじんわり広がった。
二人で並んで歩き出す。
街路樹の若葉が陽射しを透かし、風に揺れている。どこかのカフェからコーヒー豆を煎る香ばしい匂いが漂ってきた。
「忙しそうだな」
「ありがたいことにね」
「顔つき変わった」
真琴は首を傾げる。
「そう?」
「前はずっと、周り見て生きてた」
九条は真琴を見ずに言う。
「今はちゃんと前見てる」
真琴は少し黙った。
確かにそうだった。
昔の自分は、いつも健一の顔色ばかり窺っていた。
怒ってないか。
嫌われてないか。
必要とされているか。
自分の気持ちなんて、後回しだった。
でも今は違う。
朝、好きな服を選ぶ。
好きな紅茶を飲む。
好きな仕事をする。
小さなことなのに、それが自由だった。
信号待ちで立ち止まる。
春風が髪を揺らした。
その時、駅前の大型ビジョンにニュース映像が流れた。
『元NEXT ONE幹部、神崎健一被告――』
真琴の足が止まる。
画面には、帽子を深く被った健一が映っていた。以前の自信に満ちた姿はもうない。
憔悴しきった顔。
俯いた背中。
横には「追徴課税」「損害賠償請求」の文字。
通行人たちは誰も気に留めない。
もう“特別な男”ではない。
ただ転落した人間の一人だった。
真琴は静かに画面から目を逸らした。
不思議だった。
憎しみは、もうあまり残っていない。
あれほど苦しかったのに。
あれほど許せなかったのに。
時間はちゃんと、人を前へ進ませる。
「見るか?」
九条が聞く。
真琴は首を振った。
「ううん。もういい」
その声は、本当に穏やかだった。
九条は少しだけ笑う。
「終わったな」
「うん」
「長かった?」
真琴は空を見上げた。
真っ青だった。
雲ひとつない。
「長かった」
ぽつりと答える。
「でも……必要だったのかも」
「復讐が?」
「違う」
真琴は微笑む。
「自分を取り戻す時間」
九条は何も言わない。
ただ隣を歩く。
その距離が心地よかった。
交差点を渡る途中、小さな女の子が転びそうになる。
真琴は咄嗟に支えた。
「大丈夫?」
「うん!」
女の子は笑って母親の元へ走っていく。
その背中を見送りながら、真琴は胸の奥が温かくなるのを感じた。
昔の自分は、生きることが苦しかった。
朝が来るのが怖かった。
でも今は違う。
未来が怖くない。
それだけで、十分だった。
九条がふと真琴を見る。
「やっと笑ったな」
真琴は立ち止まる。
春風が吹く。
陽射しが頬へ落ちる。
世界が、こんなに明るかったことを、昔の自分は知らなかった。
真琴は空を見上げる。
そして静かに答えた。
「うん」
胸の奥で、長い冬が終わっていく。
「やっと、生き返った」




