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エピローグ もう、誰のものでもない

エピローグ もう、誰のものでもない


 冬の気配が少しだけ混じった風が、街路樹を揺らしていた。


 十二月の東京は、イルミネーションで光っている。駅前には大きなクリスマスツリーが飾られ、人々が笑いながら行き交っていた。


 真琴は紙袋を抱え、歩道をゆっくり歩いていた。


 焼きたてのパンの香り。


 コーヒーショップから流れる音楽。


 吐く息は白い。


 そんな何気ない景色が、今は愛しかった。


「神崎さん!」


 背後から呼ばれ、真琴は振り返る。


 そこには以前相談へ来ていた女性が立っていた。小さな男の子の手を引いている。


「あ……久しぶり」


「本当にありがとうございました」


 女性は深々と頭を下げる。


「離婚、ちゃんと成立したんです。仕事も決まって……今、すごく楽なんです」


 真琴は微笑んだ。


「そっか。よかった」


 女性の隣で、男の子が不思議そうに真琴を見上げる。


「ママ、この人だれ?」


 女性は優しく笑った。


「ママを助けてくれた人」


 その言葉に、真琴の胸が少し熱くなる。


 男の子は小さく頭を下げた。


「ありがと!」


 真琴はしゃがみ込み、目線を合わせる。


「どういたしまして」


 母子が去っていく背中を見送りながら、真琴は静かに息を吐いた。


 あの日。


 雨の夜。


 スーツケースひとつで追い出された自分は、世界に一人取り残された気がしていた。


 もう終わりだと思った。


 でも違った。


 終わりじゃなかった。


 あれは、始まりだった。


「また考え込んでる」


 低い声。


 九条だった。


 黒いコート姿で立っている。手には缶コーヒーが二本。


「はい」


 真琴は受け取る。


 缶の熱が冷えた指へじんわり広がった。


「今日は相談終わり?」


「うん。三件」


「人気だな」


「九条が仕事回しすぎ」


「実力だろ」


 真琴は小さく笑った。


 二人で並んで歩く。


 イルミネーションの光がガラス窓へ反射して揺れていた。


 以前の真琴なら、こんなふうに誰かと肩を並べて歩くだけで緊張していた。


 嫌われないように。


 迷惑をかけないように。


 ずっと縮こまって生きていた。


 でも今は違う。


 風の匂いも。


 街の光も。


 全部ちゃんと感じられる。


「なぁ」


 九条が不意に口を開く。


「後悔してるか」


 真琴は少し考えた。


「復讐したこと?」


「全部」


 信号が赤になる。


 二人は立ち止まった。


 向こう側には、大きなビジョンが光っている。ニュース番組が流れていた。


『NEXT ONE、再建難航――』


 真琴はぼんやり画面を見る。


 健一の名前はもう、以前ほど騒がれなくなっていた。


 人は忘れる。


 世間は次の話題へ移っていく。


 でも、当事者だけは忘れない。


 傷も。


 言葉も。


 失った時間も。


「……後悔はしてない」


 真琴は静かに答えた。


「でも、苦しかった」


 九条は黙って聞いている。


「誰かを憎むって、思ったより疲れるんだね」


「だろうな」


「毎日、心が削れてく感じだった」


 真琴は少し笑った。


「復讐って、もっとスカッとするものだと思ってた」


「現実は地味だ」


「うん」


 青信号へ変わる。


 人の波が動き出した。


 真琴も歩き出す。


「でもね」


「ん?」


「私、あの時戦ってよかった」


 九条が横目で真琴を見る。


「戦わなかったら、たぶん今も自分のこと嫌いだった」


 風が吹く。


 髪が揺れる。


 真琴は空を見上げた。


 高層ビルの隙間に、冬の星がひとつ見える。


「やっと思えるの」


「何を」


「生きててよかったって」


 九条は少しだけ目を細めた。


「……そっか」


 二人は駅前のベンチへ座る。


 近くではカップルが笑い合い、子供が走り回っていた。


 温かな光景だった。


 その時、真琴のスマホが震える。


 新規相談メール。


『夫に経済DVを受けています』


 短い文章。


 でも、その苦しさは痛いほどわかった。


 真琴は画面を見つめ、小さく息を吐く。


 昔の自分みたいだと思った。


「仕事?」


 九条が聞く。


「うん」


「休めよたまには」


「無理」


「真面目だな」


 真琴は苦笑した。


「でも、助けたいの」


「……」


「昔の私みたいな人、たくさんいるから」


 九条はしばらく黙っていた。


 やがてぽつりと言う。


「お前、強くなったな」


 真琴は少し首を振る。


「違うよ」


「ん?」


「弱かった自分を、ちゃんと認められるようになっただけ」


 その言葉に、九条はふっと笑った。


「それを強いって言うんだよ」


 イルミネーションが瞬く。


 白い光が真琴の横顔を照らしていた。


 もう怯えていない。


 もう、自分を偽っていない。


 誰かのためだけに生きる人生は終わった。


 これからは、自分の足で歩いていく。


 傷も痛みも消えない。


 でも、それでも前を向ける。


 真琴は缶コーヒーを両手で包み込みながら、静かに微笑んだ。


 もう、誰のものでもない。


 私は、私の人生を生きていく。



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