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第六話 崩れ始めた王様

第六話 崩れ始めた王様


 NEXT ONE本社、二十三階。


 役員会議室の空気は、重く濁っていた。


 長い楕円形のテーブルを囲む役員たちの表情は硬い。壁際の大型モニターには、監査資料が映し出されている。


 健一は喉の奥に張りつく嫌な渇きを感じていた。


「神崎部長」


 監査役の低い声が響く。


「こちらの外注費について説明を」


 スクリーンへ映し出された数字を見た瞬間、健一の背中を冷たい汗が伝った。


 例のデータだった。


 不正取引一覧。


 匿名メールで送られてきたあのファイル。


「……これは、現場判断で」


「現場判断で数千万単位の金が動くんですか?」


 会議室の空気がさらに冷える。


 健一は奥歯を噛み締めた。


「確認不足でした」


「確認不足?」


 専務が苛立ったように机を叩く。


「架空会社まで出てきてるんだぞ!」


 健一のこめかみが脈打つ。


 誰だ。


 誰が漏らした。


 真琴しかいない。


 あの女。


 あんなに従順だったくせに。


 健一は拳を握りしめた。


「神崎部長」


 監査役が資料をめくる。


「こちらの口座、藤堂さんの名前がありますが」


 その瞬間、健一は顔を上げた。


 麗奈。


 会議室の端に座っていた麗奈がビクリと肩を揺らす。


「え……?」


「説明をお願いします」


 麗奈は慌てて健一を見る。


 助けを求める目。


 だが健一は、冷えた声で言った。


「……俺は知りません」


 空気が止まった。


 麗奈の顔から血の気が引く。


「け、健一さん……?」


「その口座、藤堂が管理してたので」


 麗奈が立ち上がる。


「ちょっと待って!」


 声が裏返る。


「なに言ってるんですか! 一緒にやってたじゃないですか!」


「証拠あるの?」


 健一は冷たく言い放った。


「適当なこと言うなよ」


 麗奈の目が見開かれる。


 信じられない、という顔だった。


「……最低」


「会社に損害出したのお前だろ」


「はぁ!?」


 麗奈が机を叩いた。


「全部指示したの健一さんじゃん!」


「証明できんの?」


 健一のその一言で、麗奈の表情が変わった。


 怒りだった。


 いや、憎悪に近い。


「……そう」


 麗奈は震える声で笑う。


「私、ちゃんと録ってるから」


 健一の顔が凍りつく。


「……は?」


「録音。全部」


 会議室がざわつく。


 麗奈はバッグからスマホを取り出した。


「こうなると思ったんですよねぇ」


 再生ボタンを押す。


『バレたらお前のせいにするから』


 健一の声だった。


『その代わり口止め料は払う』


 健一の顔色が一気に変わる。


「おま……!」


『監査なんか適当に誤魔化せ』


『女は便利だなぁ、ほんと』


 会議室が凍りついた。


 役員たちの視線が健一へ突き刺さる。


 専務が低く言った。


「……神崎君」


 健一は息を呑む。


「違っ……これは」


「会議中だ。黙れ」


 その声には、もう以前のような信頼はなかった。


 健一は初めて理解した。


 自分の足場が崩れ始めていることを。


 一方その頃。


 真琴は美容室にいた。


 大きな鏡の前。


 肩まで伸びていた髪が、ゆっくり切り落とされていく。


 ハサミの音が小気味よく響く。


 床へ落ちる黒髪を見ながら、真琴はぼんやり思っていた。


 ずっと長かった。


 健一が「長い方が女らしい」と言ったから。


 だから切れなかった。


「こんな感じでどうですか?」


 美容師が鏡を向ける。


 真琴は少し驚いた。


 短くなった髪は軽かった。


 首筋へ空気が触れる。


 まるで何かが剥がれ落ちたみたいだった。


「……いいです」


 本当にそう思った。


 店を出ると、春の風が頬を撫でる。


 真琴は空を見上げた。


 明るかった。


 ほんの少し前まで、自分は毎日泣いていたのに。


「変わったな」


 後ろから声がする。


 九条だった。


 黒いスーツ姿のまま、壁へ寄りかかっている。


「迎えに来たの?」


「仕事ついで」


「嘘」


 九条は小さく笑った。


「似合ってる」


 真琴は少し照れくさくなる。


「ありがとう」


「前よりいい顔してる」


 九条と並んで歩きながら、真琴は街を見つめた。


 人が行き交う。


 カフェの香り。


 信号の音。


 世界は変わっていない。


 変わったのは自分だ。


「九条」


「ん?」


「私、仕事したい」


 九条が真琴を見る。


「急だな」


「でも……もう誰かに養われるだけの人生、嫌」


 真琴は苦く笑う。


「怖いけど」


「怖くて当然だ」


「でも、自分で生きたい」


 九条はしばらく黙っていた。


 やがて静かに言う。


「税理士事務所時代の知り合い、当たってみるか?」


 真琴の目が揺れる。


「……いいの?」


「お前、数字強いし。普通に働けるだろ」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 健一はずっと言っていた。


『お前は社会じゃ通用しない』


『専業主婦しか無理』


 でも違った。


 真琴は歩ける。


 ひとりでも。


 九条がふと真顔になる。


「ただし」


「え?」


「復讐に飲まれるな」


 真琴は足を止めた。


 九条の目は真っ直ぐだった。


「お前最近、危うい」


「……」


「憎しみだけで立つと、最後に自分が壊れる」


 風が吹く。


 真琴は静かに目を伏せた。


「でも、許せない」


「許さなくていい」


 九条は低く言った。


「ただ、自分まで化け物になるな」


 その言葉が胸に残る。


 真琴は小さく息を吐いた。


「難しいね」


「だろうな」


 九条は苦笑した。


 その頃。


 健一は誰もいなくなった会議室で、一人スマホを握り締めていた。


 大量の着信。


 監査部。


 役員。


 経理。


 そして。


 ネットニュース通知。


『NEXT ONE幹部、不正疑惑か』


「……クソッ!」


 健一は机を蹴った。


 全部、真琴のせいだ。


 あの女。


 あんな女が、自分に逆らうなんて。


 だが怒りの奥で、別の感情が膨らんでいた。


 恐怖だった。


 健一は気づき始めていた。


 真琴はもう、“支配できる妻”ではない。



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