第五話 追い出した妻
第五話 追い出した妻
ホテルグランフォート東京、三十五階。
天井一面に吊るされたシャンデリアが、黄金色の光を会場へ降り注いでいた。磨き抜かれたグラスがぶつかる澄んだ音。高級香水の甘い香り。笑い声。低く流れるジャズピアノ。
NEXT ONE創立十五周年記念パーティーは、華やかな熱気に包まれていた。
「いやぁ、神崎部長の功績ですよ」
「今期の数字、本当にすごいですね」
「次は役員確実じゃないですか?」
健一はシャンパンを片手に笑顔を浮かべていた。
「いやいや、周りに恵まれてるだけですよ」
外面だけは完璧だった。
背筋を伸ばし、柔らかな笑みを浮かべ、部下には気さくに肩を叩く。知らない人間が見れば、“理想のエリート”そのものだ。
だがその笑顔の裏で、健一の胃はずっと重かった。
監査部の動きがおかしい。
役員からの確認が増えた。
経理も妙に細かい。
そして何より――真琴。
あの日以来、沈黙したまま動きが読めない。
「健一さん?」
麗奈が甘えるように腕へ触れた。
今日は肩の大きく開いた黒いドレスだった。男たちの視線を集めることに慣れきった笑みを浮かべている。
「顔怖いですよぉ?」
「……別に」
「また奥さんのこと考えてる?」
「元、な」
健一は苛立ったようにシャンパンを飲み干した。
その時だった。
会場入口の空気が、ざわりと揺れた。
数人の視線が一斉に同じ方向へ向く。
「……え?」
「誰、あの人」
「綺麗……」
健一も反射的に振り返る。
そして凍りついた。
真紅のドレスだった。
深い赤。
滑らかな生地が照明を受けて艶めき、細い腰のラインを美しく際立たせている。ゆるく巻いた黒髪が肩を流れ、白い肌が際立って見えた。
真琴だった。
だが健一の知っている“妻”ではない。
怯えた顔も、遠慮がちな笑みもない。
まっすぐ前を見て歩いてくる。
ヒールの音が静かな会場へ響くたび、空気が張り詰めていく。
麗奈が息を呑んだ。
「……なんでいるの」
真琴はゆっくり健一たちの前で止まった。
近づいた瞬間、微かに香ったのは甘すぎない白百合の香水だった。昔の真琴はこんな香りを選ばなかった。
健一は顔を強張らせる。
「お前……」
真琴は静かに微笑んだ。
「久しぶり、健一」
「なんでここに」
「招待されたから」
周囲の社員たちがざわつく。
「あれ奥さん?」
「離婚したって聞いたけど……」
「え、でもめちゃくちゃ綺麗じゃない?」
麗奈の顔が引き攣った。
「ちょっと、何しに来たの?」
真琴はゆっくり麗奈へ視線を向けた。
その目に怒鳴るような感情はない。
だからこそ怖かった。
「今日は“お礼”を言いに来たの」
健一の眉が動く。
「……は?」
真琴は笑った。
静かで、美しい笑顔だった。
「あなたのおかげで、やっと自由になれたから」
健一の喉が詰まる。
会場の空気が変わっていく。
真琴は以前と違った。
健一へ怯えていた女ではない。
むしろ今、追い詰められているのは健一の方だった。
「強がってんじゃねぇよ」
健一は低く吐き捨てる。
「お前、一人じゃ何もできないくせに」
その言葉に、真琴は少しだけ目を細めた。
「そう思ってた?」
「は?」
「私が何も知らないと思ってた?」
健一の背筋に冷たいものが走る。
麗奈も顔色を変えた。
真琴はテーブルのシャンパンを一杯取り、優雅に口をつける。
「このホテル、素敵ね」
「真琴」
「でも、長くは楽しめないかも」
意味深な言葉。
健一の顔から血の気が引いた。
「……何した」
真琴は答えない。
ただ静かにグラスを置き、周囲へ笑顔を向けた。
「失礼します。少し挨拶したかっただけなので」
その余裕が、健一をさらに苛立たせる。
「待てよ!」
思わず腕を掴もうとした瞬間。
別の手が健一の腕を止めた。
「触るな」
低い声。
九条だった。
黒のスーツ姿で立っている。
健一が顔を歪める。
「お前……」
「みっともないぞ、神崎」
九条は冷えた目で言った。
「会場中見てる」
周囲の視線が一気に刺さる。
健一は慌てて手を引っ込めた。
真琴はそんな健一を見つめ、静かに微笑む。
「じゃあ、失礼するね」
そして踵を返した。
赤いドレスが揺れる。
その後ろ姿を、会場中の人間が見ていた。
誰もが思う。
捨てられた妻には見えなかった。
むしろ。
捨てられる側は――。
「……っ」
健一は奥歯を噛み締めた。
麗奈が苛立った声を漏らす。
「なによあれ……調子乗って」
だがその声には、明らかな怯えが混じっていた。
真琴の目。
あの静かな目が頭から離れない。
まるで全部知っているみたいだった。
パーティー終了後。
夜十一時四十分。
NEXT ONE役員たちのメールへ、一通の匿名メールが届く。
件名なし。
本文もない。
添付ファイルのみ。
『不正取引一覧.xlsx』
最初に開いたのは専務だった。
「……なんだこれ」
次の瞬間、顔色が変わる。
商品横流し。
架空外注。
利益分配。
口座一覧。
そこには健一の名前も、麗奈の名前も記載されていた。
「おい……」
専務の声が震える。
「監査呼べ」
同じ頃。
ホテルの外では冷たい夜風が吹いていた。
真琴は車へ乗り込み、静かに窓の外を見ていた。
街の灯りが流れていく。
九条がエンジンをかけながら言う。
「派手にやったな」
「やりすぎた?」
「いや」
九条は小さく笑った。
「最高だった」
真琴は窓へ映る自分の顔を見る。
少し前まで、自分は終わったと思っていた。
捨てられたと思っていた。
でも違う。
終わり始めているのは、健一たちだ。
真琴はゆっくり目を閉じた。
胸の奥で、静かな炎が燃えていた。




