第四話 暴かれるバイセル案件
第四話 暴かれるバイセル案件
雨が降りそうな空だった。
灰色の雲が低く垂れ込め、窓の外の高層ビル群を鈍く霞ませている。九条法律事務所の中は静かで、壁掛け時計の秒針だけが規則的に音を刻んでいた。
真琴は机に向かったまま、何時間も画面を睨み続けていた。
ノートパソコンの青白い光が頬を照らしている。
目が痛い。
肩も重い。
それでも止まれなかった。
知ってしまったからだ。
健一がただ浮気していただけではないことを。
「……おかしい」
真琴は低く呟く。
画面には大量の取引履歴が並んでいた。商品コード、出荷数、入金履歴。NEXT ONEの社内データと、BUY-SELL_EXTフォルダ内の数字を照らし合わせると、明らかな差額が出る。
本来会社へ入るはずの利益が、一部だけ消えていた。
いや、消えているのではない。
流されている。
別の口座へ。
「九条」
真琴が呼ぶと、ソファで資料を読んでいた九条が顔を上げた。
「見て」
九条は立ち上がり、真琴の背後へ回る。近づくと、煙草と微かな香水の匂いがした。
「これ、同じ商品なのに出荷数が違う」
「……ほんとだな」
「しかも外注先の会社、登記がない」
九条の目が細くなる。
「ペーパーカンパニーか」
「たぶん」
真琴は唇を噛む。
数字を追えば追うほど、健一たちのやっていることが見えてくる。
会社の商品を横流しし、外部ルートで転売して利益を得る。その利益を架空会社へ流し、さらに個人口座へ分配していた。
完全な不正だった。
九条が低く呟く。
「これ、想像以上にデカいな」
「健一だけじゃない」
真琴は別のファイルを開いた。
そこには麗奈の名前も記載されていた。
入金履歴。
顧客リスト。
機密データ。
麗奈は社内情報を横流ししていた。
「最低……」
思わず声が漏れる。
あの女は、ただ健一に甘えているだけだと思っていた。
違う。
同じ穴のムジナだった。
その時だった。
九条のスマホが震える。
「……あぁ、俺だ」
電話に出た九条の声が低くなる。
「今? ……わかった。送れ」
通話を切ると、九条は真琴を見た。
「面白いもん来た」
「なに?」
「お前の旦那、社内でも相当嫌われてる」
九条はメールを開いた。
添付ファイル。
音声データ。
「内部リーク?」
「たぶんな」
九条が再生ボタンを押す。
ザーッという雑音のあと、男の笑い声が流れた。
『だからさぁ、この案件、数字いじれば余裕なんだって』
健一の声だった。
真琴の背筋が凍る。
『在庫なんか誰も細かく見ねぇし。余った分は外に流せばいい』
別の女の声。
麗奈。
『健一さん、ほんと頭いいですよねぇ』
『その代わり、お前ちゃんと口止めしろよ』
『わかってますって』
真琴は無意識に拳を握っていた。
爪が掌へ食い込む。
九条が音声を止めた。
「……アウト」
「こんなの、残してたんだ」
「人間、調子乗ると証拠残すんだよ」
九条は冷めた声で言う。
真琴は息を吐いた。
苦しい。
でも同時に、頭の奥が妙に冷えていた。
健一は、自分が絶対に負けないと思っていた。
妻を見下し、会社を利用し、愛人と笑っていた。
その結果がこれだ。
真琴は静かに呟く。
「自業自得……」
九条がちらりと真琴を見る。
「顔、変わったな」
「え?」
「前より怖い」
真琴は苦く笑った。
「そうしたの、健一だよ」
その頃、健一は会社の会議室で苛立っていた。
「だからなんで監査なんか入るんだよ!」
机を叩く音が響く。
部下たちは顔を伏せ、誰も口を開かない。
最近おかしい。
社内の空気が。
経理から確認メールが増えた。監査部が妙に細かい。役員たちの態度も変わってきている。
嫌な汗が背中を伝った。
麗奈が隣で甘えるように腕へ触れる。
「大丈夫ですよぉ」
「……うるさい」
「そんなイライラしないでくださいよ」
健一は舌打ちした。
苛立つ原因は他にもある。
真琴だ。
あの日から一度も連絡がない。
泣きついてくると思っていた。
許してほしいと縋ると思っていた。
なのに静かすぎる。
それが逆に不気味だった。
「……まさか」
健一は眉を寄せる。
脳裏に、真琴が家計簿をつける姿が浮かぶ。
ノートパソコンを開き、数字を確認していた横顔。
健一はずっと、あれを“暇つぶし”程度に思っていた。
だが違う。
真琴は数字に強い。
もし、データを見ていたら。
もし、不正に気づいていたら。
そこへ麗奈がスマホを見ながら笑った。
「あ、またあの女ログインしてる」
健一が振り返る。
「は?」
「共有クラウド。アクセス履歴残ってましたよ」
空気が止まる。
健一の顔色が変わった。
「なんで早く言わねぇんだよ!」
「えぇ? だって別に」
「馬鹿かお前!」
麗奈の顔から笑みが消える。
「……なによ」
「パス変えろ! 全部!」
健一はスマホを掴み、乱暴に立ち上がった。
胸騒ぎがしていた。
嫌な予感が、どんどん大きくなる。
一方その頃。
真琴は古いUSBメモリを机へ置いていた。
「これ……」
「なんだ?」
「健一に頼まれて、昔バックアップ取ったことあるの」
九条が眉を上げる。
「開けてみろ」
真琴はUSBを差し込んだ。
画面にフォルダが表示される。
契約書。
請求書。
顧客一覧。
そして。
『業務委託契約書 修正版』
真琴はファイルを開く。
次の瞬間、息を呑んだ。
「……これ」
契約金額が違う。
会社提出用と、実際の契約書。
二重になっていた。
「偽装契約か」
九条の声が低くなる。
真琴は次々ファイルを確認した。
印鑑データ。
修正履歴。
送金先。
全部繋がる。
全部、証拠になる。
九条はしばらく無言で画面を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「これ……」
その目が鋭く細まる。
「飛ぶぞ、会社」
真琴は静かに画面を見つめた。
窓の外では、ついに雨が降り始めていた。
冷たい雨粒がガラスを叩いて流れていく。
まるで、何かが崩れ始める音みたいだった。




