第三話 夫の裏アカ
第三話 夫の裏アカ
朝六時。九条法律事務所の窓から、薄青い光が差し込んでいた。
真琴はソファに膝を抱えたまま、ノートパソコンの画面を見つめていた。机には飲みかけのコーヒーが三杯。冷えきった液面に、白い天井灯がぼんやり映っている。
昨夜から、一睡もしていなかった。
目は熱いのに、神経だけが妙に冴えている。
カチ、カチ、とマウスを押す音だけが静かな事務所へ響く。
クラウドフォルダの中には、健一の仕事データだけではなく、プライベートの痕跡まで大量に残っていた。
「……脇、甘すぎでしょ」
真琴は乾いた笑みを漏らす。
結婚していた頃、健一はよく言っていた。
『お前にはわからない』
『仕事のデータ触るな』
『ミスされたら困る』
そのくせ、パスワード管理は雑だった。自分だけは絶対に失敗しないと思っている男特有の油断。
真琴はキーボードを打ちながら、低く呟いた。
「見下してたんだろうな……私のこと」
背後で煙草の匂いがした。
「朝から陰気だな」
九条がネクタイを締めながら事務所へ入ってくる。
「寝てないのか」
「……ちょっとだけ」
「その顔で?」
九条は呆れたようにコーヒーを置いた。
苦い香りが立ち上る。
「ほら」
「ありがと」
真琴はマグを受け取る。温かさが指先へ染みる。
九条は画面を覗き込み、眉を寄せた。
「なんだこれ」
表示されているのはSNSの裏アカウントだった。
健一の名前ではない。だが投稿写真に映る腕時計、店、景色。そのすべてが一致している。
真琴は画面をスクロールした。
夜景の見えるホテル。
高級寿司店。
海辺のリゾート。
どの写真にも、麗奈の影が映っている。
爪。
髪。
笑い声。
そして。
『仕事頑張ったご褒美♡』
『次は沖縄かな』
『奥さんにはバレてないし笑』
真琴の指が止まる。
胃の奥がぐっと冷えた。
九条が静かに言う。
「見なくてもいいぞ」
「見る」
真琴は即答した。
「今さら逃げない」
画面には、去年の結婚記念日の写真があった。
真琴が一人で夕飯を作って待っていた夜。
健一は麗奈と温泉旅行へ行っていた。
楽しそうにワイングラスを掲げて笑っている。
真琴は目を閉じた。
あの日、自分は何をしていただろう。
冷めた料理を温め直して、帰らない夫を待っていた。
午前二時を過ぎても帰ってこなくて、それでも「仕事かな」と信じようとしていた。
喉の奥が焼ける。
「最低……」
ぽつりと零れる。
九条は黙って煙草に火をつけた。
紫煙が細く揺れる。
「で?」
「ん?」
「落ち込むのは後にしろ。使えるもん探せ」
真琴は小さく笑った。
「容赦ない」
「優しいだろ、十分」
九条はそう言いながら灰皿を引き寄せる。
真琴は再び画面へ向き直った。
SNSだけではない。クラウドには取引データも残っていた。
BUY-SELL_EXT。
そこに保存されていたExcelファイルを開く。
数字の羅列。
商品コード。
振込先口座。
利益分配。
会社を通していない不自然な金の流れ。
「これ……やっぱりおかしい」
真琴は眉を寄せる。
「在庫数が合ってない」
「横流しか」
「たぶん。しかも外注費も水増しされてる」
九条が椅子へ腰を下ろした。
「健一、思ったよりデカいことやってんな」
「麗奈の口座にも入ってる」
「共犯か」
真琴はデータを拡大した。
麗奈名義の振込履歴。その横に記載されたメモ。
『謝礼』
『調整分』
『K』
気持ち悪い。
金と欲望がべったり貼り付いた数字だった。
真琴は深く息を吐いた。
その時、机に置いていた九条のスマホが震えた。
九条が画面を見て顔をしかめる。
「……依頼人?」
「いや」
九条は通話を切った。
「知らねぇ番号」
直後、真琴のノートパソコンに通知が出る。
メールだった。
差出人不明。
件名なし。
本文には短く一文だけ。
『まだ奥さん気取りですか?』
真琴の背筋が冷える。
九条が画面を覗いた。
「……麗奈か」
さらにメールが届く。
『惨めですね』
『捨てられたんだから諦めれば?』
『健一さん、今すごく幸せそうですよ♡』
真琴の指先が震えた。
怒りか、悔しさか、自分でもわからない。
だが九条は冷静だった。
「反応するな」
「でも……」
「向こうはお前を壊したいんだよ」
真琴は唇を噛む。
その時だった。
新しい画像が送られてくる。
健一と麗奈のツーショット。
真琴が住んでいたマンションのリビングで撮られていた。
真琴の選んだソファ。
真琴の選んだカーテン。
その場所で、麗奈が勝ち誇ったように笑っている。
真琴の胸がズキリと痛んだ。
「……っ」
九条がスマホを取り上げる。
「見るな」
「返して」
「落ち着け」
「返して!」
思わず声が荒くなる。
九条は真琴をじっと見た。
「怒れ」
「……」
「泣くな。怒れ」
真琴の喉が震える。
怒り。
そうだ。
これは悲劇じゃない。
奪われたんだ。
人生を。
居場所を。
積み重ねてきた時間を。
九条が低く言った。
「お前、まだ自分を被害者だと思ってる」
「……違うの?」
「違うな」
九条は煙草を揉み消した。
「お前は今、“加害者側の秘密”握ってる」
真琴はハッとする。
「立場、逆転してんだよ」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
一方その頃、健一は会社の会議室で苛立っていた。
「だからこの数字、なんでズレてんだよ!」
部下たちが凍りつく。
健一は舌打ちした。
資料の数値が合わない。
在庫データも、外注費も、細かいミスが増えている。
以前ならこんなことはなかった。
「……クソ」
健一はネクタイを緩めた。
頭の奥に真琴の顔が浮かぶ。
『この経費、計算違ってない?』
『こっちの税率変わったよ』
鬱陶しいと思っていた。
黙って家事だけしていればいいのにと。
だが今になって気づく。
自分は真琴に、かなりの仕事を任せていた。
「……まさか」
健一の顔が強張る。
もし真琴がデータを見ていたら。
もし気づいていたら。
その時、会議室のドアが開いた。
「健一さん」
麗奈が笑顔で入ってくる。
「そんな怖い顔しないでくださいよぉ」
甘い香水の匂い。
だが健一は苛立ったまま言った。
「お前、変なことしてないよな」
「は?」
「真琴に接触とか」
麗奈の笑顔が一瞬だけ消えた。
「してませんけど?」
「……ならいい」
麗奈は内心で舌打ちした。
真琴。
あの地味な女。
捨てられて終わるだけの専業主婦だと思っていた。
なのに最近、健一の様子がおかしい。
焦っている。
怯えている。
麗奈は笑顔のまま言った。
「大丈夫ですよ。ああいう女って、結局なにもできないから」
だが健一は答えなかった。
窓の外には灰色の空が広がっている。
嫌な予感がしていた。
そしてその頃。
九条の事務所で、真琴は静かに新しいフォルダを作成していた。
タイトルは。
『神崎健一 証拠一覧』
その目は、もう怯えていなかった。




