第二話 家政婦だった妻
第二話 家政婦だった妻
九条の事務所は、思っていたよりずっと静かだった。
古い雑居ビルの五階。エレベーターを降りると、薄暗い廊下に蛍光灯の白い光が滲んでいる。夜中の二時を回っているせいか、ビル全体が眠っているようだった。
九条は無言のままドアを開けた。
「入れ」
真琴は小さく頷き、中へ足を踏み入れる。
コーヒーと紙の匂いがした。
整然と並ぶファイル棚。黒い革張りのソファ。デスクには開きっぱなしの資料とノートパソコン。生活感はほとんどない。
その無機質な空間が、今の真琴には妙に落ち着いた。
「タオル使え」
九条が棚から白いタオルを投げてよこす。
「……ありがとう」
濡れた髪を拭くと、冷えていた肌がじわじわ痛んだ。指先の感覚がまだ戻らない。
九条はコートを脱ぎ、給湯室へ消えた。すぐに湯の沸く音が聞こえる。
真琴はソファへ腰を下ろした。
途端に、全身から力が抜けた。
視界の奥で、健一の顔がちらつく。
『お前、もう女として終わってるし』
胸の奥がぎゅっと縮む。
真琴は唇を噛んだ。
泣くな。
もう泣くな。
「ほら」
目の前に湯気の立つマグカップが置かれた。
九条が向かいへ座る。
「熱いから気をつけろ」
真琴は両手でカップを包んだ。熱がじんわり掌へ染み込んでくる。カモミールの優しい香りが鼻先をくすぐった。
その瞬間、不意に涙が落ちた。
ぽたり、と膝へ落ちる。
九条は何も言わなかった。
慰めもしない。ただ静かに煙草へ火をつける。
紫煙がゆっくり天井へ昇っていく。
「……惨め」
真琴が掠れた声で言う。
「何が」
「全部。私、何してたんだろ……五年間」
九条は煙を吐いた。
「家事してたんだろ」
「それだけ」
「十分だ」
「違う」
真琴は首を振った。
「私、健一に必要とされてるって思ってた。ちゃんと支えれば、いつか……」
言葉が詰まる。
九条は静かに真琴を見た。
「神崎健一みたいな男はな、自分を支えてくれる人間を“空気”みたいに扱う」
「……」
「なくなるまで気づかない」
真琴は俯いた。
思い返せば、おかしかった。
食事に文句を言われても、「仕事で疲れてるから」と我慢した。
夜中に呼び出されても笑顔で迎えた。
欲しいものも、行きたい場所も、全部後回しにした。
健一が出世するたび、自分のことみたいに嬉しかった。
なのに。
「私……家政婦だったんだ」
ぽつりと呟く。
九条の目が少しだけ細くなった。
「やっと気づいたか」
真琴は苦く笑った。
「酷い言い方」
「優しく言ってほしいか?」
「……別に」
「なら現実見ろ」
九条は淡々と言う。
「お前、かなり支配されてたぞ」
「支配……」
「金、自由、人間関係。全部だ」
真琴はハッと顔を上げた。
そうだ。
財布。
カード。
通帳。
健一が管理していたわけじゃない。正確には、“管理させてもらえなかった”。
最初は共同口座だった。
でもいつの間にか、
『お前は数字苦手だろ』
『俺がやった方が早い』
そう言われ、少しずつ遠ざけられていた。
真琴は息を呑む。
「……私、自分のお金、ほとんど残ってない」
「だろうな」
「でも、家計簿も税金も、全部私が……」
そこで真琴は止まった。
頭の奥で何かが引っかかった。
数字。
資料。
違和感。
九条が煙草を灰皿へ押し付ける。
「どうした」
「……会社の数字」
「は?」
「健一の会社の資料、たまに家で見てたの。頼まれて」
真琴は眉を寄せる。
「経費が変だった」
「変?」
「辻褄が合わないの。売上と在庫数が」
九条の表情が変わった。
「詳しく言え」
真琴は記憶を辿る。
「去年くらいからかな……外注費も急に増えてた。でも発注先が曖昧で」
「架空取引か」
「あと、“BUY-SELL_EXT”ってフォルダ」
九条がピクリと反応する。
「なんだそれ」
「健一がすごく隠してた。私が触ろうとしたら怒って」
真琴は目を閉じる。
あの日の光景が浮かぶ。
深夜二時。
健一は酔って寝落ちしていた。
開きっぱなしのノートパソコン。
画面には大量のExcelデータ。
その中にあったフォルダ。
BUY-SELL_EXT。
妙に記憶へ残っている。
「……転売案件、かも」
九条が低く呟いた。
「え?」
「最近あるんだよ。会社の在庫流して横で利益作るやつ」
真琴の背筋がぞくりとした。
「じゃあ……」
「下手したら横領」
部屋の空気が一気に冷えた気がした。
真琴はゆっくり顔を上げる。
脳裏に、健一の笑顔が浮かぶ。
『お前は何もできない』
その声が今度は別の意味で響いた。
何も知らないと思っていたのは、どっちだろう。
九条が真琴を見つめる。
「データ、取れるか」
「……わからない。でも家のクラウド共有、生きてるかも」
「確認しろ」
真琴はバッグからノートパソコンを取り出した。
幸い、これは捨てられていなかった。昔、税理士事務所で働いていた頃に使っていた私物だ。
電源を入れる。
青白い光が暗い部屋を照らす。
ログイン画面。
指先が震える。
「パスワード覚えてるか」
「……たぶん」
真琴はキーボードを打ち込んだ。
エラー。
もう一度。
違う。
心臓が速くなる。
「落ち着け」
九条の低い声。
真琴は深呼吸した。
健一の癖。
好きなワイン。
記念日。
打ち込む。
次の瞬間、画面が切り替わった。
「あ……」
クラウドフォルダが開く。
真琴は息を呑んだ。
そこには大量のファイルが並んでいた。
経費一覧。
請求書。
外注データ。
そして。
『BUY-SELL_EXT』
真琴の鼓動が跳ねる。
九条が低く言った。
「開け」
真琴はクリックした。
フォルダの中に並ぶ数字。
取引一覧。
個人口座。
利益分配表。
明らかに会社を通していない金の流れ。
真琴は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
怒りだった。
悲しみじゃない。
胃の奥で、静かに黒い火が燃えている。
健一は、自分を捨てた。
邪魔な家政婦みたいに。
でも。
真琴はゆっくり口元を歪めた。
九条がそれを見て、少しだけ目を細める。
「いい顔するじゃねぇか」
真琴は画面から目を離さず、静かに呟いた。
「終わるのは……」
その声は、もう震えていなかった。
「私じゃない」




