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第一話 あなた、もういらない

第一話 あなた、もういらない


 午後七時を過ぎた頃、真琴は最後のスープを火から下ろした。白い湯気がふわりと立ち上がり、コンソメとバターの甘い香りが静かなダイニングに広がる。テーブルには健一の好きなローストビーフ、赤ワインソース、彩りよく並べた前菜。銀色のカトラリーは曇りひとつなく磨かれていた。


 窓の向こうでは、東京の夜景が濡れたガラス越しに滲んでいる。春の終わりの雨だった。


 真琴はエプロンの裾でそっと手を拭き、時計を見た。


「……遅いな」


 呟いた声は、やけに広いリビングに吸い込まれていく。


 今日は結婚五周年だった。


 去年は忘れられていた。今年こそはと思い、朝から時間をかけて料理を作った。健一の好きな店のワインまで取り寄せた。たぶん、馬鹿みたいだ。そんな考えが胸をよぎっても、真琴は打ち消すように微笑みを作った。


 玄関の電子ロックが開く音がした。


 真琴はぱっと顔を上げた。


「おかえりなさい」


 だが、返ってきたのは健一ひとりの足音ではなかった。高いヒールが床を鳴らす乾いた音が続く。


 真琴の笑みが止まる。


 玄関から現れた健一は、濡れたコートを脱ぎながら面倒くさそうに言った。


「飯、まだ?」


 その隣で、若い女が遠慮もなく部屋を見回している。艶のある巻き髪。高級ブランドのバッグ。甘ったるい香水の匂いが空気に混じった。


 女は真琴を見るなり、小さく笑った。


「あ……奥さん? はじめましてぇ」


 真琴は言葉を失ったまま立ち尽くす。


 健一はネクタイを緩め、ため息混じりにソファへ座った。


「麗奈、適当に座って」


「はぁい」


 まるで自分の家みたいに女が笑う。


 真琴は乾いた唇を動かした。


「……誰?」


「会社の部下」


 健一は平然と言った。


「終電なくなりそうだから寄っただけ」


「結婚記念日なの」


「あっそ」


 その一言で、胸の奥が静かに軋んだ。


 真琴は必死に笑おうとした。


「ご飯、用意してるから……」


「いらない」


 健一はワインボトルをちらりと見て鼻で笑った。


「こういうの、重いんだよね」


 麗奈がくすくす笑う。


「でも奥さん、ちゃんとしてるんですねぇ。私だったらこんな面倒なこと無理かも」


 その声音に、わずかな嘲りが混じっていた。


 真琴は指先が冷えていくのを感じた。


 健一はスマホをテーブルへ放り投げると、真琴を見もしないまま言った。


「で、本題なんだけど」


 空気が変わった。


 雨音だけがやけに鮮明に聞こえる。


 健一は退屈そうにソファへもたれた。


「離婚してくれ」


 真琴は瞬きを忘れた。


「……え?」


「だから離婚。もう無理なんだよ、お前といるの」


「なに……言って……」


「そのまんまの意味。俺、麗奈と一緒になるから」


 麗奈は困ったような顔を作りながらも、隠しきれない優越感を滲ませていた。


「健一さん、ちゃんと話すって言ってたからぁ……」


 真琴は健一を見た。


 冗談だと思いたかった。


 だが健一の目は冷えていた。コンビニで不要なレシートでも捨てるみたいな目だった。


「お前さ」


 健一が面倒くさそうに続ける。


「もう女として終わってるし」


 その瞬間、真琴の呼吸が止まった。


「毎日すっぴんで、家にいて、話もつまんない。正直、一緒にいて疲れるんだよ」


「……私、ずっと……」


「尽くしてた? だから何?」


 健一が鼻で笑う。


「お前、俺が稼いだ金で生きてただけじゃん」


 真琴の視界が滲む。


 違う。


 違うのに。


 家計管理も、保険も、税金も、投資も、全部やってきた。健一が仕事だけに集中できるように支えてきた。深夜帰宅の日には温め直した食事を出し、休日も取引先への手土産を用意した。


 なのに。


「荷物まとめて出てって」


 健一が言った。


「……え」


「もう手続き終わってるから」


「手続き……?」


「カード止めた。口座も凍結。マンション名義、来月変更」


 真琴の背筋が凍る。


「待って……そんな……」


「あと、その辺のお前の荷物、かなり捨てたから」


 ガン、と頭を殴られたみたいだった。


「……捨てた?」


「使ってないだろ、どうせ」


 麗奈が楽しそうに部屋を見回す。


「この部屋、広くていいですねぇ」


 真琴はふらつきながら寝室へ向かった。


 クローゼットを開けた瞬間、息を呑む。


 空だった。


 母からもらったコートも、仕事時代のスーツも、アルバムもない。


「……うそ……」


 膝から崩れ落ちる。


 胸の奥が痛かった。息を吸うたび、肺の内側が裂けるみたいだった。


 後ろから健一の声がする。


「泣くほどのこと?」


 真琴はゆっくり振り返った。


 健一は冷めた目で立っていた。


「お前さ、自分が捨てられないとでも思ってた?」


 雨が強くなる。


 数十分後、真琴は小さなキャリーケースひとつでマンションの外へ立っていた。


 冷たい雨が頬を打つ。


 傘もない。


 エントランスのガラス越しに、麗奈が笑っているのが見えた。


 真琴は震える指でバッグを探った。


 スマホ。


 画面が滲んで見えない。


 何度も失敗して、ようやく一つの名前を押した。


 九条蓮。


 コール音が鳴る。


 数秒後、低い声が耳に届いた。


「……真琴?」


 その瞬間、張り詰めていたものが切れた。


「九条……っ」


 声が震える。


「どうした」


 真琴は雨の中で立ち尽くしたまま、小さく言った。


「……帰る場所、なくなった」


 沈黙。


 やがて九条が静かに答える。


「そこ動くな。迎えに行く」


 電話が切れたあと、真琴は暗い空を見上げた。


 雨は冷たいのに、頬だけが熱かった。


 三十分後、黒い車が止まる。


 運転席から降りた九条は、ずぶ濡れの真琴を見るなり眉を寄せた。


「……ひどい顔」


 真琴は笑おうとして、失敗した。


 九条は自分のコートを真琴にかける。


 微かに煙草と革の匂いがした。


 車へ乗り込んだ瞬間、真琴の涙が溢れた。


 九条はしばらく何も言わなかった。


 ワイパーの音だけが静かに響く。


 やがて赤信号で車が止まり、九条が前を向いたまま低く言う。


「で?」


 真琴は涙で濡れた顔を上げる。


 九条の声は静かだった。


「泣いて終わるか?」


 そしてゆっくり、真琴を見る。


「それとも――戦うか?」



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