再び 俺の嫁
あ、と美術準備室の扉をくぐってスクリーンに映し出された絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/52/Madame_C%C3%A9zanne_au_conservatoire%2C_par_Paul_C%C3%A9zanne.jpg)を見たとたん七海は小さく声をあげた。
「どうしました?」
スクリーンにつないだタブレットを操作しかけたとこで止まって、やあサキちゃん、と言った後賢人が続けて言った。
「この絵がどうかしましたか?」
その絵、と大机にカバンを置きながら七海うれしそうに言った。
「この絵知ってます」
ほう、と賢人が楽しそうに頷いた。
「では、題名を教えてください」
はい、と嬉しそうに頷いた七海は、顔の前に人差指を立てながら言った。
「ズバリ!『着衣のモアイ』です」
「は?」
「これは、『裸のモアイ』と対になった、服を着ている方のモアイですね?」
「それは本気で言ってます?」
「やや本気ですが?」
「“やや”以外の部分は何なんですか?」
さあ、と七海は首をひねった。
「ヤル気ですかねえ?」
「では、サキちゃんの精神は微量の本気とそれ以外のヤル気で構成されているわけですか?」
なんか、と七海は半眼になると賢人を見つめた。
「なんか、最近の賢人さんは辛辣ですね?」
「毎日、毎日、サキちゃんとチイちゃんにおちょくられていますからね」
その上、と言いながら賢人はため息をつきながら椅子に腰を下ろした。
「最近は沙織さんも加わって、大変なんですよ、ぼくも」
部長、帰ってきてくださいよぉ、と賢人が嘆息した。
んで、と七海はスクリーンを振り返った。
「この絵はなんなんですか?」
これは、と賢人が頷いた。
「『温室のセザンヌ夫人』です。ポール・セザンヌが自分の妻を描いた絵ですよ」
賢人の説明を聞き終えてから、じっとその絵を見つめた七海は、おお、と納得いたように一つ手を打つと賢人を振り向いた。
「ハロウィンですか?」
「は?」
「このご婦人は、本当は超絶美人なのに、モアイの仮装をしているわけですね?」
「どこの誰がモアイの仮装をした自分の奥さんを絵にすると思います?」
「ポール・セザンヌです」
「なぜそうも断定的に言い切るのですか?」
「ではこの絵はなんなんですか?」
「これはセザンヌの奥さんの顔、そのままなのですよ」
再びじっとスクリーンを見つめた後、七海はさぞ驚いたかのように賢人を振り返った。
「では、セザンヌはモアイと結婚したのですか?」
「どうしても彼女をモアイにしたいわけですね?」
「ゴーギャンがタヒチに行ってエキゾチックな現地女性を妻にしたように、負けじとイースター島に行ったセザンヌはモアイを妻にした、そんな絵をではないんですか?」
「それ本気で言ってますか?」
「やや本気です」
「残りはヤル気ですか?」
「ご明察」
「ばかだなあ」
遅れてやって来た早紀は、スクリーンの絵を見、二人の話を聞くと笑った。
「これがモアイの絵のわけないじゃん」
ですよねえ、とわずかにほっとしたように言った賢人に、早紀は確信を持って頷きかけた。
「これはモアイのモデルとなった幻の長頭人種の最後の生き残りです」
ため息をついてうつむいた賢人に、七海は胡散臭そうな目で早紀を見た。
「なんだよ。最後の生き残りとか、なんでお前がそんなことまで知ってるんだよ」
「知ってるんだから仕方ないじゃん。違うって言うんならサキちゃん証明してみなよ」
悪魔め、っていうかこういうの悪魔の証明とか言うんじゃなかったっけ?
んで、と早紀は賢人を向いた。
「この絵、何でしたっけ?」
だからさっき言ったでしょ、と再び賢人がため息をつく。
「これはポール・セザンヌが自分の奥さんを描いた絵です」
セザンヌ?と早紀は不思議そうに瞬きした後スクリーンを振り返った。
「セザンヌって、静物画が多いですよね。肖像画も描いてたんですね」
ええ、と賢人も早紀の視線の先、スクリーンを見た。
「ただ、彼は描く対象物をとことん観察し理解して描きたいという画家だったせいでモデルがわずかにでも動くと激怒したそうで、人を描いたものはあっても肖像画というのはそれほど多くは無く、ほとんどが自画像ですね。そんな中で、セザンヌは妻のオルタンス・フィケの絵を30点以上描いています」
なんか、こいつも性格に難有りな画家みたいだな。
なるほどお、と難事件に思考を巡らせる探偵のような目で絵を睨んだ早紀は、ややあって賢人に向かって頷いた。
「動かないために、自分は石像だ、石像だ、と言い聞かせているうちにこんな顔になってしまったわけですね?」
「どうしても彼女をモアイにしないと収まらないわけですね?」
「自分の奥さんをモデルとして描いている画家は結構いるんですよ」
とりあえず座りましょうか、と遅れて顔を見せた夏樹も含めて大机を囲んで座りコーヒーで一息入れたところで賢人が改めて言った。
ナルホド、と顔を見合わせて頷き合った七海と早紀は賢人を向いた。
「そりゃあ、モデル料がいらないですもんね」
「だよね」
夏樹がくすっと笑い、賢人がため息をつく。
「まあ、それもあるでしょうが、やっぱり自分の愛する人の美しい姿を留めておきたいという愛情からでしょう」
美しい姿って、モアイじゃん。
じっとスクリーンを見つめた七海は、そういえば、と賢人と夏樹を見た。
「セザンヌって、確か理想の女性を描こうとして描けない画家の苦悩を書いた小説とかのモデルにされて友達の小説家と絶交したとかなかったでしたっけ?」
はい、と賢人がうれしそうに頷いた。
「よく覚えていましたね、それはエミュール・ゾラの『制作』です」
なるほどお、と早紀がスクリーンと賢人の顔を見比べる。
「そりゃあ苦悩もしますよね。くそおおおっ、女性を描こうとしてもどうしてもモアイしか描けないっ、とか」
「どうしてもそこに行くのですね?」
嘆息した賢人はタブレットを手に取るとそれを操作した。
「セザンヌがオルスタンを描いた絵にはこんなのもありますよ。ほら、これ、これは『黄色い椅子のセザンヌ夫人』(https://stat.ameba.jp/user_images/20160316/21/seuratsan/27/23/j/o0400050813593995708.jpg)です。これならモアイっぽくないでしょ?」
確かに、と七海と早紀は頷いた。
「これは高度経済成長期の日本の銀行員ですね?」
早紀が七海に向かって無言で手を差し出し、こちらも無言でそれを握り返した七海はがっちりと握手した。
それを見てため息をついた賢人はスクリーンの絵を消した。
「まあ、それはともかく」
夏樹が笑いながらとりなすように言い、タブレットを手に取った。
「自分の奥さんを描いている画家は沢山いて、その描き方によって、夫婦関係もなんとなく想像できるケースもあるわよ」
例えば、とその手がタブレットの表面をなぞる。
「クロード・モネと最初の妻のカミーユ、とかね」
最初の妻?と七海が顔をしかめた後スクリーンを振り返る。
「なんか、陽気な絵ですね?」
これは、と賢人が解説する。
「これは『ラ・ジャポネーズ』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/99/Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg)ですね」
「なんなんすかね、この日本趣味満載の絵は?」
「この頃のヨーロッパではすごい日本ブームが到来してたんですよ。その頃描かれた小説にも「最近はなんでも日本風だ」というセリフが出てきますよ」
ほおう、と七海はスクリーンを見つめ、その横で早紀が、けっ、と吐き捨てるように言った。
「パツキンのカミさん見せびらかすような絵とか、モネもしょせんブルジョアかよ」
いえいえ、と賢人が手を振った。
「これはカツラですよ。これ以外の絵のカミーユは亜麻色か黒髪に描かれていますよ。ちょっと貸して」
夏樹に向かって手を伸ばした賢人は、受け取ったタブレットを操作した。
「モネが描いたカミーユの絵の中でぼくが好きなのはこれ、『散歩、日傘をさす女性』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/Claude_Monet_-_Woman_with_a_Parasol_-_Madame_Monet_and_Her_Son_-_Google_Art_Project.jpg)ですね」
それを見た七海は、ああ、と頷いた。
「“見たことがあるような”絵ですね。これ」
「ですね。ふっと振り返ったようなこの立ち姿ってすごく絵になってますからね、ここからインスピレーションを得た画家や漫画家、写真家もいると思いますよ。この絵は見たことないけどこんな感じの絵見たことがある、の典型みたいな絵ですね」
「ちっこいのもいますね?」
「これは二人の息子です。モネは彼を溺愛してたそうですよ」
ただ、と夏樹がわずかにうつむいた。
「セザンヌもそうだったんだけど、モネとカミーユも決して幸せな家庭生活だったわけじゃないのよね。二人は典型的な格差婚だったから」
格差婚?と七海と早紀は顔を見合わせた。
「なんとなく意味はわかるんですけど、具体的にはどんな感じなんですか?」
「モネの家は中産階級、一方カミーユは労働者階級の出身だったんです」
夏樹の後を受けるように言った賢人に、でも、と七海は首を傾けた。
「モネってフランスの画家ですよね?フランスって革命以降そういう階級って意識されなくなったんじゃないんですか?」
とんでもない、と賢人手を振った。
「インドでは現在でも異なるカーストでは結婚しないことで知られていますが、19世紀に入ってからでもヨーロッパでは上中流階級の家に労働者や農民の階級の人が嫁ぐのは結構ハードルが高かったんですよ。日本でだって、江戸時代には農家や商家の娘が上流の武家に嫁ぐ際には、一度武家の養子になって武士の階級になってから嫁ぐというのは慣習的に行われていましたから」
ほおう。
「モネとカミーユとの交際にはモネの実家は大反対でしたけど、実家からの仕送りなしには生活が成り立たなかったモネはカミーユとの交際を隠すために、身重の彼女をパリの富裕な友人に預けて実家に帰り長期滞在したりしてたくらいですからね」
だらしない男だな、モネ。
「ただモネはカミーユとの間にできた息子ジャンを溺愛し、30歳の時にカミーユと結婚しました。しかしこの結婚に大反対だったモネの父親は結婚式には出席しなかったそうです。ちなみに、結婚の証人はギュスタール・クールベだったそうですよ」
ああ、クールベさんが。
「少しずつ絵も売れるようにはなってきてはいましたが、生活は相変わらず苦しくかったそうです。そんな中、実業家のエルネスト・オシュデという人物がパトロンとなってくれ、生活も少しずつ上向くのですが」
ふむふむ。
「オシュデ氏が破産し、あろうことか妻と子を連れてモネに家に転がり込んでくるのです。なおかつ、彼はすぐに失踪し、その後死亡します」
なして?!
「なんでそんなことになってるんですか?」
実は、とちらっと夏樹を見てから賢人は言いにくそうに口を開いた。
「実は、オシュデ氏の妻のアリスとモネはそれ以前から不倫関係にあったという話があるのです。労働者階級出身のカミーユと違い、上流階級出身の彼女は知識も豊富で芸術にも理解が有り、モネとも気が合ったのでしょうね」
ナルホド、と早紀が頷いた。
「じゃあ、モネのところに行こうと画策したのはアリスちゃんだね。愛人関係にあるなら、頼っても断らない、と。そうじゃなきゃ、パトロンしてて多少を恩を売っていた程度の理由でモネを頼ろうは思わないだろうからな」
「なるほど、そのおっさんモネと嫁の様子を見て、ああそういうことか、と薄々察して、財産も妻の愛も全てが失われたと絶望して姿をくらましたんだろうな」
「飼い犬に手を噛まれるの典型だね、これ」
「じゃあ、モネくそ野郎説確定ということで」
賢人が、そういう言い方やめましょうよ、とため息をついた。
七海は、そんな賢人の顔をじっと見つめた後首を傾けた。
「じゃあ、うんこの君?」
「いや、丁寧に言えばいいってもんじゃないですから」
そして、と夏樹が言った。
「その当時、二人目の子を産んだ後、産後の肥立ちが悪かったカミーユはほとんど寝たきりだったそうよ。そんな中で、カミーユは貧しいながらも幸せな家庭に転がり込んできた夫の愛人に看護される生活を送るという屈辱を受けるわけ」
うわあ、ひど過ぎる。
そりゃあ、と早紀があきれた声をあげた。
「私なら、余計に体調悪くなりそう」
夏樹は頷いた。
「おなざりな看護を受け、ほとんどほったらかしにされている病室の隣の部屋から、夫とまるで家族のように振る舞うアリスとその子供達の笑い声が聞こえてくるわけですものね」
その上、と賢人が沈痛そうに首を振った。
「アリスとオシュデ氏の間の子の一人は、実はモネとの不倫によってできた子ではないかとする説もあるくらいですからねえ」
いくらなんでも修羅場が過ぎる。
そして、と賢人が続けた。
「そんな中で、カミーユは若くして亡くなります。モネは死後すぐにカミーユの姿を絵に残しています。それがこれ」
スクリーンに、一面に荒く描いた青っぽいグレーの色彩の絵が映し出される。
「『死の床のカミーユ』(https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/s093251349da78e77/image/i1716044f4985c359/version/1641973277/image.jpg)です。モネはこの絵を最後に人の顔を描くことを止めました。カミーユの絵はあれほどに描いたのに、後に再婚するアリスの絵は描いていません」
あ・・・
小さくため息をついた七海は額を押さえた。
「なんだかんだ言いながら、やっぱりモネはカミーユのことを愛し」
「違います」
へ?
「モネは、後に友人への手紙で『永遠に別れる人の最後の姿を絵に留めようとするのはごく自然なことだが、自分はその思いがわく前に、(死んだ人間の肌の)色彩のショックに描かずにはいられなかった』というようなことを書いています。あれほどまでに愛したカミーユの死に彼が感じたのは、悲しみよりも先に、死んだ人間の顔色の変化への尽きない興味だったのです。もうこれは芸術家の業というか宿痾というか」
吐き気がしてきた。
「カミーユの死後、モネはアリスと再婚、彼女の内助の功も得てモネの絵は人気が、特にアメリカで人気が出て高値で取引され、彼は大金持ちになります。まるで彼にとってカミーユが貧乏神で、アリスが幸運の女神ででもあったかのように」
晩年、と賢人は続けた。
「モネはルーブル美術館に存命中に絵が飾られた最初の画家にもなります」
結局、と七海は賢人を見ながら瞬きした。
「モネは、カミーユとアリスとどちらをより愛してたんですかねえ?」
賢人がわずかに寂しそうに笑った。
「何てこと聞くんですか」
「いけませんでしたか?」
いえ、いけないとかではなく、と賢人が笑みを浮かべたまま軽く首を振った。
「そんなこと聞くまでもないでしょ、という意味でです」




