カミングアウトの余波(前編)
その日。
いつもの昼食の相手が風邪をひいて休んでいたため、米倉早希は教室で一人ぼんやりと弁当を食べていた。
そのせいだろうか、背後で響いた、おい、という声が妙に耳につき、なんとなくその続きに耳を傾けた。
「何やってるんだ、加藤」
ああ、と低めの声が頷いた。
「絵を見ている」
ちらっと肩越しに盗み見ると、後ろの席の加藤圭介がクラスの山口ナントカにスマホの画面を向けるところだった。
別に愛想がいいわけでも話が面白いわけでもないのに、なんとなく人が寄ってくる奴だよな、こいつ。
これがご人徳とか言う奴ですかねえ、と続きに耳を傾ける。
「絵?漫画か?」
「いや、昔の絵画だ。最近興味があってな、よく見ている」
賢人さんが言っていたこと着実に実行して行ってるなこいつ、と早希は半眼になるとうつろに笑った。
「絵画?お前そんなの好きなのかよ。あ、そういやお前いつも放課後直ぐに帰ってるけど、部はそっち系の部だっけ?なんってったっけ、そう、絵画鑑賞部とか?」
いや、と加藤は首を振った。
「俺は漫研だ」
ぶっ、と吹き出しかけた玉子焼きを掌で慌てて口に押し戻す。
「漫研?え、お前そういうのが趣味なのか?」
「いいや。俺は漫画は嫌いだ」
じゃあ何でそんなもん入ってんだよ?
「じゃあ、何で漫研に入ったんだよ?」
「中学校時代の先輩に、部員数が予算に関係ない帰宅部に入るくらいならうちに入ってくれ、と頼まれてな。一切参加しないでいいなら、という条件で入った」
でもようと、空いていた加藤の隣の椅子を引いて適当に座った山口が首を傾けた。
「漫画が嫌いって珍しいな、お前」
うむ、と加藤が頷いた。
「実は、小学校の低学年の頃に東京の親戚の家に遊びに行った事があるんだが」
ふむふむ。
「俺の遊び相手を押し付けられた大学生だった従兄弟が、俺をコミックマーケットというイベントに連れて行ってくれたんだ」
コミックマーケット?って“あれ”のことか?
「コミックマーケットって、あれか、コミケのことか?」
「そうとも言うらしい」
おいおい、とあきれたような声が言った。
「あんなもん小さな子供が行く、というか行けるイベントじゃないだろ。俺も聞いただけだけど、壮絶なイベントだって聞いているぞ?」
加藤が小さく頷いた。
「彼も良く知らなかったらしい。きっかけは、なんか子供が好きそうな漫画のお祭りみたいなのやってるそうだよ、行ってみようかあ、あははは、みたいな感じだったのを覚えている」
んで、どうなったよ?
「それで、どうだった?」
「地獄だった・・」
額を押さえて俯いた加藤が、本当に地獄の底から響いてくるような声で言った。
「それ以来、俺は漫画一般が嫌いになってしまった」
ホントこいつキャラ持ってるな、飽きんわ、と早希は食べることも忘れて続きに耳を傾けた。
「んで、何で今は急に絵画なんだよ?」
うん、とわずかに嬉しそうな声が答えた。
「尊敬している先輩に勧められてな」
へえ、と少し感心したように山口が頷いた。
「お前、そういう高尚なのを勧めてくれる先輩とかいるのかよ。案外付き合い広いな」
実は、絵画鑑賞そのものを勧めたわけではないのだよ山口くん、と早希は心の中でナンアイダブと手を合わせた。
勧めてくれたのはもっと低俗なことです、はい。
「んで、どんな絵を見てるんだ?」
うむ、と加藤は再びスマホの画面を山口に向けた。
「今はミケランジェロ、ルノワール、ダリ辺りがお気に入りだ」
時代もジャンルもバラバラじゃねえかよ。
ふ~ん、とスマホを一瞥した山口は興味無さそうにすぐに目を逸らせて加藤の顔を見た。
「それならいっそのこと、ほら、さっき言った絵画鑑賞部とか入ってればよかったよな。あそこ帰宅部らしいけど、ガチでやってる変な奴らも居るらしいからさ」
ああ居るよ、きみの視線の右斜め45度付近にな。
いや、と加藤はわずかに困ったように手を振った。
「あそこは、ちょっとダメなんだ。行き辛い事情があってな」
言うなよぉ~言うなよぉ~と、呪いをかける強さで念じながら、早希は折れそうに強く箸を握り締めた。
「ダメって、何でだよ?」
実は、とワイワイとうるさい昼休みに偶然に生まれた会話の空白に静まり返った教室に、正直至上主義者の声が響き渡った。
「あそこには、気になる子が居てな」
教室に居た女子の半数が睨むような目で一斉に加藤を振り返った。
ああ・・・
涙を流しながら早希は天を仰いだ。
終わった・・・
「サキちゃんっ、ちょっとサキちゃん!」
階段の少し先を行く七海を見つけた早希が、素早く辺りを見回し、声を潜める様にして呼びかけた。
振り返った七海は、よっと手を振った。
「チイちゃんも今からかい?一緒に行こうか?」
そんな暢気なことを、と七海の手を引いて二階まで階段を駆け上がった早希は、柱の陰に七海を引きずり込むと自らも身を潜めながらそっと辺りを見回した。
「私の送ったメール見てないのかい?」
「うん、まだ見てないけど?なんかあったの?」
「もうっ、親友からのメールはすぐに見ろよ!」
チッチッチッと、七海は立てた人差指を振った。
「そもそもシンユーとは・・」
「いいよそのネタはようっ!謝るから止めろよっ!大変なことになってるんだよ!」
早希は、ここまでの経過を興奮した口調で説明した。
「もう、先月、加藤が女の子を訪ねて絵画鑑賞部に来たとこまで広まっちゃってるんだよ。サキちゃんまで辿り着かれるのも時間の問題だよ!」
「それのどこが大変なのさ?」
「加藤、女子に異様に人気あんだよ!」
変質者が?!
「入学以来、何人も加藤にアタックして玉砕してんだよ!それもかなり冷たくあしらわれたって聞いてるの」
「その子ら“無い人”だったの?」
「刺すぞ」
ぐっと七海の胸倉を掴んだ早希は直ぐにその手を放した。
「ともかく!その子らの逆恨みやら、まだの子からの嫉妬やら、この前言っていた出刃持った子が下校途中に立ち塞がる、ってのが現実味を帯びてきたよ!」
「まさか、そこまではないっしょ?」
ちょっと、という声に振り返った二人は、とたんにひいっと声を上げて抱き合った。
手に持った包丁を真っ直ぐに二人向けながら、その少女はわずかに目を細めた。
「今そこに居ましたらお二人の会話が聞こえたもので」
軽く顎をしゃくった少女に、うっと、二人は首を捩じった。
まさか何の気配も感じなかったこの扉の向こう側に人が居ようとは!
後ろ側の扉から足音を指せずに二人に忍び寄ったのだろう彼女の目が更に細くなった。
「お二人のどちらかが、噂になっている絵画鑑賞部の「サキちゃんと呼ばれている子」ですの?」
もう噂に?!
い、いや、と二人は震えながら互いを指差した。
「こ、こっちがサキちゃんこと米倉早希ですが・・」
「い、いえ、私は名前は早希ですが、普段はちっちゃいチイちゃんと呼ばれて・・こっちが先っちょサキちゃんです・・・」
「い、いえ、私はナナちゃんこと戸田七海であって・・・」
それよりも、とごくっと唾を飲み込みながら二人は同時に少女を指差した。
「・・手にお持ちのものはなんのために・・・」
ん、と言いながら不思議そうに自分の手を見下ろした彼女は、おっと、と言いながら手に持っていた包丁を左手に持ち替えて背後に隠し、改めて右手で二人を指差し直しながら『調理室』のプレートを見上げた。
「失礼。料理研究部の備品の整理をしていた最中でついうっかりと」
二人は同時にため息をついた。
「名乗るのが後になりましたね、失礼。私は2年C組の西園寺麗子と申します」
見ろよ!と叫びながら早希の襟首を掴んで引き寄せた七海は麗子を指差した。
「あんたが変な事ばかり言うから、少女マンガの敵役みたいな名前の人が登場しちゃったじゃないかっ!」
「それ、私のせい?」
七海の失言を聞き流した麗子は、軽く咳払いをした後、再び繰り返した。
「ところで、絵画鑑賞部には「サキちゃん」と呼ばれている面白い子が居ると噂に聞いたのですが」
その“面白い”は本来の意味の面白いじゃないだろ?
それに、聞いたのはその“面白い”子の“面白くない”噂じゃないのか?
はいは~い、と早希が背後から七海の両肩に手を置いてにっこりと微笑んだ。
「これがその噂のサキちゃんでございます」
あ、ばか、誤魔化す方法考えるためにもうちょっと時間稼げよ!
「ちなみに、噂というのは、一年生の加藤くんのことではないでしょうか、あ、私同じクラスで」
A組、と言いながら早希はニッコリと両手で自分の顔を指差した。
「いやね、彼ね、最近絵画に興味があって、絵画鑑賞部の私の所に聞きに来たんですよ。いわく」
人差指を立てながら、早希はしかめ面しく麗子に頷きかけた。
「モネとマネの違いがわからない、と」
何言ってるの、こいつ?
無言で早希のよく動く口を見つめていた麗子の眉がぴくっと動いた。
「そこで私が紹介したのがサキちゃんなので~す」
パンパンとクラッカーのはじける音が聞こえそうな声で早希が叫んだ。
「こう見えましてこのサキちゃん、マネとモネの違いに関する我が部の第一人者なのですっ!!」
ずいぶんとニッチなジャンルの狭い範囲での第一人者だな、おい。
それがどうしたんですかねえ、と人差指を顎に当てながら早希は天井を見上げた。
「気になる事があるから、と絵画鑑賞部を訪ねてきたはずが、気になる子がいるから、と絵画鑑賞部を訪ねてきたっていうことになっちゃってるんですよねえ。不思議ですねえ」
七海は麗子の顔を振り返った。
早希の言葉を全く信じていない胡散臭そうな顔で、麗子はじっと早希の笑顔を見つめていた。
しかし、まあいいでしょう、とあっさりと二人に背を向けた麗子は、呼び止めて悪かったですね、と言いながらゆっくりと歩むと調理室の中に入り静かに扉を閉めた。
扉をくぐる瞬間、無表情な目でちらっと二人を見た口元が笑っていた。
笑わない方がましな顔だった。
調理室の扉が完全に閉まるのを待ってから無言で頷き交わした二人は背を向けると同時に駆け出し、階段を駆け上がった。
「ひいいいっ、もう二年生にまでシンパがいたのかよ加藤。ヤバいっ、ヤバすぎるよおおっ、あの人っ!!」
「う、うんっ、さりげなく背を向けたようでいて、その瞬間包丁の切っ先がこっち向いたよ、危なすぎる!」
「と、ともかく早く賢人さんに相談しよっ。あの人なら絶対何かズルい方法考えてくれるよっ!」
あんたから見た賢人さんてそんな感じ?
息もつかせずに美術準備室まで走った二人は叩きつける様にして扉を開いた。
「賢人さんっっ!!」
「やあ」
と言いながら、部室で一人でいた沙織が自ら入れたのだろうコーヒーカップを手に、無表情に片手を上げた。
「お遅いお着きで」
すました顔でコーヒーを啜った沙織の顔を呆然と見た後、えっ、えっ、と七海は美術準備室の中を見回した。
「け、賢人さんは?え、夏樹さんはっ?」
ああ、と沙織が頷いた。
「ご近所で不幸があったそうです。あのお二人お隣同士で長馴染みだそうですね。今日は一度顔だけ出して帰られました、お通夜だそうです」
よろよろと座り込んだ七海は、はっと美術室の方を見ながら戸に摑まりながらなんとか立ち上がろうとした。
「こ、この際三輪さんでもいいや・・・あの人も結構頼りに・・・」
ああ、とカップを片手に頷いた。
「彼女なら先ほど声がしていましたけど、もう帰ったみたいですよ」
ちくしょう、この時間に顔を出したということは今日は巡回の日かよ!
なら、今日はもう来ないに違いない。
「ど、どうしよう・・どうしよう・・・」
わずかに眉をしかめて、おろおろと辺りを見回す七海を見た沙織は、ふむ、と言いながらカップを置いた。
「何かお困りごとのようですね。面白そうです、私で良ければ伺いましょう」
チクショーっ、と叫びながら床に両手をついた七海はポロポロと涙をこぼした。
「こんなややこしい時に、こんなややこしい人しか相談する相手がいないのかよっ!!私にはっ!!」
「いくらなんでもそれは失礼だよ、サキちゃん」




