第11話「地獄の開帳」
ペタ、ペタ、と裸足が木製ステップを叩く乾いた音が、静寂のリビングに響き渡っていた。
一段、また一段と、確実に死刑執行の足音が近づいてくる。
「蓮……っ、お願い……離して……っ!」
涼子は喉を締め上げられたような掠れ声で懇願し、息子の胸板を必死で押し戻そうとした。
だが、その指先は恐怖と絶頂の余韻で力が入らず、震えるばかりだった。捲り上げられた衣服、はだけた胸元、乱れきった髪。肌には赤い鬱血痕が散り、空気中には濃密な熱気が澱のように立ち込めている。
僕――白石蓮の肉体は、彼女の逃げ場を完全に塞いだまま、一歩も退く気配を見せなかった。
やがて、螺旋階段の曲がり角から、人影が滑り出てきた。
詩乃だった。
オーバーサイズの男物のスウェットを無造作に羽織り、胸元を緩めたまま、気だるげにスマートフォンを握りしめている。首筋には遠藤がつけたであろう真新しい痣。喉の渇きを潤すために、キッチンへミネラルウォーターを取りに来たのだろう。
詩乃は画面から目を離さず、気のない足取りで最後の一段を降り立った。
「ねえ、お母さん……冷蔵庫の炭酸水、どこに入れた――」
言葉が、唐突に途切れた。
リビングの中央、薄暗い間接照明に照らされた白革のソファ。
そこで折り重なる二つの影を捉えた瞬間、詩乃の爪先がピタリとフローリングに縫い付けられた。
カラン、と。
手から滑り落ちたスマートフォンが、硬い床を跳ねて鈍い音を立てた。
だが、その音に反応する者は誰もいなかった。
静寂。
息を吸い込むことすら許されない、絶対零度の静止。
「……あ……?」
詩乃の喉から、空気の抜けるような細い音が漏れた。
黒目が信じられないほど見開かれ、焦点が激しく揺らぐ。
視界の先にある光景の意味を、彼女の鋭敏な知性が理解することを拒絶していた。
端正で上品、誰よりも厳格で、家庭の規律を守るべき最愛の母親――白石涼子。
その母が、胸元を無残にはだけさせ、シーツのようなソファの上に乱れた姿で崩れ落ち、涙と脂汗で顔をぐしゃぐしゃに歪めている。
そしてその上から覆いかぶさり、母の腰を強く引き寄せているのは、家庭内で空気のように扱われ、ただ命令に従うだけだった無口な弟――白石蓮だった。
乱れた衣服。充満する生々しい体温の匂い。
何が行われていたのか、疑う余地など微塵もなかった。
「……お母、さん……?」
掠れた呟き。
その声を聞いた瞬間、涼子の全身が電流を流されたように跳ね上がった。
「ひ……っ、あ……あぁぁぁ……っ!」
涼子は両手で自らの顔を覆い、言葉にならない悲鳴を上げた。
見られた。
最も見られてはならない娘に、実の息子と肌を重ね、快楽に狂い乱れていた最悪の現場を、真正面から見据えられた。
母親としての尊厳、長年守り続けてきた良妻賢母の仮面、家庭の誇り。
そのすべてが、たった数秒の静寂の中で、音を立てて粉々に爆砕した。
「詩乃……違うの……これは、違うのよ……っ!」
言い訳にもならない言葉を叫びながら、涼子はソファから滑り落ちるようにして床に手をつき、乱れた胸元を必死にかき抱いた。
だが、その姿こそが、何よりも雄弁に罪の深さを証明していた。
「な……に……これ……?」
詩乃の白い頬から、急速に血の気が引いていった。
唇がガチガチと小刻みに震え、足元がぐらりと揺れる。
「何なのよ……これ……! 嘘でしょ……? お母さんと……蓮が……? なんで……どうして……っ!?」
混乱と嫌悪、そして底知れぬ恐怖が、彼女の顔を急速に歪めていく。
大学で誰もを跪かせてきた傲慢なマドンナの表情はどこにもない。そこにあるのは、自らの拠って立つ足場が突然奈落へと崩落した、無力な子供の絶望だった。
僕はソファからゆっくりと身体を起こした。
乱れたパジャマの前を整えることもせず、静かに素足で冷たい床を踏み締める。
そして――呆然と立ち尽くす詩乃の前へと、一歩、歩みを進めた。
「ひっ……!」
詩乃が短く息を呑み、本能的な恐怖から後ずさりした。
その瞳に宿っていたのは、かつて僕を路傍の生ゴミのように見下ろしていたあの冷酷な光ではない。
正体不明の怪物を見るような、底知れぬ戦慄。
「……近寄らないで……っ! 化け物……! あんたたち、狂ってる……頭がおかしいよ……っ!」
叫び声は裏返り、涙がポロポロと大きな瞳から零れ落ちていた。
完璧だった彼女の箱庭。
贅沢な暮らし、清潔な家族、都合のいい恋人、下僕のように扱える弟。
自分を中心にして美しく回っていたはずの清潔な世界が、最も神聖であるはずの母親の背徳によって、一瞬で汚泥の地獄へと塗り潰されたのだ。
「詩乃」
僕が低く、澄んだ声でその名を呼ぶと、詩乃の身体がビクリと跳ねた。
僕はあの日、雨の日の講義棟の前で彼女が僕に向けたのと寸分違わぬ、感情の抜け落ちた絶対零度の眼差しを、まっすぐに彼女の瞳へと突き刺した。
「気味が悪いかい?」
「え……?」
詩乃が息を呑む。
かつて自分が誰かに投げつけたはずの毒針が、いま、実の弟の口から、寸分の狂いもなく自らの心臓へと突き立てられた。
その奇妙な符号に、彼女の青ざめた顔が一層引きつる。
「汚らわしいだろ。……でもね、これがこの家の現実だよ」
僕は背後で震える涼子を振り返りもしなかった。
床に崩れ落ちた母親は、もはや詩乃の顔を見ることすらできず、僕の足首に縋り付くようにして、無様に涙を流し続けている。
「うわぁぁぁぁぁッ――!!」
耐えきれなくなった詩乃の喉から、絶叫が引き裂かれるように溢れ出た。
彼女は両手で耳を塞ぎ、階段へ向けて狂ったように駆け戻っていった。
バタン、と二階の奥で、激しくドアが叩きつけられる音が響き渡る。
取り残された薄暗いリビング。
足元で嗚咽を漏らす母親の温もりを感じながら、僕は暗闇を見つめ、静かに息を吐き出した。
偶像は完全に砕け散った。
だが、この惨劇の結末は、まだ幕を閉じてはいなかった。




