表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

愛宕神社

五月十九日。

光秀は居城の坂本城にいた。

書院の外から聞こえる湖のさざ波が、張り詰めた心をわずかに和らげていた。


徳川家康の接待役という大役を果たし、その任を堀秀政へ引き継いだばかりであった。今ごろ家康は安土城で能を鑑賞しているはずだった。


だが光秀は、信長より新たな軍令を受けていた。


『家康の接待、ようやった。

 秀吉を助けに向かえ。毛利に手こずっておる』


役目は一転し、西国への援軍となった。


坂本城内ではすでに戦支度が始まり、家臣たちが慌ただしく動いている。


光秀の前には古びた紙が置かれ、そこには動員可能な兵数が記されていた。


(……兵一万三千。二万には届かぬか)


報告は娘婿・左馬之助(明智秀満)からのものだった。


光秀は大きく息を吐いた。

信長からは「二万を率いて参れ」と命じられていたからである。


その時、左馬之助が書院へ姿を見せた。

手には折りたたまれた一通の書状を持っている。


行祐ぎょうゆう様からにございます……」


「行祐様から……」


光秀は思わず声を漏らした。


左馬之助は一礼して去り、光秀は書状を広げた。

読み進めるにつれ、光秀の表情がふっと柔らかくなる。


「……お耳が早いの」


威徳院行祐いとくいん ぎょうゆう

愛宕山五坊の一つ「威徳院」の住職であり、光秀とは以前より親交があった。光秀はかつて愛宕山へ二百石を寄進しており、行祐はその恩義を忘れていなかった。


書状には、こう記されていた。


『西国へ向かわれるのであれば、

 その前に愛宕山にて戦勝祈願の連歌を営み、

 心を整えられては如何か』


光秀は微笑み、声を張った。


「左馬之助、おるか──」



***


五月二十四日――この日は激しい雨が降っていた。


光秀は行祐と面会すると、西坊にしぼうと呼ばれる宿坊に通された。


「ご無沙汰しております」


光秀が声をかけ、行祐が座につくのを見届ける。


「お忙しいところ、ご足労いただき、祝着にございます……」


行祐は両手を合わせ、深々と頭を下げた。


その指先がわずかに震えているのを、光秀は見逃さなかった。

雨の冷気か、それとも不安か──。


板葺きの屋根を叩く雨音が、沈黙の合間を埋めるように響いていた。


「本日お越しいただいたのは、他でもございませぬ。

 近頃……山の向こうが騒がしゅうございまして……」


光秀は、とっさに目を細めた。


「……騒がしいとは」


行祐は深く息をつき、話を続けた。


「ある僧が申すのです。

 夜半、得体の知れぬ音が響くと。

 その者の話では……あれは……

 火縄の音ではないかと。

 日向守ひゅうがのかみ様、

 どうか愛宕にて戦勝祈願を営まれつつ、

 山を鎮めてはいただけませぬか」


光秀の顔から笑みが消えた。


「行祐様……山とは、どちらの山を申す」


「あちら側にございます」


行祐が指し示した方角を見て、光秀は肝を冷やした。

深い雨霧しか見えぬ。

だが──

その先は、比叡山であった。


その時、若い僧が書院に近づいた。


「日向守様、お支度が整いました」


光秀は行祐の指から視線を外し、僧に向き直った。

その一瞬、鋭い殺気が漏れ、僧は思わず身を引いた。


光秀は僧の後に続き、西坊の広間へ向かった。

屋根を激しく叩く雨音が耳に障り、苛立ちが胸に広がる。

思わず山の方へ顔を向ける。


雨音とは違う──

乾いた音が聞こえるのではないか。


光秀は足を止め、比叡山の闇を睨み返した。



***


広間には連歌の会に相応しく、静かな空気に満ちていた。


当代随一の連歌師・里村紹巴さとむら じょうは、その弟子・里村昌叱さとむら しょうしつ、連歌師・猪苗代兼如いなわしろけんにょ、そして光秀の嫡男・光慶みつよしらが、すでに座についていた。


廊下での動揺を悟られぬよう、光秀はゆっくりと、極めて丁寧に座についた。


連歌の会では、正装が原則だった。

光秀は烏帽子えぼうしを正し、直垂ひたたれの膝を整えた。


主催者である光秀が、発句ほっくを詠むことになっていた。


懐紙のわずかな凹凸、筆の穂先の柔らかさを指先で確かめる。古い香の匂いと、湿った畳の匂いが鼻をくすぐった。


光秀は、あれほど気にしていた雨音を、意識の底へ押し込もうとした。


ふと正面の行祐と目が合う。その瞳は──

すべてを見透かしているようでもあり、同じ恐怖を共有しているようでもあった。


すずりで墨を磨る音でさえ、火縄銃の火蓋を切る音に聞こえる。指先の震えが、墨の一滴を懐紙に落とした。


光秀は目を閉じ、息を整え、口を開いた。


ときいま

 あめしたなる

 五月哉さつきかな


詠み終えた光秀は、雨に煙る外をじっと見つめた。


(……聞こえぬ。

 雨がすべてを覆い隠す。

 比叡の闇で火縄が灯ろうとも、

 この雨の下にある私は、

 主君か、あるいは私自身が

 ほうむられるのを待つしかないのか。

 この五月は、私を──

 いや、織田の天下そのものを

 泥へ沈めるつもりか……)


光秀の発句は、激しい雨音に呑まれていった。

本来なら風流を愛でる座であるはずが、今はまるで抜身の刀を突きつけられたような殺気が漂っていた。


里村紹巴は、光秀の握る筆先が懐紙を突き破らんばかりに、震えているのを見逃さなかった。


(日向守様、これは……連歌ではござらぬ

 ――悲鳴にございます)


紹巴はそう確信し、冷や汗が背を伝った。



***


西坊を出てから、どれほど歩いただろうか。本殿の脇を抜け、さらに険しさを増す奥の院への道に入る。濁流のような雨水が、足元をさらい、踏みしめるたびに泥が跳ねた。


「日向守様、これ以上は……」


背後で息を切らす行祐の声も、激しい雨音に呑まれていく。


標高九百メートルの頂に近いそこは、下界の五月とは別世界の、凍てつく冷気に支配されていた。


ようやく辿り着いた奥の院の崖際。晴れていれば京から比叡の稜線まで一望できるその場所は、今や底の知れぬ闇に沈んでいた。


光秀は、この三日間、ひたすら叡山の方角に耳を澄ませていた。だが降り続く雨は、すべての音を消し去っていた。


(この耳で聞くのじゃ。

 火縄の音なら、絶対に聞き違えぬ。

 刺客は動いておるのか……

 それとも、ただの思い過ごしか)


その疑念が、三日分の重みとなって光秀の肩にのしかかっていた。


行祐は、もはや執念に近い眼差しで光秀を見つめていた。三日間付き添った彼もまた、疲れ果て、責任感に押し潰されそうになっていた。


「日向守様……三日三晩、

 こうして耳を澄ませてまいりましたが……

 この雨では、いかに日向守様といえど聞こえませぬ。

 お体を壊しまする……

 どうか宿所へお戻りくだされ……」


光秀は濡れた顔を拭おうともせず、ただ闇の向こうを凝視していた。その瞳は、見えぬ敵を探し続け、焦点が合っていなかった。


行祐は、これから戦へ向かう光秀を案じ、このまま返すわけにはいかぬと決意する。


「最後の一夜、本殿へ戻り……

 神仏にお問いなされませ。

 これほど尽くされたのです……

 神仏も、きっとお答えくださりましょう……」


光秀はようやく頷き、行祐を見た。


三日間の緊張と疲労で、軽装は湿気を吸って重くなり、体温を奪っていた。その冷えが、比叡山焼き討ちの夜を思い起こさせた。


「あい、わかった……」


その言葉を聞き、行祐は大きく息を吐いた。



***


雨の湿気で指先にまとわりつく、おみくじの竹筒。光秀は振るたびに、己の意志とは無関係に、運命が勝手に音を奏でるような恐怖に囚われていた。


すでに二度引き、いずれも「凶」。

そして三度目──。


震える手で三度も引き直す光秀を見て、

行祐は悟った。


(この方は託宣を求めておられるのではない。

 『やめよ』と言ってほしいのだ……)


三度目は「大凶」だった。

光秀は、誰に向けるでもなく呟いた。


「何をすれば良いと……申されるのですか」


その声は、神仏への怒りのようでもあり、己の無力さへの嘆きのようでもあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ