本能寺炎上
天正十年(1582年)六月二日早朝、信長は男の叫び声で目を覚ました。その直後――鉄砲の音が聞こえ、勢いよく立ち上がった。
誰かが廊下を走ってくる。
その音が聞こえ、信長は直ちに刀を握りしめた。
「……御館様!」
その声は森蘭丸だった。寝所の襖を開け、中に入ってきた。
「青色桔梗の御紋、明智殿の軍勢にございます!」
声を張り上げる蘭丸の表情は、驚きと怒りに満ち、胸は大きく上下していた。
「やはり来たか……」
信長は、それだけしか言わなかった。
蘭丸から弓を受け取り、目が見る見るうちに鋭くなっていった。
信長は白装束を羽織っただけの姿で、廊下に出て、南門に向かっていた。塀の向こうには、青色桔梗の旗指物がいくつも見え、慌ただしく動いていた。
廊下に面した壁には火矢が刺さったままだったが、信長は構わず進んだ。
――南門は突破されていた。
裏口である南門、そこが突破され、数十の兵が押し寄せていた。
信長の小姓たちが槍を持ち、必死に戦い、食い止めていた。
「信長じゃ……信長じゃ!」と兵士たちが騒ぎ始めた。
信長は弓を持つと、すぐさま塀をよじ登り、火縄銃を構える兵に向かい、矢を射った。男は塀から崩れ落ち、視界から消えた。
信長は恐れをなして近づけない兵たちを見つめ、違和感に気付いていた。
明智の軍勢は、織田家随一の精鋭揃いだった。いくつもの戦場をくぐり抜けてきた兵たちだった。だが――信長が目にしている兵の鎧には、傷が一つもなかった。
信長に気づき狙いを定める兵がいた。信長は弦を引き、素早く射った。その男は首に矢が刺さり、倒れていった。他の兵が信長に弓を射るが、弦を引く指の運びが、ぎこちなかった。そして狙いも甘く、放たれた矢は壁に当たっていた。
信長は外れた矢を視界の隅に捉えていた。
続いて銃声が響いた。
信長は反射的に体を動かしたが、その弾は逸れ、当たることがなかった。
その際、一人の兵が縁側にいた。男が背中に括り付けた旗指物――それはあまりにも大きく、時代遅れだった。正規の織田軍の旗指物は、機動性を考慮し、小さい物だった。
信長はふっと笑みを漏らした。
(……違う)
「光秀、貴様ではないのだな……」
その時――東門の方から「ドンッ、ドンッ」と複数の銃声が響き、信長はその音がした方を振り向いた。
「蘭丸!」と声を張り上げると、信長は本殿の渡り廊下を音を立てて歩き、縁側の下に兵がいるというのに、構わず進んでいた。
「御館様!」と蘭丸が身を案じるも、「当たらぬわ!」と大声を張り上げた。
信長が突如現れ、矢が放たれるも一矢も当たらず、かすめず、壁に突き刺さるだけだった。
そして――ドンッ、ドンッ、ドンッと銃声が近くなっていた。
本能寺の正門である東門も、突破されていた。水堀にかかる橋を渡り、兵がなだれ込んでいた。
「御館様!」
拙い口調で呼ぶ男を見つめ、信長は「……弥助!」と笑みを浮かべた。
黒き大男、弥助は主君信長にも引けを取らない、南蛮風の鎧を身に着け、奮戦していた。縁側に上がってこようとする敵を、槍で引き留めていた。
弥助が一たび槍を振り回せば、その迫力に兵たちは一歩二歩と下がっていった。弥助が使う槍の柄は、鉄の棒だったのだ。
地面には倒れ、動けなくなった兵が、いくつも横たわっていた。
「……弥助、存分に暴れよ!」
「はっ!」
弥助は信長に近付こうとする兵の胸を一刺しにし、その体を放り投げていた。兵たちは弥助の怪力に恐れをなして、容易に近づけなかった。
その時――ドンッ、ドンッ!と銃声が聞こえた。
弥助は「御館様!」と叫び、信長の盾となり銃弾を受けた。
だが――弥助の鎧は傷跡をつけただけで、鉄の球を弾き飛ばしていた。
互いにうっすらと笑みを浮かべ、目の前の敵に視線を戻していた。
塀の上から矢が放たれ、シュッ、シュッという音が弥助と信長をかすめていた。信長は次の矢が放たれると、槍の柄で矢を弾き飛ばし、「こうやるのじゃ!」と弥助に見せていた。
弥助も「は!」と応え、同じ動きで信長に向かって放たれる矢を防いでいた。
ドンッ、ドンッ!
次の瞬間――弥助の背後から「ンッ……」と低い声が聞こえた。
「御館様!」と蘭丸が叫んでいた。
信長の左肩が、赤く染まった。その色は白装束に大きな染みを作っていた。
「構うな!」と言う信長であったが、表情は険しかった。
その隙に蘭丸にも矢が刺さり、「クッ……」と声を上げた。
ドンッ、ドンッ!
盾になろうとした小姓二人が、その場に倒れた。信長は倒れていった小姓たちの顔に視線を落としていた。
シュッ、シュツ。矢が飛んできて、弥助は何とか防ごうとしたが、その内の一矢が信長の右腿に刺さっていた。
「ンッ、ンッ!」と信長の苦しむ声を聞き、蘭丸が信長の体を支えた。
「ここは……危のうございます!御館様、奥へ!」
蘭丸はそう言うと、すぐ近くの襖を開け、信長を伴い御殿の中に消えていった。
その途中、信長は蘭丸に命じた。
「……火を放て」
***
信長が奥に消えたのを境に、御殿の至るところから火の手が上がった。たちまち白い煙が立ち込め、煙は、主を隠すように広がり、やがて濃くなった。
南門と東門では、生死を賭けた攻防が繰り返されていた。しかし――多勢に無勢、数に劣る守備側に勢いが、なくなっていった。
一人倒せば、また一人。
敵が崩れた隙間に、すぐに新手が踏み込む。
小姓が一人、また一人と倒れていった。
まずは南側の均衡が破れ、敵が御殿内に慌ただしく侵入していた。
信長は蘭丸に抱きかかえられ、足を引きずり、進んでいた。御殿の中に忍び込んだ敵の動きに耳を澄ませ、時には槍で突き、敵を倒し、蘭丸は襖という襖に次々と火を放っていった。
東門が突破されたころには、縁側にまで煙が立ち込め、そこから中に入れない状況となっていた。
信長は奥へ奥へと進む途中、数名の女中が狭い間で座りこんでいるのを見つけた。
女たちは「御館様!」と声を掛ける。
「何をしておる!はよ逃げよ!」
左肩は血で滲み、右足には矢尻が刺さったままの主君を見て、女中たちは男の覚悟を悟った。
「ご無事で……」
女中たちは立ち上がり、そう声を掛けると、信長は振り返らず、さらに奥へ消えていった。
火の勢いは、追手のそれより遥かに速かった。蘭丸が放っていった火は次第に勢いを増し、それは大きな炎となり、上へ上へと伸び、やがて天井を這っていった。
ガタガタと大きな音を立て、柱が倒れ、天井が崩れるところが増えていた。
そんな時――
一人の女中が着物を頭に羽織り、逃げていた。
御殿廊下の向かい側では、小姓の一人が御台所(台所)に通じる縁側で敵の侵入を必死の形相で食い止めていた。
女中は追手がすぐそこまで迫っていると気付き、足早に去ろうとした。
煙が辺りを包み始め、視界が悪くなる中、女中は柱の陰から御台所を覗いた。大男が白襦袢を着た男を肩に担いでいた。
女中は、呟いた。
「……御館様」




