九話 午後の推察・前
「えーと、改めまして」
薆の入った水槽の前に、ひょろりとしたシルエットが立つ。
「俺は、鳩森ロイ。日×英ハーフ、二十六歳の暇人でえす。そして、こちらの万年寝不足学者・ナオヤンの友人をやらせてもらってます。あと、驚かせてすんませんした」
男は美しい鰭の人魚を前に、チャラリとネックレスを垂らしながら直角のお辞儀をする。
誰が寝不足だ、と睨みを利かす架場に、顔を上げた鳩森は不敵な笑みを浮かべた。
「い、いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
薆は、タイプが違うようで仲の良い二人に意外そうな表情をしている。
目をぱちくりとさせる彼女の前に、架場は進み出ると薆の収まる水槽のガラス面に、軽く手を置いた。
「この、人魚になってしまった彼女が皆瀬さん。身体に変化が起きたのは、他者から購入したシロップを飲んだことが原因だそうだ。その、世にも恐ろしいシロップを販売していた人物にもう一度接触する──その計画の内としてハモ、お前を呼んだというわけだ」
「はあ……シロップで人魚に、ねえ」
架場の話を聞いた鳩森は突然、動き出す。
何か思いついたのかと思いきや、水槽にもたれる薆の濡れ髪にそっと触れた。
「……名前は?」
「あ、えっと。薆です」
「オーケー、薆ちゃんね。それにしても可愛いね、君。あまり目立たない感じだし、気づかれにくいっしょ?こういうの、和風美人って言うよね。俺タイプなのよ」
彼の言葉に、薆は引き攣った笑みを浮かべる。
初っ端から薆を誑かす鳩森に、架場は彼の頭を鷲掴みにした。
「挨拶して早々に口説くんじゃない。下品だ」
「はあ?口説いてないし!それに、唯一の友に向かって下品とか言うな!」
「下品なものは、下品だ。何も、間違ったことは言っていない」
架場は鳩森の頭から手を離すと、近くのソファに腰をかける。
口を尖らせる鳩森も、彼の隣に並んで座るとスキニーの細い足を組んだ。
見慣れない部屋と生活感の漂う家具に視線を走らすと、鳩森は薆の方を振り向いた。
「……ああ、そういうことか!ここ、206って薆ちゃんの部屋だったんだね。ナオヤンと同じフロア」
「あ、はい。そうなんです。私はこの通り、身動きが取れない状況ですし。架場さんには、交換条件で助けていただける話になったので、これからのことも考えて、この部屋を使ってもらうようお願いしました」
「そういうことね。てか、何なの。その交換条件って」
「ああ、それは──」
「ゴホンッ」
薆が言い出そうとしたところに架場の声が割り込む。
「人魚化を解くための手助けをする過程で、生態のデータを取らせて欲しいと、俺から彼女へ願い出たんだ」
架場の発言に、鳩森は顔を歪める。
「うわあ、やることがやっぱりナオヤンだわ。身動きとれなくて困っている人に、手を貸すから観察させろって……薆ちゃんの気持ちも、少しは考えたら?」
鳩森の言葉に、薆は小刻みに首を振る。
「いえ、私は良いんです。一人で不安だったところに架場さんが来てくれたので。ただ、こう……ジロジロ見られるのは、少し複雑なんですけど」
恥ずかしそうにTシャツの肩を摩る彼女に、架場はふいと慌てて目線を逸らした。
「そ、そうか……すまない。見過ぎないよう、善処する」
「え、ええ。それでお願いします……」
ぎこちない、二人のやりとりの後に部屋はシンと静まり返る。
(……ハハ。おもしれえ空気してんな、この二人)
鳩森は面白そうにしたかと思えば、今度はソファに踏ん反り返ると、不機嫌そうに隣の架場を見た。
「ていうかさ、なんで俺は呼ばれたの?さっき、サラッと"計画の内"とか言われたけど。その観察だか、研究だか。手伝えって言われても無理だかんね。俺、ギリ単タイプの文系脳だし、ナオヤンみたく"ああ、こいつはシチリア海峡に多く生息していて云々"的な分析とかできないし。てか、フツーにできるわけなく無い?この平々凡々に何を期待してんの」
「期待?何を言っているんだ。ハモ、お前は俺たちの足役として呼んだんだ。俺は、運転免許を持ってないだろ」
「は、はあっ?!じゃあ要するに、雑用のために呼ばれたってこと!?」
眉を吊り上げる軟派男に、架場は笑う。
「正しくは雑用じゃなく、俺の協力者ってところだな」
「協力者……」
架場の言葉ひとつで、不満気だった彼の顔に笑顔が戻った。
「へへ。まあ、悪くはねえな」
──午後1時、206号室。
水槽に近づく鳩森の後ろで、架場はビニール袋片手にテーブルに散らかったデリバリーピザの残骸を片付けている。
「──おお、遠目で見たら柔らかそうなのに。意外と硬い」
「……」
無心で鳩森に尾をつつかれる薆は、ふと薬屋で拾った妙に堅いチップのことを思い出した。
(そうだ、あの綺麗なチップ──)
薆は、鱗を眺めている鳩森を呼ぶ。
「あの、鳩森さん」
「ハモで、いーよ」
「ハモさん。私のカバンから財布を取ってもらってもいいですか」
頼まれた鳩森は、水に濡れた手をTシャツの裾で雑に拭くと薆の元へ財布を持ってきた。
薆は財布のファスナーを開けると、小銭の中に紛れた虹色の小さなチップを摘み上げた。
「ハモさん……ほら、これ。私の鱗に似てると思いません?」
「ああ、ホントだ似てる。どうしたの、これ。ネイルチップみたいだけど」
「私にシロップを売りつけた、変人のいる薬屋で拾ったんです」
顔を寄せてチップを覗き込む二人の背後に、架場は静かに近づく。
話題の代物を目にした彼は、ズボンのポケットから取り出したハンカチを使うと薆の手からチップを掠め取った。
「おい、何すんだよ。貸してくらい言えよな」
鳩森の文句も気にせず、架場はハンカチで摘んだチップを部屋の電気に翳す。
「厚み……層がしっかりしている。そして、このオパールのような光沢感──」
架場は、手に持ったチップを薆の鱗の横に並べた。
「…… 一致。これは、人魚の鱗だ」




