八話 春の幻惑
「ナオヤン、今度は何を飼うん……?」
水槽の中身に興味深々の鳩森に、架場は口を結ぶ。
「……なんだよ、その顔は。え、もしかして俺、見ちゃダメなやつ?」
「いや、逆だ。お前に見せなきゃ話は始まらない」
架場は水槽に掛かるタオルケットの端を持つ。
「いいか、今から見せるものは紛れもない事実だ。ドッキリなんて、くだらないものじゃない」
「お、おう」
「いくら驚いたとしても、失礼なことは口走るな。大声も出すんじゃない」
「おう……って、それ。ナオヤンが言えたことじゃないだろ。なんで急にそんなこと言い出すんだよ」
「お前なら、やりかねないからだ。俺は前もって注意したからな、いいか。布、降ろすぞ」
「はいはい、もったいぶらずに早くしてくリョ」
──パサリ……
架場の手によって思い切り引かれたタオルケットの中。そこには──華奢な身体のラインを拾うTシャツを纏い、水槽の中で尾を畳む人魚の姿があった。
「Jesus……」
少し申し訳なさそうな表情の人魚に、彼は肩にかけていたトートバッグを床に落とす。
「に、人魚?本物……?」
「ああ、本物だ」
「嘘……だろ……」
「俺に、こんな手の込んだ嘘をつく暇があると思うか?」
「……」
鳩森は、ふらっと水槽の前に進み出ると目の前の人魚に向けて手の平を差し出した。
「お、おい!勝手に触るんじゃ──」
架場の注意が届かぬ間に、人魚は差し出された彼の手に、自分の手をハイタッチをするかのように静かに重ねた。
鳩森の大きな手に触れる、水に湿った細い指先。
これは、造りモノじゃない。
肌のしっとりとした質感に、血の通った生暖かさ──
「う、うわあ……っ!」
人魚の感触に驚いた彼の足が、後ろによろける。
人魚に触れた手を押さえ、呆然とする鳩森に架場はおかしそうに笑う。
「俺も彼女に初めて会った時、思ったさ。人魚なんて、居てもいいのかって。でも、こうして実体を見ていると、ああ、俺が見ているのは"生きた幻"なんだなって。俺、こんなの初めてだよ。こう、一度湧き上がった興味が止まることを知らないというか──」
──バタン。
「えっ!あっ、どうしよう、架場さん!」
水槽から身を乗り出す薆の視線の先、床の上には仰向けに倒れた鳩森の姿。
「ハモ!おい、ハモ!……嘘だろ、気絶したのか?」
焦った架場は、ペチペチと彼の頬を叩く。
架場の足元に転がる、脱力した鳩森の身体。
半開きになった口元からは、キラリと光る小さな真珠のような舌ピアスが覗いていた。
──午前11時。傾いた日差しがカーテン越しに部屋を温める。
ピチャリ、ピチャリ……チャポン。
中央に置かれた水槽の中で、薆が尾鰭をゆったりと動かす。
──ん……なんの音だ……てか、なんか身体ぽかぽかする。気持ちイ……
意識を取り戻した鳩森の耳に、二人の会話が聞こえてくる。
「……私ですか?今年で二十六になります。その、女性に聞いて良いものかは分かりませんが。皆瀬さんは?」
「私は今年、二十五です。驚きました、一歳差だったなんて。架場さん、大人びてるから」
──なんだ?ナオヤン。女の子と楽し気じゃん?
「……はっきり言って、老けて見えます?」
「あっ、ごめんなさい。そういう意味じゃないんです。落ち着きがあって、なんて言ったら良いのかな……色気がある、みたいな?」
「色気、ですか。初めて言われました」
架場の返答を最後に、二人の間には沈黙が生まれる。
──おい、待て待て。え?それで終わり?
痺れを切らした鳩森は、足で反動をつけると勢いよく起き上がる。
日に照らされた窓際、開いた窓の隙間から入り込む風が心地よい。
──なにコレ。なんか腹に掛かってる……誰のだ?
手に触れた女物のブランケットに、彼は我に返った。
「ああ!?俺、倒れて、そんで……え?」
目を覚ました彼に、向こうから架場が近づいてくる。
「起きたか。体調は?」
「あ、ああ……大丈夫。なんともない」
架場は、ボーっとする鳩森から薆のブランケットを取り上げると、膝の上でピシリと畳む。
「あ、あのさ、ナオヤン。俺が見たのって……」
「ああ。人魚で間違いないぞ」
間髪入れずに返ってきた現実の答え合わせに、鳩森は開いた口を手で塞ぐ。
「マジか……」
チラリと水槽の方を見ると、心配そうにこちらを見つめる人魚と目が合う。
じーっと凝視する鳩森に、人魚は少し照れ臭そうに微笑むとペコリと会釈をする。
彼女の反応に、鳩森の厳つい顔はたちまち頬を緩めた。
「……ほえ、可愛い」
「やめろ、そういうの」




