六話 架場と皆瀬
「──どうされましたか?助けが必要ですか?」
206号室の前──癖っ毛の男は、泣き声の主に尋ねたところで、あっと口を押さえた。
(しまった、迂闊にも声をかけてしまった!同室に男が居る可能性だってある。この瞬間、もしも彼女に暴力が及んでいたとしたら……)
男は、そっとドアに手を添えると小さなドアスコープ越しに目を凝らす。
足元から聞こえる啜り泣く声──彼女の姿は見えないが、ここから見える範囲に人の気配はない。
ガンッ、ガンッ──!
男が立つドアの向こう側、薆は靴べらで懸命に音を鳴らす。
「グスンッ……助けてください……痛くて、動けないんです……」
「落ち着いて。どこが痛むんですか?私に、できることは?」
玄関越しに聞こえる男の声に、薆は靴べらを離すとドアに縋りつく。
「あ……足……足が挟まれちゃって……すみませんが、ドアを開けてくれませんか……」
「分かりました、開ければいいんですね?」
男は、取っ手に手を掛けると206号室のドアを勢いよく開けた。
「大丈夫ですか!」
開いた扉の先──彼の目に飛び込んできたのは、まさしく神秘。
キャスケットの影に覗く潤んだ瞳に、肩まで落ちる濡れた髪。
小さな唇を噛み、尾鰭を抱え座り込む、美しくも艶かしい存在。
圧倒的で、幻想的。これがきっと、生命の骨頂──
七色の光沢を纏う鱗に、彼は小さく呟いた。
「人……魚……」
涙に濡れる薆の瞳と、動揺に揺れる男の瞳がぶつかる。
ハッとした薆は、目の前で硬直する彼に向かって手を伸ばす。
「あ、あの……すみません。このことは、黙っていてもらえ──」
──バタン。
彼女から弱々しく絞り出された言葉は、扉の閉まる音に掻き消された。
──ピチャリ、ピチャリ……
蛇口から滴り落ちる水音──薆は、水の張られた浴槽の中で正座をしている。
「……」
「……」
その浴室には──カーディガンの腕を捲った裸足姿の癖っ毛男。
男は、水に浸る彼女を見るのもいかがなものかと少しだけ視線を逸らす。
「……こんなことって、あるんですね。初めて見ました、人魚」
狭い空間に、彼の声は低く篭って聴こえる。
玄関先で人魚を目の当たりにした、この男──
"人魚だと?この世に、人魚が存在してもいいのか?"
そう頭を抱えた彼は、206号室の前で興奮から過呼吸気味になるなど盛大に戸惑った後、突然「人魚と言えど、元を正せば半分は魚。魚の生態に習うと、このままでは貴方の身体に障ってしまう」と、浴槽に半身が浸かる程の水を溜めると薆を浴室に抱え運び──そして、今に至る。
「あの……助けていただいて、ありがとうございました。説明したいのは山々なんですが、なんと言えば良いのか──」
困って尾鰭を揺らす薆に、男は彼女の目線に合わせてその場に跪く。
「先程は未知に遭遇したあまり、あんなにも醜態を晒してしまい。申し訳ありませんでした」
頭を下げる男に、薆は慌てて首を横に振る。
「いえ、そんな!貴方が気づいてくれなければ、私は……。自分がドジなのもありますけど、まさか尻尾であんなに苦しむなんて。あの痛みときたらもう、生き地獄でした」
気が抜けたのか、浴槽にもたれかかる彼女に男は自然と笑みを溢す。
「紹介がまだでした。私は、架場直弥。貴方と同じく、このマンションに住んでいます。職業は生物学者。あいにく、名刺は持ち合わせていなくて。簡単ですみません」
真面目な架場の挨拶に、薆も姿勢を正す。
「私は、皆瀬薆っていいます。職業は普通に会社員で、毎日ハードワークに音を上げています。先日、とある変人に関わって、この通り。無能なOLから迷える人魚になりました。何とかならない限り、しばらく会社にはいけそうにありません」
薆の定型からはかけ離れた挨拶に、架場は眉をひそめる。
「つまり、皆瀬さん──貴方は、その変人の手によって人魚に変えられてしまったということですか」
「直接的ではないですよ。夜、その人から買ったシロップを飲んで起きたら、この身体に。騙された私にも落ち度はありますけど、こんな非現実的でデタラメな薬を売る店の方がありえません」
「そうですか……そうですよね、なるほど……」
「あの、架場さん?聞いてます?」
薆の視線の先──架場は両手で浴槽の縁を掴んだ姿勢のまま、何かに見入っている。
薆は、彼の視界を濡れた手で遮った。
「架場さん、私の鱗が気になるんですね」
「あ、ああ……すみません、つい。それにしても実に綺麗です、この鱗。イトヨリダイが持つオーロラのような体表に近く、尾の先端はベタ──ハーフムーンの尾鰭を想わせる。そして、極め付けはどの魚も持ち得ぬであろう、この透明感。見事だ……」
好奇心から目を輝かせる架場に、薆は微妙な表情を見せる。
「あの、もういいですか?あまり見られるのは、ちょっと」
「ああ、そうですよね……すみません。出過ぎた真似を」
架場は敵意はないと言うように両手を上げると、そのまま後退り、浴室の壁にピタリと張り付いた。
仏頂面のコミカルな動きにフフフと笑った薆は浴槽の縁に腕を組み、そこに顎を預けると話し始めた。
「……実は私、シロップを購入した例の店に向かおうとしていたところだったんです。でも、この足ですからね……人間の時のようには歩けないし、人目に付くのはもっと困るし。不安、不安で。誰かに相談したくてたまらなかったんです」
水の中で気持ちよさそうにうねる薆の尾鰭に、架場はゴクリと喉を鳴らす。
「……、ですよ」
「ん?なんです?」
「……いい、ですよ。相談も、必要であれば同行も」
「えっ、本当に?いいんですか?はあ、良かった……ありがとうございます、助かります……これでもう、心細くない……っ」
安心したのか、薆の頬には次々と涙が伝う。
「フフ。架場さんは、私の救世主ですね」
純粋に喜ぶ彼女を前に、架場の胸がチクリと痛む。
(彼女が本気で困っているというのに。この状況で俺は、彼女の身体しか見えていない。こんな情け無い男が、どこに居るっていうんだ)
架場は、壁から離れると再び、薆の前に跪く。
恥ずかしそうに手で涙を拭う彼女に、架場は言った。
「やっぱり……嘘をつくのは好きじゃないので、ここで言います。皆瀬さん……いえ、人魚の貴方に興味があります。私は貴方の人魚化について一切公言しないことを約束する。その代わり、貴方が人魚である間にその生態記録をデータとして残す──このことを許して欲しい。それを分かってもらえるのならば、私は皆瀬さんの協力者になりましょう」




