五話 マーメイドの窮地
キュッ……──
シャワーを止めた薆は肌を伝う水滴も気にせず、浴室の扉を開けるとリビングまで這って移動する。
この短い間で分かったこと──人魚は、水から出てしまえば思うようには動けない。
薆が起きた時に感じたのは、水の中でしか活き活きとできない人魚族が渇きによって自由を失った重み、そのものだった。
木材のフローリングに、濡れたままの髪から水が滴る。
重たくなった髪を無造作に掻き上げると、薆はまだ残量のある咳止めシロップを手に取った。
「これだ、これしか考えられない──」
昨夜の、あの新海とのやりとりを思い出す彼女の尾鰭が不機嫌そうに拍子を刻む。
「新海、あの男……心配するフリをして、平然と私に嘘をついていたってことじゃない。目の前でシロップを飲んだのも、これは安全だと印象を擦り付けて私を騙すため。それに、自分が格好良いっていう自覚があったんだわ。ルックスを活かした、あの気さくすぎる態度!危険にも気づかせない、軽やかな話術!全ては私に、この違法シロップを飲ませるため!はっ、頭にクるわ……直接会って文句を言ってやらないと。それに身体だって、元通りにしてもらわないといけないし……」
薆は、シロップを机に置くと深いため息をつく。
昨夜の私は残業に囚われて、ただでさえ弱っていた。
終始、あの新海のミステリアスな雰囲気と、それでいてどこか憎めない人柄に充てられて──得体の知れないものを買うなど、正気ではなかったのかもしれない。
そう思い直した薆は、ビジネスバッグの中からスマートフォンを取り出すと何かを調べ始めた。
小刻みに鳴るフリック音が運ぶ文字──検索欄に入力されたのは『品川 薬屋Ocean』の並び。
キーボードの虫眼鏡マークを押し、検索結果を漁るもOceanという名の薬屋はヒットしない。
英文字に掛かったのは、"Blue Ocean"という過去の建造物に関する当時のニュース記事だけだった。
「おかしい……どうして何も情報が無いの?あんなに多くの薬を扱ってる薬屋なら、地元である程度の定評があってもおかしくはないのに。それに、私は毎日、あの道を通勤で使ってる──なのに、外観からして目立つ店に今まで気づかなかったのも納得できない。そうだわ……やっぱり、あれはただの薬屋じゃない」
薆はキャスケットを深く被るとショルダーバッグに必要品と咳止めシロップを詰め込み、スマートフォンを片手に玄関へと向かう。
(新海は、あの薬屋を僕の家だと言っていた。もしそれが本当なら、今すぐ会って確かめなきゃ。なぜ私に接触したのか、なぜ嘘をついてまで私にシロップを飲ませたかったのか……)
玄関先、ドアを開けようとした彼女は全身鏡に映る自分の姿に、手を止めた。
呼吸をするように、うねる尾鰭に薆は言葉を失う。
「……這っていくしかなさそうだけど。下に着いたらタクシーを拾えるし、大丈夫。うん、行ける」
キャスケットのつばを下げて顔を隠すと、背伸びをして鍵を開けた。
──ガチャリ……
そっとドアを開け、タイミングを見計らい今だと外に出ようとした時。
ゴミ袋を両手に持った女性が、パタパタとサンダルを鳴らし足早に206号室の前を通りすぎる。
「!?」
驚いた薆は、反射的にドアの内側に身体を引っ込めた。
「ふう……ふう……何やってるの、私!犯罪者でもないのに」
薆の額には、いつの間にか汗が滲んでいる。
咄嗟に他人の目を逃れた、彼女の内心は不安でいっぱいだった。
──もし、他の人がこの姿を見たら?UFOも、ネッシーも、ツチノコも信じられていないこの世界に、人魚を信じる人なんているはずがない。きっと私の話なんて、誰も信じてくれない──
今日のところは辞めようと、ドアから手を離した直後。
「……いっ!痛〜〜〜〜っ!!」
玄関先に、悲鳴が響き渡る。
「はあっ……痛いっ!あっ……あああっ!ダメ、動かせない……っ」
転がり泣き喚く薆の薄い尾鰭は、閉まり切ったドアと床の間に挟まれている。
無理やり引き抜こうとすると尾部の先端には激痛が走り、ドアを開けようとするも痛みのせいで身体が言うことを聞かない──
人魚の尾部には、微細な神経が無数に走っている。
薆の今の状況は、人間の構造で例えるなら伸びた足の爪を頑強なペンチで引っこ抜かれているようなものだった。
想像を絶する痛みと、このピンチに薆はボロボロと涙を流す。
「痛い……痛いよおっ……お願い誰か、誰か……」
彼女は運良く床に転がっていた、くつべらに手を伸ばす。
ガンッ、ガンッ──
藁にもすがる想いで何度もドアを叩く。
助けを求めて音を出す薆の元に誰かの足音が近づいてきた。
「……誰も、気づかないのか?」
カーディガンのポケットに手を突っ込んだ癖っ毛の男性は辺りを確認した後、206号室の前に立ち止まった。
「あの……聞こえますか?通りがかったら泣き声が聞こえて。どうされましたか?助けが必要ですか?」




