四話 御伽なんてもんじゃない
「じゃ、気をつけて帰るんだよ。今夜は、そのシロップをちゃんと服用して、ぐっすり眠ること。また何かあれば来ればいいし、なくても来ればいい」
新海はドクターコートを脱ぐと、店先まで送り出してくれた。
「それは、また近いうちに寄って欲しいということですね」
「名付けのセンスはないのに、読心の才はあるみたいだね」
揶揄った新海と薆の間に、微妙な間が流れる。
店先に灯る、青い蛍光に照らされた新海の瞳──
得体の知れない神秘の前で、薆は言い返すことを諦めた。
「……また、来ますね。色々、ありがとうございました」
「うん、もう泣かないでね」
「泣きませんよ」
薆は恥ずかしそうに笑うと手の代わりに、持った紙袋を振った。
そして、新海に軽く会釈をすると彼女は穴の空いたままのスラックスの足を動かし、帰路についた。
新海は、髪を揺らす彼女の後ろ姿が遠くなっていくのを見つめる。
「またね、薆。人間の頑張り屋さん」
薆を見送った新海はふと、自分の店の看板を見上げた。
「……少し、派手? 薬屋って、こういう感じで良かったんだっけ」
──206号室。
「ただいま、おかえり。一日お疲れ様、どうもありがとう」
家に着いた薆は、軽く夕食とシャワーを済ませると髪を乾かしもせずにベッドに飛び込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ……はあ、疲れた」
遠のいていく意識の中、先の新海の言葉を思い出す。
"朝晩、キャップ一杯分を目安に飲んで"
"──今夜だと、寝る前に一杯だね"
薆は、既に重い瞼で転がった紙袋を手繰り寄せると言われた通り、蓋に注いだ咳止めシロップを一杯飲み干した。
「うっ……うえっ。まっずい……」
すごく不味いって、なんで言ってくれなかったの新海さん──口の中に広がる強烈な苦味と生臭さに顔を歪めながら、彼女はそのまま眠りに落ちていった。
──カツ、カツン。カツ、カツン。
誰かの靴音が、頭を酷く打ち鳴らす。
"君は、センスが無いね"
──そう、何度も言わなくたって。少しは自覚があります。
"無いよね、踊りのセンス"
──踊り?
目を開くと、薆が居たのは一面、澄み渡るような青のダンスホール。
浮き沈みする酔いそうな視点に映り込んでいるのは、黒いスーツ姿の新海だった。
先とは変わり、長い髪を解いている。
視点を下に向けると、そこには胸元の大きく開いた濃藍のドレスを着た自分が居た。
終わりの見えない空間に、新海と薆の二人きり。
手を取り合い、ダンスを交わす二人の足取りに合わせて舞台床には水の波紋が生まれる。
──私たち、どうして踊ってるんでしょうか。
"今夜は、久しぶりのパーティーだからさ"
──誰のパーティー?
"僕と、君の"
──招かれた記憶はありません。新海さん……突然、私の前に現れて。一体何が目的なんですか。
"そう、深く考えちゃいけないよ。何もかも忘れて、踊ろう。流れに身を任せて楽しむんだ、僕たちのパーティーを……"
頭上から降り注ぐ光の束に照らされて、揺れ動く薆のドレスは藍にも紫にも見える煌めきを纏う。
それはまるで、薆を見つめる新海の瞳のように。
ジリリリリ、ジリリリリ──
広くも狭くもない部屋に轟く目覚ましの音が、不思議な夢を終わらせる。
「うーん……お、重い……」
目覚ましを止めた薆は、腰から下に大きな違和感を感じた。
ずっしりと重くて、筋肉痛とはまた違う鈍い痛みが足の芯を締め付けているかのよう。
慣れない感覚に恐る恐る起き上がり、布団を捲ると──
そこには、虹色に輝く鱗に覆われた下肢が横たわっていた。
「なに、これ……私、どうしちゃったの!?」
突然の変貌に焦った薆は、現実を確認するようにペタペタと尾部に触れる。
鱗は少し渇いていて、魚特有のぬめりは大して存在していなかった。
薆は、下半身と同じように上半身も触れて確認する。
「上は、そのまま……」
彼女は、尾部を伸ばすと先端の尾鰭をパタパタと動かしてみた。
妖精の羽のように、無数の筋の通った鰭が別の生き物のようにうねる。
「これって……やっぱり人魚、だよね?」
とりあえずベッドから降りようとした彼女は、自分の脚が何かを訴えていることに気がつく。
朝起きたら喉が渇くように、魚と化した己の下肢は水分を欲していた。
「待て、落ち着け私……そうだ、お風呂……早く、水……水を浴びなきゃ」
薆は、風呂場まで重たい尾部を引きずるとシャワーの蛇口を捻る。
冷水を浴びた身体は、先とは比べ物にならないほど軽くなった。
「はあ、生き返った!って、喜んでる場合じゃない」
薆は不安から、貧乏ゆすりをするかのように尾鰭を風呂場のタイル床に打ちつける。
「この身体で私、これからどうしたら良いの……」
シャワーから降り注ぐ水音だけが聞こえる浴室で、薆は人魚になった自分の身体をきつく抱きしめた。




