十七話 再訪の朝
──Pi-Pi-Pi,Wake up……Pi-Pi-Pi,Wake up……
枕元に置かれた架場のスマートウォッチから、外人男性のダンディーな声が響き渡る。
「んん……誰?」
おかしなアラーム音に驚いた薆が目を覚ますと、隣にはスウェット姿の架場が腹の上で手を重ね、まるで死人のように眠っていた。
「なんて縁起の悪い寝方なの」
薆は"起きろ"と唱え続ける架場の時計をオフにすると身体を起こし、眠る彼の顔を眺める。
「昨日、知り合ったばかりなのに。同じベッドで寝ることになるなんて」
全く起きる気配のない無防備な架場に、薆は顔を近づける。
眠る彼の、少し高い体温が感じられるほどの距離。
閉じた瞼の下に刻まれた、小さな皺を見つけられる距離。
はっきりとした輪郭、喉仏、そして呼吸に合わせて上下に波打つ、厚みのある胸元──
男のパーツを順に目で追った薆は、そのまま架場の隣に肘をついた。
「……私と同じ匂いがする」
昨晩のことを思い出すと、薆は緩みそうな頬を抑える。
──皆で寿司を囲んだ、あの後。
架場は疲れと眠気から危ないノリを始めた鳩森を連れて201号室に帰ると、すぐに薆のいる206号室へ引き返した。
「あれ、どうしたんですか?ハモさんは?」
戻ってきた架場に、目を丸くする薆。
「部屋に着くなり、服を脱いですぐに寝ました。基本、じっとしているのが苦手な奴なので。長時間の調べものが堪えたみたいです」
「ああ……えっとそれで、架場さんは?何か忘れ物ですか?」
「いえ、忘れてたわけじゃないですよ。あ、誤解しないでくださいね。役目を果たしに来ただけですから」
「役目?」
「はい。決して、夜這いじゃありません。役目です」
「誰もそんなこと思ってないですよ……」
架場は密かに、一人になった薆が不便でないか、心細くないかと心配していたようだ。
彼は、薆がシャワーを浴び終えるのを待つと丁寧にリビングまで運び、ドライヤーで髪を乾かしてくれた。
度々、首や頬に触れる架場の指先は熱く、薆の身体もまた、触れられたところからじんわりと熱を帯びていくようだった。
髪を梳かし終えた薆は、架場のTシャツの染みに気がつく。
薆を抱えた時に、胸元が濡れてしまったのだろう。
「やだ、大変。早く着替えないと」
薆に勧められ、続けてシャワーを浴びた架場。
彼は着替え用に借りたスウェットを摘みながら、申し訳なさそうに笑う。
「彼氏さんの、私が借りても良かったんですか」
「勝手にでっちあげないでください。たまに泊まりに来る母のです。体格が良い方なので」
「あ、ああ……そうでしたか。すみません」
勘違いを謝る架場は、なぜか嬉しそうに見える。
そして、「暑いな」と濡れて直毛気味になった髪をかきあげた彼の雰囲気は、思った以上に良いものだった。
架場は、動き回ることのできない薆のことを考えて、何かあったら自分が足になれるからと夜間の同行を提案してくれた。
実際、鳩森と架場が帰ってからだんだんと不安になっていた薆は、すぐにその提案を受け入れた。
「皆瀬さんは、先に寝てください。ただでさえ慣れない身体で疲れたでしょうから」
そう言うと、彼はテーブルの上にノートパソコンを開く。
「架場さんは?」
「私は、もう少し調べてみます。部屋の照明は落とすので、気にせず休んでください」
ベッドに横たわると、薆はパソコンの光に照らされた架場の横顔を微睡む目で見つめる。
静かな部屋には、カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
架場は、カチカチとマウスを鳴らすとすうっと息を吸い込み、浅く吐いた。
「……平成3年5月31日、東京新聞。多くの人々に親しまれた海遊館Blue Ocean。長引く不況の中、経営再建に努めるも客足は戻らず、関係者やファンに惜しまれながら、25年の歴史に幕を下ろした──」
検索結果に映し出される記事の画像に目を通す架場は、カチカチカチとマウスをしきりに鳴らす。
「……クソ、文字がぼやけて読めない。参ったな」
拡大された画像に並ぶ文字は、潰れて解読できない状態だった。
ぶつぶつと呟かれる彼の独り言を聞きながら、薆は徐々に眠りに落ちたのだった。
──肘を立てた薆の懐近くへ、架場の顔が転がる。眉間に皺を寄せた彼の肩を、薆は優しく叩いた。
「架場さん、架場さん。朝ですよ、私を水槽に入れてください、干涸びちゃいます。データを取り切る前に、私が干物になってもいいんですか」
薆の声に、架場が反応する。
「それは……まずいな。俺が、今……」
まずいと言いながら、彼は再び寝息を立て始める。
「架場さん」
「……」
「ちょっと、架場さん」
「ううん……」
「まったく、どれだけ寝起きが悪いのよ」
いくら呼び掛けても起きない彼に、薆は強硬手段に出る。
「ほらっ、起きて!起きなさいってば!」
架場の肩を両手で掴み、前後に揺さぶる。
「うっ……うう……」
眉間に皺を寄せる彼は、やめてくれと言うように薆の細い腕にがっしりとしがみついた。
予想外の可愛さに、薆は声を潜めて笑う。
「フフッ。これじゃ、大柄なコアラみたい」
そう言ったかと思えば、いきなり真顔になった薆は架場の額の前に親指と中指を構えた。
「……私は、悪くない。起きない方が悪いのよ」
薆が、グッと指に力を込めた時。
ピンポーン、ピンポーン──
誰かの手によって206号室のベルが押された。
──午前7時。
「本当、すみませんでした。皆瀬さんの入水時間を忘れて寝過ごすなんて──」
「まったくな。起こしに来て正解だった」
上下スウェットに裸足という寝起きの架場の前に、丸襟のシャツにスラックス姿の鳩森が腕を組む。
「大丈夫です、思ったより鱗は乾いていませんでしたから」
そう言うと、薆は朝の日差しに淡く透ける水槽から身を乗り出す。
「ところで、ハモさん。今日は正装ですか?」
「ああ、これはナオヤンの。着替えがなかったから適当に借りた。え、おかしいかな?」
片足を軸にその場でくるりと回ってみせる鳩森に、薆はフフフと笑う。
「いえ、昨日とは随分と雰囲気が違うなと思って。似合いますね」
"似合いますね"──薆の、その一言に鳩森は何かを堪えるように唇をグッと噛んだ。
「なんだ、どうした」
不思議そうにこちらを見る架場に、鳩森はニッと歯を見せた。
「……別ニイ」
ふざけた様子の彼はさて置き、架場は薆に鳩森の買ってきたコンビニの袋を差し出す。
「ハモが、適当に買ってきたみたいです。これを食べて、支度を済ませたら例の薬屋へ行ってみましょう。私の部屋に祖父の車椅子があるので、皆瀬さんはそれで。足には、ブランケットをかけて──」
この後について話す二人の後ろで、鳩森は胸にそっと手を当てる。
普段なら、シャツにスラックスなんてきちんとした格好をすることはない。
なぜなら、それが似合わないと言われ続けてきた人生だったから。
世間での扱いで言えば、そこの頭でっかちとは完全に真逆。
裕福な家に生まれようと、いくら影響力のある両親の存在があろうと。俺は、何の功績も残せない、何の利益も生み出さない、ただのぼっちゃん。
秀でた才能があるわけでも、何か一つ突出した趣味か思考を持ち合わせているわけでもない。
あるとするならば、それは家柄と金。
俺の周りは、俺ではなく常に、金とその背後に映る『鳩森』というネームブランドを見ていた。
これからも、俺は今までのようにどこか諦めた気持ちで生きていくのだろう──そう、思っていた。
ナオヤンという特別に出逢うまでは。
しかし、今や、そのナオヤンだけが特別な存在ではなくなった。
何故なら、春はまた一つ俺に友達を与えてくれたから。
鳩森は、水槽で尾鰭を揺らしながら架場に笑いかける薆を見つめる。
"私には、ハモさんのように正しい危機感や、場を和ますためのユーモアが足りないので"
"似合いますね"
彼女の、俺を見る瞳が。
俺だけに向けられた、その言葉が。
俺の心を軽くするのに、なぜだか、それと同じくらい俺の胸を締め付ける。
この複雑な気持ちについて──よくは知らなくとも、見当ならついている。
鳩森は、手振りを交えながら話す薆に相槌を打つ架場を見る。
──架場直弥。俺の親友は、俺とは違う。
本当の彼を知る者は皆、口を揃えて言うだろう。
努力家、家族想い、そして何より──誠実な男である、と。
口を開けばまあまあ失礼、生物学に明け暮れているだけの、お堅い研究ヲタクじゃない。
学者という職業を脱いだ彼は、離れて暮らす独り身の母と、施設で治療を受ける足の悪い祖父を常に気にかけている。
架場直弥という人間は、冷たく見える眼差しで、他者に温かな手を差し伸べる。
そして──人魚という未知に囚われた、目の前の彼女にも。
妙に真剣な顔つきをした鳩森に歩み寄ると、架場はテーブルの上のレジ袋を差し出した。
「ほら、お前も早く選べ。偶然にも、皆瀬さんはメロンパンが好物だったようだ。だから、もう無いぞ」
架場の隣で、薆は美味しそうにメロンパンにかぶりつく。
パン屑を口につけた彼女に、架場が位置を教える。
恥ずかしそうに口を拭う薆に、彼はふっと笑う。
立ち尽くす鳩森は、昨日より距離の縮んだ二人を真正面から捉える。
──好きなものくらい、自分で聞きたい。
彼女に関することは、俺が最初に受け止めたい。
だから、ナオヤン。お前は、俺の親友として。
俺に訪れた春を、幻想なんかじゃない目の前の彼女を。
俺の前から連れ去らないでくれ。
その、余裕げな大人の笑みで。
彼女の──人魚の心を、惑わさないでくれ。




