十六話 時は満ちた・後
──日もすっかり沈んだ、午後7時。
『ガッツリ、新海ルート』で方針の固まった三人は、Ocean対策最後の項目──情報収集に取り掛かろうとしている。
資料の調達にマンション近くの古本屋へと駆け込んだ架場は、人魚に関する文献を端から買い漁った。
「──おや、随分と人魚に興味があるようだけんど。人魚なんか知って、どうするつもりだえ」
不機嫌なレジの店主は、鼻に掛けた小さな丸眼鏡を通さず、上目遣いで架場を見る。
「なに、知見を広げるに越したことはありません。興味を持てば、色々と知りたくなる。これって、知識欲を持つ人間として当たり前の衝動でしょう」
淡々と答える無愛想な若造に、店主の老人は愉快げに肩を揺らす。
「ほっほっほ。いいこった。学のある男ってのは、それだけで格好がつく。そして、俺みたいな渋い男になりたけりゃ、その学を人の笑顔のために使うこったな」
老人は言うだけ言うと苦虫を潰したような顔に戻り、震える手でレジ機を触る。
「学を人のために……ですか」
架場の脳裏に、薆の笑顔がよぎる。
尾鰭をドアに挟み、泣き腫らした後に見せた、あの人間臭い笑顔。
彼は会計後のレジに積み上がる古本のピラミッドに手を置くと、店主に伝えた。
「いいですね。目指してみようと思います、渋い男」
──206号室。
古本屋から帰った架場は果てしない本の山に目を通し、鳩森と薆はネット上で人魚についての情報を掻き集め、端から端まで読み耽る。
根気のいる作業に、椅子に座る薆の尾鰭が度々、床を鳴らした。
「ここを見ろ。人魚と薬に関する記載がある」
架場の声に、鳩森と薆が寄る。
「日本の八尾比丘尼という有名な伝説、そこには人魚の肉を食べた少女の身体に不老長寿の効能が現れたことが記されているようだ。また、西洋では人魚の骨を"ヘイシムレル"と呼び、止血や解毒の薬として扱われていたという記述まで存在するらしい。そして中国の伝承の中には、肉や骨だけでなく人魚の膏を使った蝋燭は、永遠に消えることのない不滅の炎を宿すと書かれている」
「この情報だけで怖いというか、生々しいというか……人魚を材料に使えば、人間は常識を覆すほどの特効薬を手に入れられるということですね」
薆は、ふと新海が出会い頭に言っていたことを思い出した。
"──うちはね、泣く子も黙る、万薬の宝庫だから"
「人魚、薬屋、万薬の宝庫……」
ボソリと呟いた薆は、架場の方へと身体を傾ける。
「架場さん。その文献に、咳止めシロップのような赤い液体についての記載ってありませんか」
架場はパラパラとページをめくり、読みながら貼り付けた付箋を辿る。
「……色について特定できるような記載は、今のところ見かけていませんね。ハモ、そっちは?」
パソコンの前、キーボードの指を走らせた鳩森も首を横に振る。
「無いねえ。見かけたものは全て、想像で描かれたパターンかな。赤とか、青とか、緑とか。コレって決まった色は分かんないね」
「……そうですか」
なかなか、有力な情報が掴めないまま時間だけが過ぎていく。
そんな中、ノートパソコンの前に片膝を立てる鳩森が口を開いた。
「ほう……これは、知らなかった。人魚は、戦乱や凶兆の予言獣の一種として言い伝えられていたこともあるんだって。まあそれも、よく聞くジュゴンや深海魚が人型のように見えたのではないかという考察が有力なんだけどね」
「悪いことの、前兆……今の私って、人魚だから……」
鳩森が口にした情報に、薆の表情が曇る。
そんな薆に、ページから目を離した架場は静かに微笑む。
「気にすることはないですよ。生物学上、皆瀬さんが人間であることに変わりはありませんから」
「そうそう、そうだよ!誰も薆ちゃんが不吉だなんて言ってないし!」
テンパる鳩森のなんとも言えない顔に、薆は何も言うことなくパソコンに視線を戻した。
嫌われてしまったかと落ち着きがなくなった鳩森と、黙々と調べ続ける薆と架場。
気まずいような、明らかに静かすぎるような。
しばらく続いた微妙な空気に、薆の声が聞こえた。
「……さっき、架場さんが言っていたように。世界各国には人魚についての伝承が多く存在していますけど、それぞれの地域によって描かれる人魚像がかなり変わってくるんですね。人間と恋をする繊細な面もあれば、若者や作業中の漁師を海に引きずりこもうとする凶暴な面まで──」
薆の言葉に、架場は本の活字を目で追いながら応える。
「人魚は、なんでもし得るということですかね。強欲で身勝手な、我々人間と同じように」
彼の言葉に、薆はテーブルの下、鱗に覆われた膝の上で拳を握る。
(新海──もしも、あなたが人魚なら。私を困らせたところで、あなたの何が満たされるというの?助けてくれたあの一瞬に、人の持つような優しさは無かったの?)
俯き、考え込む薆の横顔を、鳩森は心配そうに見つめる。
(ただ、今はアイツが人魚でないことを祈るわ。どんな力を持ってようと私と同じ人間なら、知らないことってそれほど多くはない。汚い部分も、歪んだ性根も。全てバラして、綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃにしてやるんだから)
顔を上げると再びマウスを動かし平然を装う、薆。
鳩森は、自分の画面を覗き込むようにするとわざとらしく話し始めた。
「なになに……服を着ている人魚は非常に珍しく、乳房は貝柄で隠されていることがほとんどです?へえ、そっかあ……」
怒るなり、叩くなり、顔を顰めるなり。
薆の反応を期待した鳩森の目に飛び込んできたのは、こちらを睨みつける架場の怖い顔だった。
「……その調子で続けるつもりなら、今すぐ出ていけ」
「いや、俺は書いてあったまま読んだだけで……」
「そうか。それなら、お前は今日から俺の協力者じゃなく、俺の従順な読み上げ機能になれ」
怒る架場の隣、薆はこちらを一切見ていない。
失敗を認めた鳩森は、ポリポリと頭を掻いた。
「……ごめんなさい。横縞ロイ、これにて卒業します」
「ああ、そうしてくれ」
──そんなこんなで、時計は既に午後9時。
「ああ……もうこんな時間か」
本を畳んだ架場は、眉間を押さえる。
彼の前に積み重なる文献には色とりどりの付箋が増え、テーブルの上には疲れ切った鳩森と薆が突っ伏している。
すっかりエネルギー切れな二人に、架場は声をかける。
「そろそろ、腹も空く頃でしょうし。休憩にしましょうか」
あくびを堪える薆と、膝を抱えて椅子に座る鳩森、目つきの悪い架場がテーブルを囲む。
そんな彼らの遅めの夕食は、テーブルに並んだ真っ黒で艶やかなお重。
テンションが上がらないと文句を言う鳩森のために寿司の出前を取ったのだ。
「いただきます」
三人は、黙々と寿司を口に運ぶ。
「あ、サーモン……」
箸を止めた薆を、架場が気にかける。
「苦手ですか?」
「はい。良くないですよね、この歳で好き嫌いって」
「好き嫌いは、極上な知能を持つ証拠です。でも、サーモンに罪はないので私がいただきます」
彼は、ひょいと薆の重からオレンジ色の魚だけを抜き取った。
今夜の食卓では、サーモンが苦手な薆のために架場が進んでサーモンを食べ、グニュンとした食感が苦手な架場の代わりに、鳩森がイカとタコを多めに食べた。
当然のように、鳩森の重にタコを移す架場に薆はひっそりと笑う。
(研究対象のタコと、お寿司のタコは別なのね。そういう私も、サーモンが食べれないけど)
薆が、マグロを口に運んだ時。
ふいに、目の前でエビの尻尾を咥えた鳩森と目があった。
鳩森は、口の中の寿司を飲み込むと箸で薆を指差した。
「……んふふ。魚が、魚を食べてる。共食いってやつ?」
マグロで埋まった小さな口を押さえながら、薆は言い返す。
「う、うるひゃいのあ」
「ハハハ、なんだって?」
薆を揶揄う鳩森に、架場は注意する。
「……おい。飯くらい、落ち着いて食わせろよ」
もぐもぐと口を動かす架場に、鳩森は下唇を突き出した。
「うるせえ、俺にばっかキツく言いやがって!口にこのタコ突っ込むぞ!」
「……」
口を閉じた架場はタコの歯応えを想像したのか、嫌そうに顔を歪めながら身体を震わせる。
「ふっ……ふふっ……あははははっ!」
くだらない二人のやりとりに耐えきれず笑う薆に釣られて、鳩森と架場の表情にも自然と笑みが溢れた。




