十三話 備えあれば、憂いなしってね
「何も映らないとは、どういうことだ……撮影機能の調子が良くないのか?」
架場は、何度かマウスをクリックして接触を確かめる。
再びファイルを開くと保存された写真データは、どれも同じように真っさらだった。
「標本には?文字は残っていますか?」
薆は、慌てて顕微鏡のレンズを覗く。
「はい、文字は残って……あれ?今度は、上下が逆になってます」
続いて架場もレンズを覗くと、そこには確かに逆向きのメッセージが映っていた。
彼は、レンズから目を離すと小さく唸る。
(証拠は取らせず、文字もまともに読ませない……まるで、現象を通して揶揄われているようだ)
椅子に座り、尾鰭をパタパタと動かす薆は、立ったままデスクに腕をつき、考え事に耽る架場を見上げた。
「……皆瀬さん」
「はい」
「私たちは既に、架空に足を踏み入れていたみたいです」
急な架場の真剣な顔に、薆の尾鰭がピクリと反応する。
「架空……確かに、人魚は架空の生き物として知られていますけど。流石に、ここは現実なんじゃ……」
架場はデスクを離れ、どかりとソファに深くもたれるとテーブルに広げられた猛獣パズルのピースを手に取った。
「皆瀬さんは薬屋を訪れた時、もしくはシロップを口にした時。私とハモは、皆瀬さんという人魚を見た時。その瞬間から──私たちは現実を模した景色の中で、新海と同じ非現実というフィールドに置かれていたのではないでしょうか」
「現実の中なのに、非現実──それは、新海の手の中、ということですか」
薆の言葉に、架場は手の中のピースを握りしめる。
「そうとも、言えるかもしれません」
そう一言、口にすると彼は散らばったパズルのピースをテキパキと組み立てていく。
「ただの現実で済まないのなら、これから何が起きようと、きっと説明のつかない事態になると思います。未知の領域を前に、信じる、信じないも命取りというもの──予想していたとは言っても、皆瀬さんの身体を取り戻すためにまずは、この架空の真実を探る必要がありそうですね」
話し終わると、架場の手元には獲物を狙うピューマの顔が完成していた。
「危ないから、深追いしないって話したばかりなのに……」
そう言いながらも、薆は架場の早技に控えめでまばらな拍手を送る。
架場はテーブルのアルミジョッキからコーヒーを一口飲むと、頬を緩ませた。
「何、笑ってるんですか」
不機嫌そうに口を曲げる薆ではなく、彼の視点はその向こうに置かれた顕微鏡を捉える。
「いえ、怪奇とはこうも鼓動を早めるのかと興味深くて。これから、忙しくなりますね。頭のキレる詐欺師を相手にするわけですから」
架場は、器の中のコーヒーを飲み干すとジョッキを片手に席を立つ。
「ん?……ってことは。ガッツリ、新海ルートですか?」
薆の半分開いた口に、架場はキッチンから応えた。
「ええ。ガッツリ、新海ルートです」
──東京都、世田谷区。鳩森邸。
「ヘッ、ヘッ、ヘッ」
「ジャックきゅん、元気してた?相変わらず、胸毛具合が良ろしいようで……鳩森め、感激ですう」
「ウワン!ワン!」
景石の存在感を放つ広大な庭園には、ボーダーコリーを撫で回す鳩森と、一人の女性の姿があった。
「ロイさん、急に帰ってこられるなんて。どうされたんですか?」
「なあに、仁科さん。俺が来ちゃ、都合の悪いことでもあるの?」
鳩森が仁科さんと呼ぶ、この女性。
彼女は鳩森を小さい頃から世話してきた、この家の家政婦である。
「何を言うんですか!ずっと顔を見ていなかったので、心配していたんですよ。旦那様も奥様も、お仕事で長らく家を空けています。ジャックに会いに来るでもいいので、たまにはこうして帰ってきてください」
仁科は、厚く温かい手で鳩森の手を握る。
遊ぼうと伏せを繰り返すジャックに笑うと、鳩森は仁科の手から犬のリードを受け取った。
「冗談だよ、仁科さん。放っておくと、不規則な生活をする友達がいるせいで、帰省のタイミングが合わなかったの。そうだなあ、ちょくちょく帰るようにするよ」
「……本当ですかねえ」
「ホント、ホント。約束」
そう言うと、鳩森は彼女の肩に手を回し、邸内へと歩いて行った。
「待ってくださいね。今、お茶を淹れますから」
「えー、そんないいよ。今日は、ちょっくら倉庫に用があるだけだから」
「ダメです、少しはゆっくりしていかないと」
仁科の言葉を最後まで聞かずに、鳩森は玄関先に上着を雑に脱ぎ捨てると、階段を上って二階へ向かう。
彼の足音を、ジャックの軽快な爪音が追う。
鳩森は、一番突き当たりにある父の書斎に入ると
デスク横の引き出しから、一本の鍵を持ち出した。
そして、再び外に出ると庭園脇に設置された倉庫を開き、中を物色し始めた。
中腰の鳩森の背中に、ジャックは長い前足を掛ける。
「おいコラ、おんぶじゃないってば」
鳩森は、どんどん奥へと進んでいく。
「確か、ここだったような……おっ!あったあった」
鳩森は、倉庫の中から箱に入った目当てのモノと
棒状の何かをせっせと庭へ運び出す。
お宝か?と尻尾を振るジャックはさておき、彼は箱の蓋を開けて中身を確認する。
「警棒、ヘルメット、催涙スプレー、スタンガン、防弾ベストに、防刃ベスト……うん、これだけあれば十分。あとは……」
鳩森は、地面に横たわる長い銀色の棒を手に取った。
「使ったことないんだよな、こんな感じか?」
頭上で柄を回すと片足を踏み込み、宙を突く。
──ウワン、ワッフ!ワッフ!
傍らで、ジャックが興奮気味に吠える。
鳩森は、ジャックを姿も知らない新海に見立てて捕まえるフリをした。
「新海──覚悟っ!なんちって」
──ガラガラ。
渡り廊下の引き違い窓が開き、エプロン姿の仁科が顔を出す。
独り、武器を構える鳩森を見るなり彼女は大きなため息を吐いた。
「ジャックが吠えていたので、見に来たら……ロイさん。さすまたなんて振り回して、何してるんですか。危ないですよ」
注意を受けた鳩森は、さすまたを縦に抱えると気まずそうにはにかんだ。
「あはは……驚かせてごめん。試しに、フォームの確認をね?」
「フォームって……何に使われるつもりです?」
「ん?えっとね、防犯訓練」
鳩森は、咄嗟に嘘をついた。
人魚にされた知り合いに加担して、犯人を捕まえるためとは言えるはずも無かった。
彼の動揺を嗅ぎつけたのか、足元のジャックが首を傾げる。
「訓練、ですか」
「そ。ほら、こういうのは意識しておかないと。今の時代、男女は関係ないみたいよ?」
「は、はあ。気をつけるに越したことは、ないですよ。でも、さすまたは……ちょっと。やりすぎな気もしますけどね」
「チッ、チッ……甘いな。俺の場合はね、やりすぎくらいがちょうど良いの。備えあれば、憂いなしってね」
正論の仁科に適当な言葉を並べると、鳩森はさすまたと防犯グッズの入った箱を抱えた。
「ってことで、仁科さん。俺、もう行くから。一式、借りてくってパパに伝えといてね」
「え、ええ。伝えておきますけど……もう行くんですか?せっかく、ロイさんの好きなレモンティーを用意したところだったのに」
しょんぼりする仁科に、鳩森は微笑む。
「悪いな、仁科さん。今日は急ぎの用事があるんだよ。また、帰ってくるから。ジャックも、良い子でな」
彼に名前を呼ばれたジャックは、返事をするように一声鳴いた。
──ぽかぽかとした春先の陽気を喜ぶように、庭先の梅の木からはメジロのさえずりが聞こえてくる。
車に荷物を積み込む鳩森の背中を、仁科が見つめる。
「お気をつけて」
ジャックを連れた彼女は、寂しさの滲んだ笑みを浮かべると小さく手を振る。
運転用のサングラスを掛けた鳩森は、挨拶代わりにクラクションを短く鳴らすと、実家を後にした。




