欲望うずまく学び舎
「学生を探しているんだ。芸術科一般のエルスチルという人なんだけど」
「かしこまりました。少々お待ちください」
昼時であるせいか学生の数が少ないようだ。
予科の学生は大抵、裏手の下宿通りにある食堂『鉄兜』で昼食を済ませる。 おすすめはライ麦パンだ。まさしく鉄兜のごとき硬度を誇るライ麦パンは、絶対に腐敗しないと評判である。
入学時に買ったライ麦パンを卒業時に食べるという伝統も残されているのだが、まあ、それはいいか。
「お待たせしました。エルスチルは僕ですが……」
本を抱えてこちらへ歩いてきたのは丸眼鏡をかけた優しそうな少年だ。体の線が細く、頬が少しこけている。十四、五歳といったところか。
「このユウレイグモの絵を描いたのは君かな?」
「はい、そうです」
「少し話を聞かせてくれ」
「……そんなことが……」
エルスチルは一階広間の卓に座り、入口の方向を見ている。
昼食を終えた学生達がぞくぞくと戻ってきた。
「絵を描く時に、何か特別なことをしなかったかな?」
「いえ、いつも通りだったと思います」
何か特殊な原料を使ったというわけでもなさそうである。学生が描いたのだから特別な技を使用したとも思えない。
サーラ先輩が椅子に座り、エルスチルに尋ねる。
「どうしてユウレイグモを黒く塗ったんだろう?」
「煤にまみれたユウレイグモを幼い頃に見たんです。なんとなくその姿が印象に残っていて――」
確かにそれならば黒くなる。
有力な取っ掛かりだと思っていた黒色の秘密が、あっさり解明されてしまった。
特別な原因が何もないのに現象が起きた。
エルスチルが本当に特殊能力を持っているとすれば可能だ。しかし、本人が能力に気付いていないのはおかしい。
“嵐”という境界を越えたことが原因なら、エルスチルの描いた絵だけに影響があるのも不可解だ。
……ううむ、わからん。もしかしたら化物と絵は無関係なのかもしれない。
「リートじゃ。リートとユーカの幻が見えよる」
入口から聞こえてきた可愛らしい声に目を向ければ、アトリだ。
寒い中を歩いてきたせいか、白い頬が赤く染まっている。
小脇に『鉄兜』のライ麦パンを抱えていた。
「幻じゃないぞ。アトリ、それ食うのか? 噛み切れるか?」
「さすがのわしでも噛み切れんわ。本当に腐らんのか試してやろうと思っての。……おお、エルスチルもおるのか。熱は平気か?」
「うん、もう大丈夫」
アトリとエルスチルは知り合いだったのか。
ユーカは腕を伸ばし、アトリの顔に両手を当てて頬を暖めている。こうして見ると姉妹のようだ。
「アトリちゃん、何かあったんですか?」
「うむ。エルスチルのやつ、雪虫を飲み込んで熱を出したそうじゃ」
……ああ、エルスチルの気持ちがよくわかる。
かつて俺も鼻から雪虫を飲み込んだことがある。雪虫に毒はないから腹を壊すことはないのだが、なんだか具合が悪くなるのだ。精神的な痛手である。
「妖精を飲み込んだのかもな」
「そうだったらいいですね。願いが叶うかも」
サーラ先輩の立ち上がる勢いに、思わずのけぞってしまった。
「エルスチル君、私は医術師なんだ。ちょっとお腹を見せてもらっていいかな? アトリもこっちおいで」
エルスチルが服をたくし上げて腹を出した。
アトリがそばに立ち、目を細めている。
「ふむ……、おるのう。強いやつが一匹おる」
「アトリ、何か見えるのか?」
「わしは精霊の力が見える」
さすが俺の信ずる神様。人智を越えた存在である。
サーラ先輩がエルスチルの腹に手を当てて何かを探っている。
「本当は私達にも精霊が見えているはずなんだ。感じ方を忘れているだけでね。……エルスチル君は本当に妖精を飲み込んだ可能性があるね。絵に描かれたクモが現実に現れたのも、それが原因かもしれない」
なんと? 妖精を飲み込んでも平気なのか?
「私達の身体にも精霊はたくさんいるんだ。食物を通して体内へ入るんだね。エルスチル君の場合、飲み込んだ妖精が強すぎて体調を崩したんだと思う」
「先輩、エルスチルは大丈夫なんですか?」
「問題ないよ。放っておけば自然に出て行く」
直近の危険はなさそうだ。
となると……、妖精がエルスチルの体から出て行く前に、絵の実体化を検証する必要がある。
「絵が実体化した原因というのは?」
「言い伝えの通りであるなら妖精は願いを叶える。おそらく“絵を描く”という行為が鍵となって、一時的に妖精の力がエルスチル君へ移ったんじゃないかな」
「もう一度描けば、また実体化するということですか?」
「妖精が体内に留まっている内に、エルスチル君が本気で願えばそうなるかもね」
その場にいる全員が顔を見合わせた。
「……エルスチル、金塊を描いてみたくはないか? 画材なら用意する。なんなら俺がパトロンになっても――」
「わしはダチョウの卵を食うてみたい。ほれ、図鑑に載っておるやつじゃ」
「そ、それなら私、チョコレートというものを一度食べてみたいと――」
サーラ先輩が呆れ顔でこちらを見る。
「三人ともいいかげんにしなさい。忘れたのかい? 実体化したクモは画材でできていたんだよ?」
そうだった。くそう。
絵に描いた餅とはこの事か。




