人間ですらない
完全装備である。
装備といっても戦うための装備ではない。口と鼻を布で覆い、エプロンを身に付け、腕に布を巻いた。皮手袋も持ってきた。
俺達は王都北を流れるカナリー川を船で渡り、小高い丘を一つ越えた場所にある共同墓地へやってきたのだ。
あいかわらず厚い雲が空を覆っていて、今にも雨が降りそうな気配である。
「なんだか墓荒らしみたいでわくわくするね」
「サーラ先輩は、遺体の解剖をしたことがあるんですか?」
「もちろんあるよ。これでも一応医術師だからね」
俺とユーカは第二部隊の検視官に一緒に行ってくれるようお願いした。しかし、遺体を確認して証言ができる医術師も必要とのことで、サーラ先輩にも来てもらったのだ。
そして現在、俺は墓を掘っている最中である。もうすぐ棺にたどりつきそうだ。
「あの、リートさん」
「どうしたユーカ」
「遺体の手に横滑りの傷があったら、容疑者はどうなるんですか?」
「証拠不十分で無罪放免だな」
「でも、境界の向こう側では人を殺しています」
「立証できないだろう?」
境界の向こう側で起きたことは、調べようがない。
俺達の法で裁けるのは境界のこちら側で起きたこと、この世界の事実だけだ。
事件の前、被害者のシアヌはルケを客としてとった。
ルケに一目惚れをしたシアヌは、ルケの持ち物である縄を盗む。
惚れた相手の持ち物を欲しがるのは不思議な事ではない。ましてや娼婦と客だ。次にいつ会えるかわからないのだから、思わず盗んでしまったとしてもおかしくないだろう。
事件のあった日、ルケは一日中自室にいた。
周囲の住人もそう証言している。
そしてここからが立証すべき仮説だ。
その日、シアヌは定宿の一室で自分の首をしめた。使用したのは盗んだルケの縄。恋焦がれた相手の持ち物を使って自分を慰めたのだ。窒息に快楽を感じるシアヌにとって至福の時だっただろう。
だが、行き過ぎた行為によってシアヌは死亡した。事故に近い自殺だ。
柔らかい土の下から棺の蓋が出てきた。木棺である。
棺に被さった土を丁寧にどけて、蓋に打たれた釘を一本ずつ確実に抜いていく。
「検視官殿、棺を開ける前に注意することはありますか?」
「そうですね、遺体に素手で触れてはいけません。毒が発生していますから。あとは気分が悪くなっても、吐しゃ物を墓にかけないように」
俺がまだ新兵だった頃、教練で死体見分を見学した時のことだ。
他の新兵は皆「死体なんか怖くねえ」と強がって意気揚々と見学に臨んだのだが、その場にいた新兵の半数は昼食を戻してしまった。
見た目はまだ我慢できる。問題は匂いである。
ただの腐臭とは言いがたい、強烈な死の匂いなのだ。あれだけは慣れそうもない。
「それじゃ開けるぞ」
なるべく目を細め、息を止めて棺の蓋を横にずらしていく。
棺の中が少し見えた段階で、すぐに異様な状態であることに気が付いた。
「これは……、サーラ先輩、これはどういうことですか?」
「どう、いうことだろう……」
遺体がない。
棺の中に、わずかな血痕と髪の毛の数本が残されているだけで、肝心の遺体がどこにも見当たらない。
「検視官殿、本当にここへ埋葬したのですか?」
「ええ、間違いありません。確かにこの墓へ埋葬しました」
まさか本当に墓荒らしにでもあったか?
しかし、棺の蓋は釘でしっかり封じられていた。遺体を盗むような者が丁寧に釘を打ち直すとは考えられない。
やはり、ルケの神秘現象に巻き込まれたと考えるべきだ。原因が何かあるはず。
生前、シアヌがやったことは何だ。
ルケに買われた。
ルケから縄を盗んだ。
縄で自分の首をしめた。
神秘に繋がりそうなのは最後の一点だけ。
かなり特殊な状況だが、縄は一般的なものだし現場は宿の一室。定宿だから普段から使っている部屋だ。特別なことは何もしていない。本当に?
よく考えろ俺。冷静に事実を見極めろ。
……違う。生前ではない。
生前ではなく、死後に特別なことをした。
「サーラ先輩、シアヌの遺体は“向こう側”で境界を越えています」
「ん? どういうことだい?」
「ルケの供述では、自室で遺体を発見した後、遺体を持って川へ捨てに行っています」
「……そうか。それは厄介なことになった」
「シアヌの遺体はどうなったんですか?」
「生と死がまぜこぜになったんだね。生者でも死者でもないものになった」
「でも境界を通過した時、“こちら側”でも“向こう側”でもシアヌは死んでいました」
「おそらく、境界の先のシアヌは生きていたんだ。そして遺体が境界を通過したことで、生死があやふやになってしまった」
ルケが遺体を捨てに行った時、越えた境界は三つ目。三つ目の世界ではシアヌが生きていた。
つまり、生きているシアヌと死んだシアヌが同時に、同じ世界に存在することになる。
そして何の拍子か、生者でも死者でもないものになった。
シアヌの存在自体が神秘そのものになってしまった、ってことだ。
「今のシアヌは人間ですらないよ。何が起きてもおかしくないね」
「それじゃ、一体今はどこに――」
ユーカが口を覆っていた布を外し、こちらに叫ぶ。
「リートさん! 容疑者が一番初めに言ったことって……」
そうだ。ルケは『夜になるとあの女が来る』と言っていた。
憔悴したルケの妄想だと思っていたが、違う。
本当にシアヌが現れたのだ。
「急いで墓を片付けるぞ。牢屋へ向かう」




