幸せな記憶
「そんな事情があったんですねえ」
そばかすが特徴的な赤毛の女は、前掛けを外しながら大きく頷いた。
俺達は鏡の現在の持ち主である、雑貨店の店主に会いにきていた。これまでの経緯を報告するためだ。念のため鏡も持参している。
女向けの雑貨が所狭しと並ぶ店を経営しているのは、まだ年若い女である。俺と同世代の身空で店を持つとは、なかなかのやり手だ。
「亡くなった夫婦の家へ供えると約束しますので、鏡を譲っていただけませんか?」
「それはちょっと無理ですねえ……。こちらも生活がかかっていますから」
やり手である。情に流されない立派な商売人だ。
鏡を調査費用で買い取るか? しかし、元の持ち主であるゲワードの家に持っていくだけだから経費では落ちない可能性が高い。
「私が鏡を買い取ります」
「ダメだ、ユーカ」
いくら元の持ち主に情が移ったとしても、安易に自費を使ってはダメだ。仕事を長く続けたいなら、帳尻を合わせるように行動しなければならない。
まあ騎士団の中には、出張時に経費で落とすことを見越して、景品が付く宿屋に泊まる者もいるが。
何故、景品が付く宿屋に泊まるかといえば仕組みはこうだ。
まず宿屋が宿代に景品代を上乗せして、通常よりも高価格に設定する。
俺がその宿に泊まって、価格分の請取状を発行してもらう。
請取状を騎士団へ提出し、宿泊費をもらう。
その後景品を売れば、俺の懐に宿泊費と景品を売った金が残る。
よくあるせこい手である。
いや、それはどうでもいい。今は鏡だ。
どうにかして経費で落ちないものか。……ふむ。
「ユーカ、今は夏休みの後だから騎士団は大変忙しい。移動に馬車を使ったのも、費用より時間が惜しいからだ」
「はい」
「経理をやっている文官の連中も忙しいだろうな」
「ええ」
「全体訓練前に武器の手入れもあるし、きっと鍛冶屋も忙しいだろう……」
「……はい」
「時にユーカ、剣の補修をしたか?」
「いいえ、まだです。ほとんど使用していませんから、修理しなくても問題ないかと」
これは布石だ。ユーカではなく店主に向けての布石である。
「ねえ店主さん、ちょっと鏡を磨いてもらえませんか」
「え? あ、はい、かしこまりました……」
「できれば木枠を外して中の方も。ああ、ついでに俺とユーカの剣も磨いてください。もちろんお代は払います」
「いえ、磨くだけならお代はけっこうで――」
「払います」
払うったら払う。払わなければいけない。俺は泥棒になりたくないからな。
「お代は……あっ!」
「リートさん何を……あっ!」
さすが、やり手経営者と優秀な後輩である。
気付いた途端、賄賂を差し出された役人のような顔になっていた。
「では騎士様方、請取状の但し書きはいかがいたしましょう?」
「“金物の修理”でお願いします」
「どうだ?」
「右側が少し下がってますね」
雑貨店の店主に譲っていただいた鏡を持ってゲワード宅へ来た俺達は、寝室であろう部屋の壁に鏡を設置していた。紙に包まれた指輪入りだ。
「こんなもんか」
家具が置かれていない空っぽの部屋に鏡だけある、というのもおかしな風景だが、これはこれでしっくりくる気もするな。家屋の一部という感じだ。
「盗まれたりしないでしょうか」
「布をかけておけば平気だろう。空っぽの家に入る酔狂な泥棒がいれば別だが」
傾いた陽が鏡に当たり、反射した光が部屋を明るく照らしている。
結局、原因の特定は一つもできなかったが、これは珍しいことではない。神秘というものはいつだって謎に包まれている。
「一応、次に入る住人のために書置きを残しておこう」
「何と書いておきましょう?」
「そうだな……あ」
「え?」
顔を上げると、鏡の中にまったく別の光景が広がっていた。
鏡の中はおそらくこの部屋と同じ間取りだが、家具がいくつも置かれ、花びんにも花が活けられている。暖かいと感じられるほど生活感に溢れた部屋だ。
見知らぬ人物が鏡に映った。寝巻きを着た中年の髪が長い女だ。
鏡の前に座り、櫛で髪をとかしている。
何かに気付き、女は顔を右へ、向かって左を見た。
部屋の入口に中年の男が立っている。
女は背後へ振り返った後、再び鏡へ向き直る。
男は口を開き、何かを告げてから歩み寄って、女の手を取った。
男は笑顔を見せ、持っていた指輪を女の手へ付ける。
途端に鏡の中の不思議な光景は掻き消え、空っぽの部屋が映し出された。俺とユーカの唖然とした顔が鏡に映る。
「……あれ、結婚指輪じゃなかったんだな」
「記念日の贈り物という感じでしたね。というか、他に気にする所があったように思いますが」
起きる現象に法則はない、と判断したのは早合点だったな。
鏡はこの部屋にあって夫婦の姿を映してきた。
苦しみも、喜びも、衝突も、愛情も、その身に映して記憶してきた。
そして夫婦がいなくなった後、この地を転々と移動し、再びこの部屋へ戻ってきた。
「俺達の行動は間違っていなかったのかな」
「これで良かったのだと思います。きっと」
鏡をこの部屋に置くことが本当に正しかったのか、俺にはわからない。ただ、こうするべきだと信じただけだ。
これからもずっとわからないままだろう。残された思いに正しい答えなどない。
ユーカが鏡に布をかけながら、独り言をつぶやくように言う。
「……ゲワードさんは奥様を亡くした時、生きる意思まで失くしてしまったのでしょうか」
「さあな。俺にはまだ、ゲワードの気持ちはわからない」
どんなに幸福な日々であっても、いつかは終わる時がくる。大切なものを失って、心に埋められないほど大きな穴が開く。
その時、何を思うかなど想像もつかない。残された者の思いを理解できるなどと軽々しく口にできない。
ただ、確かにここにあった。
鏡も、思いも、ここにあったのだ。
俺は部屋で見つけた薄い木板に言葉を残し、鏡の前にふせた。
「事務所へ戻るか。報告書を書いて、訓練の準備もしなきゃな」
「その前にイーリアへ事情を話して謝りましょう。このままでは騎士団を辞めてしまいますよ」
「そりゃいかん」
詫びの品を持っていけば許してもらえるだろうか。
今日は出費が激しいな。まあ、一部は戻ってくる予定だから問題はない。
二人でゲワードが住んでいた家を出ると、狭い道が住人達でごった返していた。買い物客や仕事を終えた者達が帰ってきたのだ。
区画が整理されていない地区であるため、人口密度がかなり高い。
「道に出ると人波に流されてしまうな」
「人が途切れるまで少し待ちましょう」
家の前にある小さな階段に腰掛け、人波を眺める。
前を歩くこの人たちにも、それぞれの歴史と思いがあるのだな、と俺まで感傷的な気分になってしまった。まだ仕事が残っているというのに、身体から力が抜けてしまう。
こりゃ今日の帰りは遅くなりそうだ。
「ところでリートさん、書置きには何て書いたんですか?」
「鏡を撤去しないように、と」
「それだけですか?」
「それだけだ」
“幸せを記憶する魔法の鏡だから撤去しないように”なんて、恥ずかしくて言えるわけないだろう。
七、鏡に映るもの 了




