報告、衛兵見習いイーリア、十六歳
まだ暗い時刻に目覚めたアタシは、同室の人間を起こさないよう部屋を出た。向かうのは寮一階の水場だ。
慎重な足運びで音も立てず廊下を進む。
女子寮で一番下っ端のアタシは、先輩方の邪魔をしないように誰もいない時間を狙って水場を使う。元々、早寝早起きが信条のアタシにとって暗闇は苦痛じゃない。むしろ、こうして水場や厠を占有できる楽しみの方が大きいくらいだ。
水場に着いたら燭台に火を灯し、軽く掃除をする。
掃除を終えたら裏庭へ出て、井戸から水を汲み水場の桶へ移す。いつもの日課だ。
顔を洗って歯を磨き、肌の手入れを始めようとした所で、二階の居間に鏡台が設置されたことを思い出した。つい数日前にユーカが持ってきた鏡である。
あれなら両手が使えるから、化粧だけでなく整髪も楽にできる。小さな手鏡よりずっと使いやすそうだ。
でも、あの鏡をアタシが勝手に使っていいのかな。……どうせまだ誰も起きてこないのだから、こっそり使えばバレないだろう。
基本的に男社会である騎士団では、女達の結束が強い。
アタシは騎士団に入ってまだ数ヶ月の新米だけど、寮の先輩方は優しくしてくれるし、いつもアタシのことを守ってくれる。今まで小言を言われたことは一度もない。
そのせいかアタシは調子に乗っていた。せめて明るくなってから鏡を使うべきだったのだ。
二階の居間へやってくると、鏡台の前に座って燭台に火をつけた。暗い水場で見る手鏡よりもずっと、はっきりと自分の顔が映る。
先輩達にもらった化粧品を小さな鞄から取り出して、手早く化粧を始めた。
そして、目を閉じてまぶたに乳液を塗った後のことだ。
目を開くと、鏡に映る背後の壁に何かある。先ほどまでは気が付かなかったが、壁の一箇所だけ色が違う。
虫でも入ったのかと後ろを振り返ると、壁には何もない。ろうそくの明かりに照らされた白っぽい石材の壁が、ただそこに広がっている。
向き直ってもう一度鏡を見ると、やはり何かが映っている。
鏡の中に目をこらして、背後の壁にある何かを確認して、アタシは後悔した。
人の鼻だ。
壁から人の鼻が生えていると気付いたら、壁の中から男の顔がずずっと出てきた。
男の顔はこちらを見て、口を開けた。
「……!」
叫びたいのに、声を出せない。叫んだら先輩達が目覚めてしまう。
走って逃げ出したら、足音で迷惑を掛けてしまう。
アタシは震える手で化粧品を鞄にしまい、火を吹き消した。
椅子から立ち上がり、何事もなかったような顔をして歩き出す。足がもつれる。
まっすぐ自室へ戻ろうとしたが途中、今しがたの出来事と暗闇の恐怖に耐え切れなくなり、ユーカの部屋へ飛びこんだ。
「イーリアは先ほどまでずっと泣いていました」
「それは……かわいそうなことをしたな」
「まったくです。今後、鏡はリートさんの部屋に置いてください」
鏡はわずか数日で女子寮の居間から撤去されることとなった。これ以上被害者を増やすまいというユーカの判断である。
そして現在、鏡は詰所の机を占拠している。傷が付かないよう木箱にしまっておくか。
「どんな顔だったか聞いたか?」
「中年男性の顔だったそうです」
確か、依頼内容の客の話に「見知らぬ人物が映る」とあった。
イーリアの報告には「壁から顔が出てきた」とある。
どちらも人間が映ったという話だが、得体の知れない顔を“見知らぬ人物”と表現するのは少し違和感がある。つまり、それぞれは別の現象と考えた方がいいだろう。
魔法による現象なら法則がある。例えば、鏡を使用した人間に関連する人物が映ったり、特定の変化が起きる。
イーリアの報告だけをみれば、霊が映ったという可能性もある。
しかしソルナの報告では、実体の存在しないものが映ったわけではない。
どうも発生する現象に共通点や法則がないように思えるな。
現象の内容も、起きた時刻も、体験した人物も違う。毎回同じ人物が鏡に映るとか、毎回同じ現象が起きるなら原因の特定もできそうだが、こうも違うと判断がつかない。
……いや、待てよ。少々強引な推測だが共通点はある。“ずれ”だ。
ソルナの報告では、実体と鏡像の不一致。
イーリアの報告では、現実と鏡像の不一致。
どちらの現象でも“ずれ”が発生している。
「ユーカ、鏡はどうやって像を映しているのだろう?」
「面を研いで磨けば像が映りますね」
「何故、磨いたら像が映る?」
当たり前と思っていることを改めて考えると、意外と仕組みがわからないものだ。幼少の頃にきちんと勉強しておくべきだった。
二人で唸りながら首を傾げていると、扉を開く音が詰所に響いた。
「それは光の反射角が揃うからだね。二人ともおはよう」
「サーラ先輩、おはようございます」
「そろそろ困っている頃かと思ってね。用事があったからついでに来たよ」
サーラ先輩はいつもの黒ローブ姿に肩掛け鞄を身に着けていた。
鞄を見せてもらうと、中に書類がごっそり入っている。
「事務所に溜まってる書類を取りにきたんだ。人手が足りないんだってさ」
お疲れ様です。椅子を引いて先輩を座らせると、ユーカがすかさず茶を淹れる。
素晴らしい連携による接待である。もしもここに騎士団長がいたら「これも日々の訓練の賜物である」とか言いそうだな。
「それで、光の反射角が揃うとどうして像が映るんですか?」
「そうだね、まず人の眼の仕組みを教えようか。人の眼はまっすぐに届いた光を捉えて眼の奥で像を結ぶ、と言われている。つまり、私達が見ているのは光そのものなんだ。それぞれの物が発した光、物が反射した光を見ているんだね」
理解が難しいけど、なんとなく想像はできる。
暗い中で火を灯せば、火だけでなく火の光に照らされた物が見える。火の光が物に当たり、反射して眼に届くからだ。
「次に、光には直進の法則と反射の法則というものがある。光にはまっすぐに進む性質があるんだ。そして直進した光が鏡に当たって反射する時、入射角と反射角が鏡面に対して同じ角度になる。だから面が平らだと反射角が揃って像が映る。もしもでこぼこの物に光が反射してばらばらの角度に散ったら、像自体が映らないんだよね」
なるほど。質の悪い鏡に映る像が歪むのは、でこぼこで光をまっすぐ反射できていないからなのか。
でこぼこがもっと多くなってたくさん光が散れば像は映らない。そうなれば、もはや鏡ではないな。
「ちなみに、物によって反射する光の種類は違うんだ。光の種類は色となって表れるんだよ。例えば、ユーカちゃんの髪は濃紺色の光を反射しているね。私の髪は金色の光だ。仮に光をまったく反射しない物質があったら真っ黒に見えると思うよ」
物の性質によって反射する光が違う。つまり……
「人間が見ている光と、鏡が反射している光は同じ、ということですか?」
「そのとおり。どちらも同じ種類の光で、どちらも角度が揃った光なんだ。だから同じものが見える」
きちんと理解できているか怪しいものだが、鏡の性質は分かった。
それならどうして、件の鏡を使うと実体と鏡像が一致しない?
サーラ先輩は茶を一口飲んで、ふう、と肩の力を抜く。
「光の性質ってとっても面白いんだよ。……そして光は“ある神秘”に強く関わっています。今回の件にも関係しているかもしれません。さて、“ある神秘”とは一体なんでしょう? はいリート答えて」
久しぶりに講釈をたれて満足したせいか、先輩が先生形態になった。人差し指を挙げ、こちらを見てにこにこしている。
正解を言わないと朝から長話を聞くはめになるな。
神秘に関係する光……。
太陽、月、星の光、火の光、発光する生物、光精霊。いくつも思い付くが、それぞれに強い関連があるかどうかわからない。
サーラ先輩が先生形態になったということは、今までの話の中に推測の手掛かりを残してくれているはずだ。人間の眼の仕組みと光の性質、“見る”という行為に関連がある。
俺が実際に見ているものと鏡に映るものは同じ光景。そう、光景だ。
本件の鏡が起こしている現象は、実体と光景の不一致。現実と光景の不一致。
……俺はその神秘をよく知っている。
「幻です」
「はい、よくできました。飴ちゃんをあげよう」
鏡に映ったのは幻ということか。現実の空間ではなく、鏡の中にだけ現れる幻だ。
「リートさん見てください。飴にアトリちゃんの顔が描かれています。かわいい」
「城の料理人さんに作ってもらったんだ。ユーカちゃんにもあげよう」
つまり、現象の原因はアトリ……じゃなかった、原因は鏡の中にある。
「ユーカ、棚から工具を取ってくれ。鏡をばらしてみよう」




