四、王都西地区にて目撃された不審者について
「すっかり遅くなったな」
「食べ物を買っておいてよかったです」
西区の外れ、細い路地に二階から三階建ての民家が並ぶ閑静な住宅街に、俺とユーカは来ていた。北西に向かって緩やかな上りの勾配があり、王都の中でも特に階段が多い地区である。
ある日の夕方、不審者を目撃したという連絡があり衛兵が出動したのだが、ただの見間違いであると報告が上がってきた。
翌日の夕方、違う人物からの連絡を受け、同じ現場に衛兵が再び出動。またしても不審者は見当たらず捜査は空振りに終わる。だが、衛兵の一人が捜査の最中に不思議な出来事を経験した。「ほんの少しの間、見知らぬ街へ迷い込んだ」とおかしな報告をしてきたのだ。
仕事が調査隊へ回ってきたのはその直後である。サーラ先輩の予想では、境界が別の場所へ繋がったのではないか、とのことだが、まだ確証はない。
俺とユーカは衛兵に話を聞いた後、夕方に現場へ到着できるよう事務所を出発した。しかし、途中ひったくりの犯人を捕えて衛兵隊に身柄の引渡しをしていたため、日が暮れてしまったのだ。
「衛兵隊に宿舎を借してもらったから急ぐ必要はないが、どうする? 今日の調査は中止しても構わないぞ」
「私は問題ありません」
「俺に問題があると言いたそうだな」
「あります。リートさんは朝が弱いです。夜半まで調査をしたら明日起きられるかどうかわかりません」
「くっ、その通りだ」
目撃の連絡があったのはこの辺りだな。
紺色の空に残ったわずかな光は消えていき、街を闇が包んでいる。民家から灯りが漏れ出しているものの、道を照らすほどの明るさはない。
二つのランタンに火を灯し、一つをユーカへ、もう一つに短い吊り棒を付けて俺の腰に固定する。吊り棒の反対側にランタンと同じ重量物を付けるのが安定させるコツだ。
「ランタンを手で持たないんですか?」
「両手足を空けておきたい。俺の武器は安物の剣と手甲だけだからな」
敵が武器を持っていれば剣を、持っていなければ体術を使う。ヘクスのように馬鹿力があれば長柄を使うべきだが、比較的身軽で非力な俺には白戦が性に合うのだ。念のため短剣を腰の後ろに、麻縄を背中に仕込んである。麻縄は輸入物の椰子繊維を編み込んだ自慢の一品である。
「ユーカも手を空けられるように準備しておけ、……よ」
忠告を言い切る前に、一瞬で目の前へ剣が振り下ろされた。
いつ抜いた? まったく見えなかったぞ。
「片手でも剣を使えます。お互いの片手を封じた試合なら祖父にも勝てるんですよ」
「嘘だろ……」
色々仕込んでる俺が馬鹿みたいじゃないか。
ユーカが左手にランタンを持ちながら右手で剣を振るのを見ていると、剣を止める時や上げる時ですら切っ先がぶれていないことに気が付いた。体幹から切っ先へ、力を上手に移動させている証拠だ。
子供の頃から訓練をしておけば俺も強くなれたのかね。
辺りを照らすと“隧道通り”と書かれた案内板が目に付いた。小さな丘や撤去できない巨大な岩石を貫く、短いトンネルがいくつもある通りだ。住宅街にもかかわらず、観光客で賑わう王都名所の一つである。
だがそれは昼間の話。日が暮れると人通りは無くなり、堰や盛土などの遮蔽物に囲まれた暗く危険な道へと変貌する。
「少しだけ、あの……怖い場所ですね」
「心配いらんさ。人が少ないといっても王都内だから、いざとなったら逃げればいい。大通りまで出れば酒場も開いているだろう。それと、恐怖は身体の動きを阻害する。いつも通りに動けると思わない方がいいぞ」
恐怖は危険を避けるために備わった人間の本能だ。痛みと同じく、人にとって重要な信号の一つであるため無くすことはできない。大事なのは恐怖を受け入れ、感覚を研ぎ澄まし、覚悟を決めることだ。そして、ここでもランジャック隊長の言葉が活きてくる。冷静に見極めろ、だ。
「髪飾りを貸してくれ」
「え? はい」
雪の結晶を象った小さな髪飾りに赤い紐を結び、ユーカに手渡す。
「魔除けだ。気休めだけどな」
「……ありがとうございます」
隋道か。慎重に進むべきだな。
隋道は他の場所と繋がりやすい境界の一つだ。身近な存在でありながら、常に闇が存在する場所である。そのため怪談の現場として語られることも多い。
一箇所の隧道に変化があれば、周辺の隧道や路地にも影響が現れる。十字路に面した隧道は一帯が強力な魔法陣と化すから特に気をつけろ、とサーラ先輩も言っていた。
「しかしなんというか……、こうして見ると境界だらけだな。隧道に路地に水堀か」
「やっぱり調査は明日にしませんか?」
「そうだな。適当に一回りしたら宿舎へ向かおう」
仕事とはいえ、後輩が怖がっているのに強行することもあるまい。詳細な調査は昼間でもできるし問題ないだろう。急ぐ仕事でもないしな。
一つ目の隧道に差し掛かった。天井までの高さは大人一人と半分ほど、幅はおよそ五歩分だ。石組みの入口に魔除けの獅子像が彫られている。十数歩ですぐ向こう側へ抜ける短い隧道のはずだが、あまりの暗さに向こう側が見えない。
「ユーカ、月はいくつだったっけ?」
「二十七です」
「月明かりはほとんどないか」
隧道の中へ進むが、身体感覚に異常はなく、空気に違和感もない。ランタンの風防に囲まれた火も赤々と輝いている。隧道の出口まで来ると、夕餉の残り香なのか、焼けた魚の美味そうな匂いが漂ってきて気持ちが落ち着いた。
「腹減ったな」
「早めに頂いておきましょう。今時期は悪くなりやすいですから」
「ああ」
一つ目の隧道を抜けたところで、袋から夕食を取り出す。パンに少量の焼肉と豆、果物を挟んだものだ。少し塩辛いが、身体を動かしながら食べるのにちょうどいい。
夕食を口に突っ込みながら民家に挟まれた路地を歩いていくと、二つ目の隧道が見えてきた。一つ目よりも少し広く、長さはかなりありそうだ。雨水を脇へ流すための木樋が、入口の上に備え付けられている。
慎重に隧道の中へ一歩踏み出すと、肌が粟立って思わず立ち止まった。
「気付いたか?」
「はい、私でもわかりました」
「そのまま後ろへ下がれ」
隧道から出て荷物を投げ捨て、目を凝らす。
隧道の先に光源があるらしく、ぼんやりと小さく出口が見えるが、何かが出口付近の真ん中で光を遮っていた。誰かいるのか?
「ユーカ、隧道の先に何が見える?」
「……天井から植物の根っこか、蔓の束が垂れ下がっているように見えます」
「わかった。後ろを見ていてくれ」
それはありえない。この道は観光客や住民が毎日通っている。根や蔓が太く伸びれば崩落の危険があるから、地元の人間が整備を怠ることはないはずだ。
隧道に顔だけを入れて、ひたすら目に集中する。濡れた土と錆びた鉄の匂いが鼻をつく。遠眼鏡を持ってくるべきだったな。
違う。
天井から垂れ下がっているのではない。
何者かが逆さになって空中に浮いている。あれは逆さまになった人の形だ。逆光で影になっているが、大きめの頭、不自然に曲がった首、細い胴、体の側面にある腕が見て取れ、足は天井にも壁にも、地面にもつけられていなかった。
焦るな。冷静に見極めろ。錯覚か? 見間違いではないか? あれは本当に人間か? 近くへ寄って確認す――
……ああ、これ以上はダメだ。
「戻るぞユーカ」
「え? はい!」
俺は荷物を担ぎ、背後の気配に感覚を研ぎ澄ませ、後ろを振り返ることなく来た道へ歩き出す。ユーカがあれを見ていなくて良かった。最後に見た奴の影が、瞼の裏から離れない。
奴は突然、両腕をだらりと下げると、その片手は人の生首を掴んでいた。




