第四十三話「交渉と後継者」・6
翌朝以降、月牙とミーミルと妃愛は普段通りに政務や儀礼に顔を出した。
少なくとも、表向きはそう見えた。
しかし、人は嘘を吐けても空気は誤魔化せない。
朝議の場で、ミーミルの目元には普段より濃い隈が浮かび、月牙はどこか上の空で重臣達の言葉を聞き流していた。
そして妃愛は……妙に背筋を張り、必要以上に落ち着き払っているように見えた。
その不自然な"三者の沈黙"を、鋭い者はすぐに感じ取る。
先代王妃――ヘーニルは、娘を遠目に見つめて首を傾げた。
――あの子……どこか、視線が定まっていない。まるで、何かを背負い込んでいるみたいだわ。
また、宮廷筆頭宰相である老重臣も、王の手の震えを見逃さなかった。
――この一月で急に、陛下の顔つきが変わられた。心労か、それとも……。
囁き合う侍女達の間にも、静かに噂が広がっていく。
「最近、ミーミル様はお顔色が優れませんわ」
「妃愛様も、なんだか急に大人びられた気がして……」
「まさか、内密に何か……」
表立って口にする者はいない。だが確実に、宮廷の空気はざわめき始めていた。
そして――一週間も経たぬうちに、妃愛自身の身体にも変化が訪れた。
ある日の早朝。
妃愛は目を覚ました瞬間に、胸の奥から違和感を覚えた。
身体が妙に火照り、下腹部に鈍い重さを抱えている。
寝台から起き上がると、立ち眩みがして壁に手を突いた。
――……何だ? これは……。
心臓が早鐘を打ち、息が乱れる。
鏡に映る自分の顔は、ほんのり赤く、目元に熱を帯びていた。
それから数日。
食欲が急に変わり、これまで好んでいた料理の匂いに吐き気を覚えることさえあった。
侍女達が「夏疲れでしょうか」と心配して薬湯を差し出すたび、妃愛は微笑んで受け取ったが――内心では得体の知れぬ不安に震えていた。
――……まさか。こんなに早く、妃愛の身体に……?
母の言葉を思い出す。
《あなたは国の未来を繋ぐ存在なのよ》
その意味を、妃愛は嫌というほど理解し始めていた。
夜、寝台の中で膝を抱える。
扉の向こうでは、ミーミルがまだ起きている気配がした。
声をかければすぐに駆けつけてくれるだろう――だが、妃愛は口を閉ざした。
――母上に心配させたくない……だが、もしこれが……。
胸に押し寄せるのは、恐怖と誇りの入り混じった感情だった。
誰にも告げられぬまま、妃愛は一人震えながら目を閉じた。
その夜、ミーミルは蝋燭を手に、娘の部屋の前に立っていた。
扉越しに感じる気配が、どうしても気になったのだ。
しばし迷った末、静かに扉を開く。
寝台の上で、妃愛は布団を抱きしめて小さく丸まっていた。
その顔色の赤さを見た瞬間、ミーミルは胸の奥に冷たいものを覚える。
「……妃愛、あなた……」
ミーミルの声は震えていた。
妃愛はハッとして上体を起こす。
【母上……! 何でもない。ただ、少し……体が……】
「隠さなくてもいいのよ」
ミーミルは蝋燭を机に置き、娘の傍に腰を下ろす。
そっと手を取ると、その手は熱を帯び、指先が微かに震えていた。
【……気づいていたのだな】
妃愛の瞳が揺れる。
ミーミルは静かに頷いた。
「母親の目を誤魔化す事は出来ないわ。ここ数日のあなたの変化……私には痛いほどわかる」
【しかし……! まだ、はっきりした訳では……】
妃愛は必死に言い募る。だが、その言葉の裏で自分も確信している事を、ミーミルには見抜かれていた。
「妃愛。これは、決して恥ずかしい事じゃないわ。むしろ……誇るべき事よ」
ミーミルは娘の肩を抱き寄せ、囁く。
「あなたはこの国を救う存在になるのよ」
だが――その声には誇りだけでなく、深い恐怖も混じっていた。
この秘密が露見した時、どんな反発が宮廷を覆うのか。
月牙は、重臣は、そして民衆は……。
【母上……】
妃愛はその胸に顔を埋める。
【正直、怖い。妃愛が本当に母になるのか? こんな、心を失った妃愛が……。もし……本当に子を宿しているのだとしたら……妃愛は、どうすればよいのだ?】
ミーミルは娘の髪を撫でながら、涙を堪えた。
「大丈夫よ。あなたは一人ではないわ。全て、私が共に背負う」
けれど心の奥底では、ミーミルも答えを持っていなかった。
娘を守るためならどんな嘘も吐く覚悟はある――だが、それで国を守れるのか。
母としての愛と、王妃としての責務。その二つの狭間で、彼女もまた静かに揺れていた。
数日後――。
朝議を終えた月牙は、重臣の一人から耳打ちを受けた。
それは、王妃付きの侍女が洩らした噂だった。
「妃愛女帝陛下が……体調を崩しておられるとか」
月牙の眉がぴくりと動いた。
ただの風邪であればいい。だが、胸の奥に冷たい直感が走る。
その日の夕刻、月牙は人払いをしてミーミルの私室を訪れた。
扉を開けた瞬間、ミーミルは机の前で文を握り締めており、その表情は蒼白だった。
「……聞いたぞ」
低く抑えた声で、月牙は切り出す。
「妃愛の体調の事だ。なぁミーミル、まさか何か隠してないよな?」
ミーミルは一瞬、息を呑んだ。
次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑を作る――だが、その笑みは震えていた。
「……ただの疲れよ。あの子は真面目すぎて、勉学も儀礼も無理をしてしまうの」
「言い訳はやめろよ」
月牙の声が鋭く突き刺さる。
「俺は猛辣からも兆候を聞いた。……まさか、本当に――」
そこまで言いかけて、月牙は言葉を呑んだ。
彼女の瞳に、一瞬だけだが決定的な影が差したのを見てしまったからだ。
「……やっぱり、そうなのか」
ミーミルは口を固く閉ざした。だがその沈黙こそ、何より雄弁だった。
「お前……なんで黙ってたんだ!」
月牙は机に拳を叩きつける。
「これは王家の一大事なんだぞ!? 国の命運を左右する事を、勝手に一人で背負い込むなんて――」
ミーミルの肩が震える。
それでも彼女は、細い声で答えた。
「……あの子を、守りたかったのよ」
「守る? こんな隠し立てをして、守れる訳ないだろ!」
「だとしても……!」
ミーミルは顔を上げ、涙に濡れた瞳で月牙を見据える。
「あの子が背負ったものを、母として支えずにいられる訳ないじゃない! 本来であれば、その責務はこの私が受けるべきだったのに、私に子供が出来なかったせいで、あの子に全てを押し付けてしまった。そうなってしまった以上、誰に咎められようと、私にはあの子を全力で護る使命があるのよ!」
その必死な叫びに、月牙は言葉を失った。
重く張り詰めた空気の中、二人はただ睨み合う。
だが――月牙の胸中には別の苦悩が渦巻いていた。
ミーミルも、妃愛も、守りたい。だが、それと同時に、妃愛に子供が出来たとなれば、当初の約束通り冥霊界へ赴く大義名分は得られるのだ。直ぐにでも出発する事は可能だろう。だが、そうなると残された彼女達はどうなる?
真実が明るみに出れば、王家は未曾有の混乱に陥る。
どうすればいいのか。
王国の長として、父として、そして一人の男として――。
答えを見つけられぬまま、月牙は重苦しい沈黙に沈んでいった。
翌朝――王城の奥深く、謁見の間は人払いされていた。
厚い扉が閉ざされ、玉座に座るのは月牙ただ一人。
その前に、小さな影が立っていた。ハルムルクヘヴン帝国二代目女帝――妃愛である。
彼女は蒼白な顔で、それでも背筋を伸ばしていた。
月牙の眼差しを真正面から受け止めようと必死に。
「妃愛」
月牙の声は低く、重かった。
「近頃、お前の体調が良くないって聞いた。……本当か?」
妃愛は僅かに唇を噛んだ。
否定したい。けれど、それはあまりにも薄っぺらい嘘になる。
小さく頷くことしかできなかった。
「……じゃあ聞くぞ?」
月牙は身を乗り出し、鋭い眼差しで彼女を射抜く。
「その身に起こっている事を、俺に隠し立てなく話してくれ」
妃愛の喉がきゅっと詰まった。
ミーミルに口止めされていた。
だが目の前にいるのはこの国の王――彼女にとって義理の父のような立ち位置にあり、自身を敵の魔の手から護ってくれる守護者でもあり、国の頂点に立つ存在。
嘘を通す事は、母を裏切らぬためでありながら、この人を欺く事でもある。
【……ひ、妃愛は……】
彼女の声は震え、涙が滲む。
【……妃愛の中で……命が育っている、と……猛毒雲猛辣に言われた】
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が凍りついた。
月牙は、目を見開いた。
やはりそうか――と悟る一方で、胸に込み上げてくる複雑な感情に押し潰されそうだった。
「……誰の子か、勿論分かってるんだよな?」
掠れる声で問いかける。
答えは分かっている。だが、それを彼女の口から聞かねばならなかった。
妃愛は涙を堪え、必死に顔を上げた。
【……そなたの……子だ】
沈黙が落ちる。
月牙は拳を固く握りしめた。
怒りか、悲しみか、安堵か、自分でも分からない。
だが確かなのは――この少女が、己の未来と国の命運を一身に背負わされているという事だった。
よくよく考えてみれば当然だ。それはこの身を以って彼女の夜伽の相手を務めたのだから。むしろそうでなかったら一体全体どういう事なのかと道理を示さなければならない。
「……どうして、ミーミルと一緒になって隠したんだ」
月牙は低く問う。




