第2話 プロ野球選手へ
~前回までのあらすじ~
夏の甲子園を制した東明館高校の相沢直人。
遊撃手としてだけでなく投手としても結果を残したものの、プロからの評価は分かれ、ドラフトでは横浜海嶺マリナーズから9巡目で支配下指名を受けた。
指名順位を気にすることなく、相沢はプロ野球選手としてのスタートを切る。
ドラフト会議から数日後。
横浜海嶺マリナーズの吉岡スカウトが、球団の編成担当者とともに東明館高校を訪れていた。
ドラフト前から相沢を見てきた吉岡だが、指名後に顔を合わせるのはこれが初めてだった。神谷監督らが同席する中、吉岡は改めて相沢へ頭を下げる。
「改めて、横浜海嶺マリナーズの吉岡です。このたび相沢君との交渉権を獲得しました。球団としても、ぜひ入団してもらいたいと思っています」
「はい、喜んで入団させていただきます」
背筋を伸ばして答えた相沢を見て、吉岡がふっと表情を緩めた。
「まあ、そんなにかしこまらなくていいよ。これからは同じマリナーズの一員になるんだからね」
「こういう場なので、一応ちゃんとした方がいいかなと思って」
「普段どおりで大丈夫。ドラフト前から何度も話してるんだから」
相沢もつられて笑い、肩の力を抜いた。
プロ志望届を出した時から、指名してくれた球団へ行くつもりだった。支配下で名前を呼ばれた以上、入団を迷う理由はない。
9巡目という順位についても、落ち込むような気持ちはなかった。
むしろ、そこから上へ行けばいい。
先に呼ばれた選手がいるなら、プロに入ってから追いつけばいいし、抜けるなら抜きたい。ドラフトが終わった時点で順位は確定したのだから、今さら考えても変わらない。
吉岡は手元の資料を開き、話を先へ進めた。
「ドラフト前にも伝えていたけど、球団としてはまず野手として相沢君を評価している。高校ではショートが中心だったけど、チーム事情次第では他のポジションを守る可能性も当然あると思ってくれ」
「試合に出られるならどこでも問題ないです!」
「ははっ、君ならそう言うと思ったよ」
吉岡は楽しそうに笑った。ドラフト前から何度か話す中で、相沢が守備位置そのものより、試合に出ることを優先する選手だということはよく分かっていた。
「入団後、練習や対外試合を通して君の育成方針を固めていく予定なんだ。今のところは、このまま体作りに専念してもらいたい」
「はい」
高校では遊撃を守るのが当たり前だった。
だからといって、プロでも同じ場所が用意されているとは思っていない。試合に出るために別の場所を守る必要があるなら、相沢にとってはそちらを覚える方が早かった。
話はその後、今後の日程へと移った。
正式な契約手続き、メディカルチェック、新人入団会見。年が明ければ入寮し、ほどなく新人合同自主トレも始まる。
相沢はまだ在学中の身だが、プロ入りに向けてやることは多い。のんびり残りの高校生活を送る余裕はあまりなさそうだった。
「これから忙しくなりますね」
「そうだね。学校の予定もあるし、球団の手続きも続く。年が明けたらすぐ新人合同自主トレだから、しばらくは慌ただしいと思うよ」
吉岡はそこで一度言葉を切り、相沢を見た。
「それと、入団までの残り数か月は、プロ野球選手になるための準備期間だと思ってほしい。体を整えるだけじゃなく、こっちも少しずつ準備しておいてほしいんだ」
吉岡はそう言って、自分の胸元を軽く指した。
それまでの柔らかな口調とは違うものを感じ、相沢も思わず息を呑んだ。
「プロに入れば、野球はもう部活動じゃない。シーズン中は毎日のように練習して試合をして、シーズンが終わっても自主トレや体作りがある。1年を通して野球を中心に生活することになる」
そこまで話すと、吉岡は先ほどまでとは違う真剣な目を相沢に向けた。
「もちろん、好きな野球をやっていればそれで済む世界でもない。結果が出なければ試合には出られないし、怪我をすれば練習すらできない。高校までとは比べものにならないくらい厳しい世界だよ。それでも、そこでやっていく覚悟はできてる?」
相沢は少しも迷わなかった。
「むしろ最高じゃないですか」
「……最高?」
「だって、ずっと野球に集中できる……そんな環境、最高に決まってるじゃないですか!」
吉岡は一瞬だけ目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「ははっ、やっぱり君は面白いな。そういうところも含めて、俺は球団に強く推薦したんだ。プロでどこまでやれるか、楽しみにしてるよ」
「はい、もうワクワクが止まらないです!」
厳しい世界だと言われても、相沢には不安より先に楽しみの方が浮かんでいた。
これまでよりずっと多くの時間を野球に使える。それだけで、これから始まる生活が待ち遠しかった。
「ワクワクするのはいいけど、張り切りすぎて怪我をしたら台無しだから、ほどほどにね」
「分かってます」
「じゃあ、入団までのトレーニングについては球団からメニューを渡すから、無理だけはしないでね」
「はい、ありがとうございます」
指名挨拶を終えたあとも、相沢はこれまで通り学校へ通い、放課後は東明館の施設でトレーニングを続けていた。
球団から渡されたメニューは筋力トレーニングや走り込みといった体作りが中心で、それを終えたあと、時間が合えば後輩たちの練習に混ざってバットを振ったり、ノックを受けたりしていた。
「どうだ相沢、プロのメニューは」
走り込みを終えた相沢がグラウンドの方を眺めていると、神谷が声をかけてきた。
「思ってたより体作りが多いですね。もっとボールを使うのかと思ってました」
メニューそのものに不満があるわけではない。必要だから組まれていることくらい、相沢にも分かっている。
ただ、目の前で後輩たちが打撃練習をしているのを見ると、そちらに混ざりたくなるのも正直なところだった。
「今は入団前だからな。まずは1年戦える体を作るのが先だろ」
「分かってはいるんですけどね。やっぱり打ったり守ったりしてる方が楽しいです」
神谷はその答えに、呆れたように笑った。
「お前は入ったときから変わらないな」
ちょうどグラウンドでは、守備練習の準備が始まっていた。相沢の視線がそちらへ向いたのを、神谷は見逃さなかった。
「今日の分のメニューは終わりそうか?」
「はい、あと少しです」
「そうか、だったらノックに入っていいぞ」
「いいんですか?」
相沢の声が露骨に明るくなる。
「野球の基礎も大事だからな。後輩の指導も忘れるなよ」
「分かってますよ」
そう答えると、相沢はさっそくグラブを取りに向かった。
その足取りを見送りながら、神谷は小さく苦笑した。
* * *
その後、正式な契約手続きやメディカルチェックを済ませ、12月になるとマリナーズの新人入団会見が行われた。
会場には、今年入団する新人選手たちが集められていた。
支配下10人に育成5人。合わせて15人ともなると、さすがに多い。相沢が顔ぶれを眺めていると、その中の1人がこちらに気づき、歩み寄ってきた。
「相沢、俺のこと覚えてる? 武蔵星陵の宮地だけど」
「うん、さすがに都大会で対戦したいいピッチャーは覚えてるよ」
武蔵星陵高校とは、これまでにも何度か都大会で対戦している。宮地とはまともに話したことこそなかったが、左腕から力のある球を投げ込む好投手として、相沢の記憶にはしっかり残っていた。
「本当かよ……東明館には手も足も出なかったのに」
宮地は苦い顔をした。
特に今夏の対戦は、宮地にとって思い出したくもない試合だったのだろう。東明館を相手に最後まで流れをつかめないまま、甲子園への道を断たれたのだ。
「まあ、うちには速水がいたしな」
相沢としては、あの試合で一番印象に残っているとすれば速水だと思っていた。相手打線を寄せつけなかったのだから、そう考えるのが普通だろう。
ところが、宮地は首を横に振った。
「速水もやばかったけど、個人的には相沢の方がトラウマだよ」
「え、俺?」
「何回打たれたと思ってるんだよ。めっちゃ走られたしさぁ」
宮地は思い出しただけでも嫌そうに顔をしかめた。
「そうだったっけ?」
「まあ、これからは味方だと思うと心強いよ」
「それはこっちも同じだよ」
相沢がそう返すと、宮地は照れくさそうに笑った。
改めて周囲を見渡すと、同期になる選手たちはまだあちこちで挨拶を交わしている。高校生もいれば大学生や社会人出身の選手もいて、当然ながら年齢も経歴もばらばらだった。
「しかし、ほんとに多いな」
宮地も同じことを思ったらしく、集まった新人たちを眺めながら呟いた。
「15人ってなかなかないよ。まさにチーム再建中って感じだな」
「まあ、おかげで俺は助かったけどな」
「俺もだ」
そう話しているうちに関係者から声がかかり、2人もそれぞれ決められた席へ移った。
やがて入団会見が始まる。
球団幹部や高城監督からの挨拶に続き、新入団選手が1人ずつ紹介されていった。名前を呼ばれるたびに前へ出て、用意されたユニフォームに袖を通していく。
相沢の名前が呼ばれた。
立ち上がって前へ進み、初めてマリナーズのユニフォームに袖を通す。新品の生地はまだ少し硬く、着慣れた東明館のものとは感触から違っていた。
胸に入っているのは、横浜海嶺マリナーズの文字。
契約を済ませた時にもプロになる実感はあったが、実際にそのユニフォームを着て報道陣の前に立つと、また違った感覚があった。
何度もフラッシュが光る中、相沢はマイクの前で一礼した。
「東明館高校の相沢直人です。1年目から試合に出られるよう、キャンプから全力でアピールしていきます。よろしくお願いします」
短く挨拶を終えると、再び頭を下げた。
相沢にとって、1年目だからまずは経験を積むという考えはなかった。
プロに入った以上、出られるなら最初から試合に出たい。まずはキャンプで、自分がどこまで通用するのかを見せる。
その先のことは、それから考えればいい。
* * *
年が明けると、相沢はマリナーズの選手寮への入寮を済ませた。
衣類や日用品などの荷物は事前に送り、当日は球団から寮での生活について説明を受けた程度だった。
まだ東明館高校には在籍しているものの、数日後には新人合同自主トレが始まる。そこから先は、野球をする場所も生活の中心もマリナーズへ移っていく。
しかし、相沢はその前に済ませておきたいことがあった。
東明館を訪れ、相沢は神谷のいる監督室へ向かう。
年末までは球団から渡されたメニューをこなすため、何度も学校の施設を使っていた。だから、久しぶりに戻ってきたという感覚はない。
ただ、今日は練習をするために来たわけではなかった。
「失礼します」
扉を開けると、神谷は机から顔を上げた。
「おう、相沢か。もう入寮は終わったか?」
「はい。昨日済ませてきました」
「そうか。それじゃあ、いよいよだな」
神谷に勧められた椅子へ座る。
新人合同自主トレが始まれば、東明館の施設で続けてきたトレーニングもここまでになる。学校へ戻ってくる機会はまだあるだろうが、少なくとも野球をする場所としてここへ通うことはなくなる。
そう考えると、これまで何度も入ってきた監督室も、今日はいつもとは違って見えた。
「3年間、お世話になりました。東明館の名に恥じないよう頑張ります」
相沢が改めて頭を下げると、神谷はその様子をしばらく眺めたあと、ふっと表情を緩めた。
「お前そんなタマじゃないだろ。まあ速水に負けないよう頑張れよ」
「もちろんです。投手としても負けたままで終わるつもりはありません」
その言葉に、神谷の眉がわずかに上がった。
「なんだ、やっぱりまだ投手は諦めてなかったんだな」
「当然です、ちゃんとプランも考えてますから」
神谷は相沢の顔を見て、今度は楽しそうに笑った。
「どんなプランかは知らんが、あまり現場を引っ掻き回すようなことはするなよ」
「そんなことしませんよ。まずは野手として結果を出さないと話にならないですし」
「お前は目を離すと何をしでかすか分からないからな」
神谷は苦笑した。相沢にも、そう言われる心当たりはいくつかあった。
「まあ、投手をやるにしても野手をやるにしても、まずはプロの連中に認めてもらうことだな」
「はい」
「高校じゃお前も速水も中心選手だったが、向こうじゃ一番下からのスタートだ。それを楽しんでこい」
「もちろんです。そのつもりで行ってきます」
相沢が笑って答えると、神谷はゆっくり頷いた。
これ以上、改まった言葉を重ねる必要はなかった。
この部屋では3年間、何度も野球の話をしてきた。叱られたこともあれば、試合での起用について話し合ったこともある。最後だからといって、今さら綺麗な言葉を並べるのは2人には似合わなかった。
相沢は椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ。頑張ってこい」
「はい」
もう一度だけ頭を下げ、相沢は監督室をあとにした。
そのまま昇降口へ向かう。
冬休み中の校舎は普段よりずっと静かだった。部活動に来ている生徒の声が遠くから聞こえる程度で、廊下を歩く自分の足音がやけに響く。
階段を下りたところで、相沢は見覚えのある姿に気づいた。
壁際に寄りかかるようにして立っていた速水が、こちらを見る。
「あれ、速水?」
「遅かったな」
待ちくたびれたとでも言いたげな口調だった。
「速水も挨拶に来たのか?」
「ああ、とっくに終わってる」
「そうなんだ」
それなら、なぜまだここにいるのだろう。
相沢は疑問には思ったものの、速水はそれ以上何も言わない。わざわざ尋ねるほどのことでもないかと、そのまま昇降口へ向かった。
靴を履き替え、校舎を出ようとしたところで、後ろから声が飛んでくる。
「おい、相沢」
「なんだ?」
振り返ると、速水は壁から背を離し、こちらへ歩いてきていた。
「暇ならついてこい」
「どこに?」
「大黒食堂だ」
東明館から歩いて行ける距離にある定食屋で、野球部員なら何度も世話になっている店だった。
相沢は意外に思った。速水と2人で食事をすること自体はあっても、向こうから誘われた記憶はほとんどない。
「初めてかもな、お前から誘うなんて」
速水の眉間にわずかに皺が寄った。
「嫌なら帰れ」
「嫌じゃないって、意外だっただけだよ」
「なら黙って来い」
それ以上説明する気はないらしい。速水はさっさと歩き出し、相沢も苦笑しながらその後を追った。
大黒食堂に着くと、2人は向かい合って席に座った。
高校時代にも何度も来た店だけに、メニューを眺めて迷うようなこともない。それぞれ注文を済ませると、料理が運ばれてくるまでの間も、速水から特に話題が出ることはなかった。
相沢はてっきり、何か話があるから誘われたのだと思っていた。
ところが料理が届くと、速水は何事もなかったかのように箸を取り、黙々と食べ始めた。
相沢もしばらく速水を見ていたが、何かを切り出す気配はない。ならいいかと、自分も箸を取った。
しばらくの間、2人の間に会話はなかった。店内の話し声と食器の触れ合う音だけが、途切れることなく聞こえてくる。
別に気まずいわけではない。
高校では毎日のように顔を合わせていたが、速水とはもともと黙っていても困らない間柄だった。
それでも、わざわざ待ってまで誘っておいて本当に飯を食うだけなのかとは思う。
「リンクスの方はどうなんだ?」
結局、相沢が先に口を開いた。
速水は箸を止めることなく答える。
「特に変わったことはない」
「そうか」
「ああ」
それだけで、また会話は途切れた。
速水は何も気にした様子もなく、黙々と箸を動かしている。
相沢もそれ以上話題を探すことはしなかった。もともと2人きりで延々と喋るような間柄でもない。
何か話すことがあれば話すし、なければ黙っている。それだけのことだった。
相沢がそんなことを考えている間にも、速水はいつも通りのペースで食べ続けていた。
結局、食事が終わるまで交わした言葉は数えるほどだった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かって並んで歩き、途中で2人の帰る方向が分かれる。
「じゃあ、またな」
相沢が片手を上げ、そのまま歩き出そうとした。
「相沢」
背後から呼び止められ、振り返る。
「さっさと一軍まで上がってこいよ」
相沢は一瞬、目を見開いた。
「なんだよ、案外俺の方が先に上がるかもしれねーぞ」
「いくら弱小のマリナーズでも、お前が先に上がれるほどプロは甘くない」
「ははっ、確かにそうだな。よし速水、首洗って待ってろよ」
「ふん」
速水はそれだけ返すと、今度こそ背を向けた。
相沢も笑いながら反対方向へ歩き出す。もちろん、先に一軍へ上がるつもりでいた。
しかし、相沢の発言が間違いではなかったことを2人が知るのは、もう少し先のことになる。
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