さよなら
Aya’s Side(文)
半年が経った。
私と新田さんは、互いの人生を削り出すような、ひどく濃密で、危うい時間を駆け抜けた。
世界のバイイングで飛び回る私のスケジュールを縫うように、新田さんは東京、パリ、ミラノ、あるいは名もなき地方の古城まで、仕事の合間を縫って現れた。
それは「不倫」という手垢のついた言葉では到底収まらない、命のやり取りに近い何かだった。
ハイブランドの古着を扱う私の仕事は、一見華やかだが、その本質は「失われた価値の再構築」だ。
新田さんとの恋も、それによく似ていた。
社会的には廃棄されるべき「間違い」の中に、私たちは不滅の輝きを見出そうとしていた。
彼は編集長としての多忙なスケジュールを、私はディレクターとしての世界的なバイイングを、互いの存在を唯一の酸素にするために利用し続けた。
「君は、僕というシステムのバグであり、同時に唯一の動力源だ」
新田さんは、私のショップのバックヤードで、1950年代のオートクチュールのドレスを眺めながらそう言った。
彼は自らの完璧な家庭、完璧な仕事、完璧なパブリックイメージを維持しながら、その裏側で私という劇薬を摂取し続けた。
それは狡さではなく、彼なりの誠実さの追求だったのかもしれない。
どちらの物語も汚さないために、彼は命を削るようにして、二つのレイアウトを同時に推敲し続けていた。
けれど、季節が3月から9月へと移り変わる頃、その二重構造は臨界点に達していた。
別れは、電話でもメールでもなく、私のショップのバックヤードで訪れた。
ミラノから戻ったばかりの私を待っていたのは、新田さんの沈黙の深さだった。
閉店後の静まり返った店内に、彼はいつものように完璧なスーツを纏って立っていたが、その肩には隠しようのない重みが乗っていた。
「……妻に、バレたよ」
新田さんが口を開いた瞬間、室内の温度が凍りついた。
彼は椅子に座ることもなく、トルソーの影に立ったまま私を見た。
その瞳には、半年間私を焦がし続けた熱量はなく、ただ冷徹な絶望があった。
「バレた……っていうのは、どういう風に?」
「彼女は何も言わなかった。ただ、僕が一番大切にしている仕事用の手帳の間に、葉山で君と歩いている時の写真が一枚だけ挟んであった。……それだけで十分だった。彼女は僕という人間を、僕以上に熟知している」
新田さんの声は、驚くほど平坦だった。
彼は非情な人じゃない。
むしろ、あまりに繊細で、自分という人間が「正しさ」から外れていくことに耐えられない、潔癖な男なのだ。
半年間、彼は「すべてを壊さずに成立させる」という自らの美学を、私との恋によって裏切り続けてきた。
その帳尻を合わせる時が、ついに来たのだ。
「……それで、新田さんはどうしたいの?」
私は震える声を抑えて尋ねた。
新田さんはゆっくりと首を振った。
「僕は、彼女に謝罪し、すべてを委ねた。……そうすることでしか、僕という人間をこれ以上、維持できなかったんだ。
……文。
僕は君を愛している。それは今この瞬間も変わらない真実だ。でも、僕は僕が守ってきた『世界』を捨てる勇気がもてなかった」
新田さんは、淡々と話し始めた。
「すまない」
彼が家を出ようとした時の、奥様の静かな反応。
子供たちの何気ない問いかけ。
それらが、いかに彼の「完璧主義」という急所を貫いたか。
彼は家族を、つまり日常という名の正解を選んだ。
私を置いて逃げるのではなく、私を「美しい思い出」という書庫に丁寧にファイリングして、背表紙を閉めるという作業を、自分の手で行いに来たのだ。
「僕は、文という存在を、一生忘れない。……でも、僕は僕であることをやめて、ただ君に溺れるだけの男になることはできなかった。……それは、君にとっても、僕にとっても、最悪のエンディングだ」
新田さんの言葉は、丁寧で、論理的で、だからこそ一切の反論を許さない。
彼は半年という時間をかけて、私への愛を命がけで証明した。
そして今、同じだけの熱量を持って、その物語を終わらせようとしている。
私たちは、それから何時間も話し込んだ。
バックヤードに置かれたアンティークのソファに座り、お互いの半年間を校閲するように。
彼は、私がどれほど美しく、どれほど彼の魂を揺さぶったかを、作家が推敲を重ねるように丁寧な言葉で伝えてくれた。
私は、新田さんという檻の中で、どれほど自由に空を飛べたかを返した。
「……新田さん。あなたは結局、私を最高のデッドストックにしてしたんだね」
「デッドストック?」
「そう。最高級で、一点もので、でも誰の目にも触れず、ただ暗い倉庫で大切に保存されるだけの、美しい在庫。
あなたはそれを、たまに思い出して、指先で触れて満足するんでしょ」
「……厳しいな。でも、そうかもしれない。
君という存在を、僕の人生の最も美しくて、最も残酷な欠落として、僕は死ぬまで持ち歩くよ」
新田さんの声が、微かに震えた。
彼は私を愛している。
でも、彼は自分という物語の責任を、最後には取ったのだ。
家族という本文を維持するために、私という最も輝かしい脚注を削除する。
彼は誠実に、私を捨てた。
「もう行って。家族が待っているんでしょ。
……ルビーの指輪、どうすればいい?」
私が左手の薬指を差し出すと、新田さんは悲しげに目を伏せた。
「君が持っていてほしい。それは、僕が君という真実を予約した、唯一の証拠だから。でも、僕はもう、君に触れる資格を、自分自身で剥奪したね」
新田さんは、最後まで美学を貫き通した。
私に彼を嫌わせる隙すら与えず、完璧な別れのレイアウトを完成させた。
私はその完成度に、ただ、頷くしかなかった。
彼がバックヤードを去る時、一度だけ振り返って私を見た。
その時の、すべてを失ったような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情。
扉が閉まる音。
乾いた金属音が響いた瞬間、私の半年間という物語が、音を立てて崩落した。
彼がいなくなったバックヤード。
さっきまでそこにいた彼の体温が、急速に夜の闇に吸い込まれていく。
私は一人、トルソーが落とす長い影の中に立ち尽くしていた。
「……さ。片付けよ」
自分に言い聞かせ、机の上の資料に手を伸ばした。
けれど、視界が歪む。
最初は一粒、冷たい雫が手の甲に落ちた。
それが合図だった。
「……あぁ」
喉の奥から、自分のものではないような、獣のような呻きが漏れた。
次の瞬間、私はその場に崩れ落ち、アンティークのソファに顔を埋めた。
ダムが決壊するように、涙が溢れて止まらない。
「新田さん……!」
彼の名前を呼ぶたびに、胸の奥が物理的にちぎれるような激痛が走る。
クールで、気高く、何事にも動じない私なんて、そこには欠片もいなかった。
ただ一人の、愛する男に捨てられた、惨めな女がそこにいるだけだった。
命がけだった。
この半年間、私は文字通り、彼に自分の命を預けていた。
彼がパリで私を抱いた時の腕の強さ。
ミラノの朝、まだ暗い部屋で「愛している」と囁いた時の、少し掠れた声。
彼が私の髪に触れる指先一つで、私は天国にも地獄にも行けた。
それほどまでに、私は彼という存在に心酔し、依存し、魂を売り渡していたのだ。
そんな恋が終わった時に、どうして美学だけで笑っていられるだろう。
どうして「アーカイブ」なんて綺麗な言葉で、自分を納得させられるだろう。
「嫌だ……嫌だよ、新田さん……行かないで……!」
私は子供のように泣きじゃくった。
彼が守りたかった世界なんて、私にはどうでもよかった。
彼が奥様に謝罪し、子供たちの元へ帰るという正しい決断が、今の私には呪い以外の何物でもなかった。
正しさなんて、いらない。
私はただ、彼という猛毒に、一生侵されていたかった。
ちぎれる。
本当に、心臓がちぎれて、バラバラになってしまいそうだった。
息ができない。
過呼吸のように肩を上下させる。
ソファの布地を爪が剥がれるほどに握りしめ、私は彼の残像を追い求めた。
けれど、そこにあるのは冷え切った空気と、彼が残していった、重すぎるルビーの指輪だけ。
どれほど泣いただろう。
ショップの床に伏したまま、私は動けなくなっていた。
化粧はボロボロに崩れ、目は腫れ上がり、喉は枯れ果てている。
ディレクターとしての品格も、女としてのプライドも、すべてがこの半年間の情熱と一緒に、床の埃に塗れていた。
ふと、顔を上げると、鏡の中に一人の女が映っていた。
そこには、かつて響子さんが「間違い」と呼びながらも、英秋さんとの恋に命を燃やした時と同じ、深い傷を負った女の姿があった。
響子さんは、この痛みを選んだのだ。
栞という名の憎悪を背負い、泥を啜りながらも、英秋さんの隣に立つという地獄を選び抜いた。
けれど、新田さんは違った。
彼は、地獄へ堕ちるくらいなら、私を切り捨てて天国へ戻ることを選んだのだ。
新田さん。
あなたは結局、私を救わなかった。
あなたは、自分自身を救うために、私といういけにえを捧げたのだ。
「……ずるいよ、新田さん」
枯れた声で、私は笑った。
笑いながら、また涙が溢れてきた。
私をこんなに無残に、剥き出しにしたまま放り出したあなたが、憎いよ。
けれど、その憎しみが、そのまま強烈な愛の反動であることを、私は誰よりも知っていた。
私は震える手で、ルビーの指輪を手に取った。
半年間、私の体温の一部だった石。
今、その輝きは、新田さんが守り抜いた正しさという名の冷たい氷のように見える。
私はその指輪を、ちぎれるほどの力で握りしめた。
手のひらに石の角が食い込み、痛みで正気に戻る。
新田さん。
あなたが守り抜いたその正しい世界の中で、あなたはいつか、私というデッドストックの鮮烈な赤を思い出して。
夜、ふとした瞬間に、私の泣き声が耳の奥で響いて、二度と眠れなくなればいい。
あなたが幸せになろうとするたびに、私という「欠落」があなたの足を引っ張り、その完璧なレイアウトをめちゃくちゃに掻き乱せばいい。
それが、私からあなたへ贈る、最初で最後の呪い。
私は立ち上がり、ふらつく足取りで手洗いに向かった。
冷たい水で何度も顔を洗う。
鏡の中の女は、まだ泣いていた。
この痛みは、私の勲章だ。
これほどまでに誰かを想い、これほどまでに魂を削り、これほどまでに人を愛した半年間。
でも。
誰か、助けて。
助けて。
助けて——。




