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東京エキストラseason3  作者: 小林野ばら


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8/11

永劫の改訂

Kyoko’s Side(響子)


リビングの飾り棚に置かれた鉄砲ユリが、冬の名残を含んだ春先の光に照らされている。

ブンちゃんから届いた「新田さんと少し葉山で休んできます」という短いメッセージを、私はあえて深追いしなかった。


「響子、準備できた?」


背後から、英秋の低く落ち着いた声がした。

振り返ると、彼は数日分の着替えを詰めたキャリーケースを脇に、立っていた。

私たちはこの週末、仕事を一切持ち込まずに、鎌倉へ向かうことに決めた。

ブンちゃんが新田と何度目かの葉山へ出かけているであろうこと、そして、私たちの足元に今も澱のように沈んでいる、あの過去の記憶。

それらを一度、都会の塵と一緒に洗い流すための時間だった。


「今行く」


私はダイニングテーブルの上のMacをシャットダウンし、丁寧に戸締まりを確認した。

完璧にレイアウトしてきた私の日常。

しかしそこに生じた微かなズレを、私は嫌悪していない。

むしろ、その揺らぎさえも、今の私には必要な作業に思えた。


マンション地下の駐車場に停めてある、英秋のペブルグレーのVOLVOに乗り込む。

北欧らしい質実剛健さと温かみを兼ね備えたステーションワゴンは、今の私たちにはちょうどいい。

英秋がエンジンをかけると、静かなアイドリング音が足元から伝わってきた。


車は第三京浜を抜け、鎌倉へと向かう。

窓の外を流れる景色を眺めながら、私はふと、栞のことを考えた。

英秋の娘。

私たちが不倫という道を選び、略奪という形で再婚したあの日から、彼女と私の間に流れるのは、救いようのない相互の憎悪。

それは、どれだけ時間が経っても、どれだけ今の私たちが穏やかな生活を築こうとしても、決して拭い去ることのできない、鮮血のような記憶だった。


「栞から、またLINEが来た」


英秋が、私の心を見透かしたかのように、ハンドルを握ったまま静かに切り出した。

私は視線を窓の外に固定したまま、小さく息を吐いた。


「内容は? 相変わらず、呪いのような言葉?」

「彼女の憎しみは、正当だからね。俺たちが犯した罪は、一生消えない。君をあの激しい言葉に晒し続けていることを、ずっと申し訳ないと思っている」


英秋の声には、疲労と、それ以上に私を守ろうとする固い意志が混ざっていた。

3年前、私たちはすべてを敵に回して、今の関係を選んだ。

私と英秋はそれぞれの家族を裏切り、友人を裏切り、社会的な信頼を危うくしてまで、作家である彼という存在を自分の人生の中心に据えた。

その代償として、栞の憎悪を全身に浴び続け、そして私もまた、彼女という存在を認められない。

私たちは、お互いを拒絶することでしか、自分たちの正しさを証明できないでいる。


「彼女が私を憎むのは、自分の人生を愛している証拠。私も、彼女を愛することはできない。それは、私があなたを選んだことへの、私なりの誠実さだから」

「……娘のことは大事だが、俺は君の味方だ、響子。何があっても。それはあの日、すべてを捨てた時から変わらない」


英秋は、信号待ちの間に私の右手を強く握った。

家の中ではうまく言葉にできないことを、我々はいつも鎌倉の旅行で告白し合う。

彼の熱は、かつての焦燥感に満ちた不倫時代の熱さではなく、罪を共有し、共に生きることを選んだ者だけが持つ、重厚な体温だった。


車は鎌倉の、中心地から少し離れた山側に建つ、歴史ある洋館を改装したホテルに到着した。

私たちはチェックインを済ませ、由比ヶ浜を見下ろすテラスで遅めのランチをとることにした。

3月の海は、白く霞んでいる。


「ブンちゃんも、今頃海を見てるのかな。葉山で、新田さんと潮騒を聞いているのかもね」


私がふと漏らした言葉に、英秋はグラスを置いた。


「新田は、俺たちとは違う。すべてを壊さずに、すべてを成立させようとする。栞のような憎悪を誰にも抱かせないまま、家族を慈しみ、一方でブンちゃんという『真実』を手に入れようとしている。その狡猾さが、俺には少し、危うく見えるね」

「新田さんは、狡いかもしれないけど、私に、文を愛していると打ち明けた。それはたぶん本心だと思う。ただ、あまりに完璧主義なの。ブンちゃんが、その完璧な美学の中で、自分を見失わなければいいんだけど」


私は、運ばれてきたサラダのフォークを置いた。

ブンちゃん。

世界のハイブランドを渡り歩き、誰もが見過ごす古着に新しい価値を見出す、誇り高いディレクター。

彼女が新田さんのもとへ走ったとき、私は不思議と、彼女を責める気持ちにはなれなかった。

むしろ、彼女が「正解」という光の中で生きることをやめ、新田という、より深く、より残酷な物語へ身を投じたことに、ある種の共鳴を抱いてさえいた。


「私たち、ブンちゃんたちのことを心配してるふりをして、実は自分たちの傷を確かめてるだけかもしれない」

「そうかもね。あいつらの、あの危うい熱量が、俺たちにもあったことを懐かしんでるのかも」


作家である彼は、いつも物事を物語として捉える癖がある。

4年の泥沼と、3年の日常生活。

それらが積み重なってできた、重みのある体温。


ランチを終え、私たちは長谷寺まで歩いた。

石段を登る足取りは、3年前よりも少しだけ重いけれど、隣に英秋がいるという事実に、私は深く安堵していた。

観音堂の前で手を合わせる英秋の横顔を盗み見ながら、 かつて彼との恋に溺れ、すべてを捨てようとした時の激しさを思い出す。

けれど、今の私たちには、栞の憎悪さえも分かち合って歩む、共犯関係がある。


「英秋。娘ちゃんのこと、もう少し時間をかけよう。

彼女がいつか、あなたと、そして私と向き合える日が来るまで。たとえそれが10年先だとしても。でも、私は彼女に媚びるつもりはないよ。それが私のプライドだから」

「響子らしい。俺も、君のそういう強さに、何度も救われてきたよ」


鎌倉の夜。

私たちはホテルの最上階、月明かりが差し込むプライベートテラスで、シャンパンのボトルを開けた。

ブンちゃんへの連絡は、やはり入れないことに決めた。

新田に「予約」された彼女の時間は、今、彼女にとって最高の物語であるはずだから。


「響子、少しこっちへ来て」


英秋が、柔らかな声で私を呼んだ。

私はグラスを置き、彼が座っているソファに歩み寄る。

夜の海風が私の髪を揺らし、英秋の香水の匂いと混ざり合う。

英秋は、らポケットから小さな、古びた一冊のノートを取り出した。

それは彼が7年前、私と出会った頃に書き始めた執筆のためのメモ用の手帳だった。


「7年前、俺たちが出会った時のことを覚えてる?君はこの鎌倉の海を眺めていた。俺たちはここで出会った」

「忘れるはずない。私は元彼に振られて傷心旅行だったね」


私はあの頃を思い出して懐かしく笑った。


「あなたに声をかけられて。あの作家の九条英秋だと知った時には驚いて声も出なかった」

「いい女が海で泣いてるなと思った」


英秋も笑う。


「泣いてない」

「泣いてたよ。

あれが俺たちの物語の『序章』だった」


英秋は手帳の最後の方のページを開き、私に見せた。

そこには、彼の端正な筆致で、たった一行だけ、新しいタイトルが書き込まれていた。


『永劫の改訂』


「作家としての俺は、完璧なエンディングなど信じていない。人生は、何度でも書き直されるべき未完成の原稿だ。でも、その全てのバージョンに、君という一節が必要だ」


英秋は手帳を閉じ、その上に、驚くほど静かな輝きを放つダイヤモンドのリングを置いた。


「3年前、俺は君を奪った。でも今は、君に俺の全生涯を差し出したい。

俺と結婚してほしい」


二度目のプロポーズ。

それは、私たちが「生活」という名の過酷な戦場を生き抜き、お互いの欠落を乗り越えた末に辿り着いた、最終的な解答だと私は思った。

作家である彼らしい、あまりに重く、あまりに傲慢で、けれどこれ以上なく真摯な誓いだった。


「あなたは本当に、意地悪ね。こんなに逃げようのない言葉を用意されたら、私はもう、頷くしかないじゃない」


私は震える手で、その指輪を受け取った。

新田がブンちゃんに贈ったというルビーは、刹那の情熱を燃やす火花。

けれど、今、私の指に秀秋が滑らせたこのダイヤモンドは、不変の覚悟と、永遠に続く日常の結晶。


「ありがとう、英秋」


私は英秋の胸に顔を埋めた。


「3年前にも、鎌倉の海に来たこと覚えてる?」

「もちろん」

「その時、あなたは私に『愛している』と言った。その返事を言わせて」

「ずいぶん遅い返信だな」


彼は笑った。


「あなたを愛している」


泣き笑いで私は言った。

彼の胸の心音は、3年前よりも力強く、揺るぎない。

栞の憎悪が消えることはない。

世間が私たちに向ける冷ややかな視線も、変わることはない。

けれど、この腕の中にいる限り、私は一人の女として、一人の表現者として、どこまでも自由に、どこまでも誇り高く生きていける。

私は、左手の薬指で燦然と輝くダイヤモンドをそっと眺めた。


ブンちゃんは今、新田の隣で、どんな一頁を味わっているだろう。

彼女がディレクターとして世界を股にかけ、最高級の古着を扱うように、彼女自身の人生もまた、時の洗礼を受けて、より深い価値を宿していくのだろうか。


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