ルビーの指輪
Aya’s Side(文)
「海が見えるよ、文」
新田さんの、低く落ち着いた声が鼓膜を優しく震わせた。
私は、アウディの滑らかな振動の中でゆっくりと目を開けた。
フロントガラスの向こう、西湘バイパスを滑る車窓に広がっていたのは、冬の重苦しさを脱ぎ捨て、春の光をたたえ始めたばかりの相模湾だった。
新田さんのスタジオで夜明けを迎えてから、一ヶ月と少し。
私の世界は、まるごと新田さんの手によって書き換えられた。
3月の風はまだ冷たいけれど、車内を満たす高級なレザーの匂いと、彼の静かな存在感が、私を外の世界から完全に遮断してくれている。
「寝ちゃってた」
「知ってる。寝言を言ってた」
「嘘!」
「嘘」
「もう」
新田さんは笑った。
「……3月の海って、少し寂しいけど、その分、純度が高い気がするね」
「そうだね。もう春だから」
私は、膝の上で指を組んだ。
この一ヶ月、新田さんは私を安易に甘やかすようなことはしなかった。
ただ、週末になるとこうして、彼が「僕の感性に合う」と選んだ場所へ私を連れ出し、一流の食と、一流の孤独を教えてくれた。
新田さんと会うことは、我を削り、彼が理想とする形へとはめ込まれていく作業でもあった。
それは痛みすら伴うけれど、何にも代えがたい高揚感があった。
目的地である葉山の高台にあるオーベルジュに到着し、テラス越しに水平線が見渡せる部屋に入ると、潮騒の音が鼓膜を優しく叩いた。
「君に」
新田さんが、小さな革製のボックスをテーブルに置いた。
開くと、そこにはプラチナの台座に、燃えるような真紅を宿したルビーが鎮座していた。
その石の、あまりに濃厚で、暴力的なまでの色彩に、私は一瞬息を呑んだ。
「……綺麗。私に?いいの?」
「君に似合う石を選んだ」
「ありがとう」
言いながら、私が、どの指に通すべきか迷いながら、右手の指を一本ずつ眺めていると、新田さんは何も言わずに私の左手を取った。
彼は迷いのない動作で、私の左手の薬指に、その指輪を滑り込ませた。
「……新田さん、そこは」
「ここがいい。文を構成するすべての要素の中で、最も『予約』が必要な場所に、僕のしるしを置いておきたいんだ」
冷たい金属が指の付け根に落ち着き、ルビーの重みが肌に沈む。
左の薬指。
かつて、もっと素朴で、もっと「正しい」恋をしていた頃、その場所が持つ意味の重さに臆病になっていたはずなのに。
今の私には、新田さんによってその聖域を奪われることが、何よりも甘美な降伏に感じられた。
「……ルビーの指輪、か。昔、寺尾聰さんの曲であったね、なんちゃって」
私は軽口で照れ隠しをした。
新田さんは一瞬だけ意外そうに目を見開き、すぐに優しく笑い崩れた。
声を立てて笑う。
「僕も実は思い浮かんでたけど、格好つけてた」
私たちは笑い合った。
そして、陽に指輪を透かしてみせた。
「きれーい」
「君は、時々僕をひどく驚かせる。
確かに、少しクラシックだね。でも、ルビーは不滅の愛と勝利の石だよ。文には、そのくらいの重荷を背負っていてほしい」
新田さんは私の手を取り、指輪のすぐ近く、関節のあたりに唇を寄せた。
「愛している」という言葉よりも先に、「予約した」という支配の宣言が、私の胸を熱く焦がす。
ランチを終えた後、私たちは葉山の海岸を散歩した。
週末、3月の砂浜にはカップルや家族の姿が見える。
白く砕ける波の音が響く。
新田さんの少し後ろを歩きながら、私はふと、喉の奥に苦い記憶が蘇るのを感じた。
……いつか、聡太くんとも、こうして海に来たことがあった。
あれはもっと暑い時期で、砂は熱く、空はもっと突き抜けるように青かった。
市役所職員として働く聡太くんは、Tシャツに短パンという、どこにでもいる青年らしい格好で、私の隣で屈託なく笑っていた。
聡太くんはファイブミニをコンビニで選んで、私はそれを笑った。
手に届きそうな、ささやかで健全な未来を語り合っていたあの日々。
聡太くんの隣にいた私は、今よりもずっと身軽で、そして「普通」だった。
新田さんは、立ち止まって海を見つめている私を振り返り、優しく手招きをした。
「どうした、文。足元が冷える?」
「……ううん、大丈夫。少しだけ、前の自分を思い出してた」
新田さんは、私の言葉の裏にある過去をすべて察したかのように、私の左手を強く握り直した。
カシミアのコート越しに伝わる彼の体温は、聡太くんのTシャツ越しに感じたあの陽だまりのような熱さとは、決定的に違っていた。
新田さんの熱は、私の核を焼き、作り替えてしまうような、知的で残酷な熱量だ。
「前の自分なんて、もうどこにもいないよ。文。君は今、僕の隣にいる。思い出に、その指輪を汚させてはいけない」
「……うん。そうだね」
新田さんと手を繋ぎ、私は遠くに見える江ノ島の輪郭を見つめていた。
1ヶ月前、響子さんの背中を追うことに必死だった自分も、聡太くんと普通の未来を夢見ていた自分も、もう死んでしまったのだ。
今の私には、誰の目にも触れない場所で、彼だけに読まれる真実であればいい。
夕方、部屋に戻ると、空は紫とオレンジが混ざり合う不穏な美しさに染まっていた。
贅沢な食事をいただき、私たちは部屋できりっと冷えたシャンパンを飲みながら、いろんな話をした。
やがて新田さんは、私の隣に腰を下ろし、私の指に光るルビーに口付けて、「綺麗だ」と言った。
「本当に綺麗」
「文がね」
「そういうのいちいち照れるから」
「知ってる。可愛いからわざと言ってる」
「もう、意地悪すぎる」
そう言うと新田さんは笑う。
冷徹な編集長というイメージは覆され、この人は意外とよく笑う。
そしてその笑顔が、普段の真顔の彼とは違い、どこか幼い少年のような、それでいて微かな笑い皺が大人のような、危うい魅力を放っている。
やがて私たちはベッドに沈み込みながら、刹那の絶頂を味わう。
新田さんのそれは、私の意識の奥底から正しさを抜き取り、代わりに彼だけのロジックを植え付けていく、静かな洗練。
私は文という個体ではなく、新田という巨大な意識の一部に、ようやく、本当になれたのだ。
テラスで赤ワインを飲みながら、私たちは夜の海を見つめた
3月の夜風はまだ冷たく、新田さんがかけてくれたストールの温もりが愛おしい。
「東京、戻りたくないなあ……」
「いいよ、俺とここで心中する?」
本気とも冗談ともつかない台詞を言う。
しかし目の奥が笑っている。
「そういうとこ」
私が言うと新田さんは笑う。
いつも。いつもだ。
私の言葉に笑ってくれる。
それが、もう好きだった。
もうダメだった。
「乾杯しよう。文。君という、僕だけの『最高の間違い』に、このルビーにかけて永遠を誓う」
新田さんの言葉は、私の中に残っていた最後の迷いの破片を、綺麗に粉砕した。
そう、響子さんも、聡太くんも、もう過去の登場人物に過ぎない。
彼らが「正解」という光の中で生きている間に、私は新田さんと共に、誰も理解できない高貴な孤独へと昇っていく。
月明かりに照らされた銀色の海が、すべてを飲み込むように静かに広がっている。
この幸福が、いつか終わるかもしれないという予感を孕みながら。
深夜、私は隣で眠る新田さんの寝顔を見つめていた。
3月の冷たい月光が、彼の横顔を鋭利に切り取っている。
私は、左手の薬指で鈍く光るルビーをそっと眺めた。
私は戻らない。
普通の自分にも。
聡太くんと歩くはずだった、平凡な砂浜にも。
たとえここが、一生誰にも読まれることのない「脚注」の暗闇だとしても。
新田さんの隣で、一頁の真実として、私は、焼き尽くされるまで彼を愛し抜く。




