Blue Distortions / 青い歪み
Kyoko’s Side(響子)
午前5時。
隣で眠る英秋の肩が、一定の重いリズムで上下していた。
私はシーツから静かに這い出し、裸のままガウンを羽織ってリビングへと向かった。
ダイニングテーブルの上には、昨日、栞から手渡された一冊の単行本が、昨夜の記憶を繋ぎ止めるように置かれたままだった。
英秋の処女作。
まだ、彼が誰の人生も踏みにじっておらず、その言葉がただ純粋な祈りだった頃の、透明な表現が並んでいる。
今の彼からは決して生まれない、剥き出しの希望。
私は手元のライターを手に取り、その表紙の角に、迷いなく火を灯した。
紙が焼ける、喉の奥に張り付くような独特の匂いが、朝の澄んだ空気の中に広がっていく。
かつて彼が、私以外の誰かに捧げた永遠。
それを物理的に、そして概念的に、この世から消去する作業。
それは破壊ではなく、私と彼の現在を完成させるための、不可欠な儀式だった。
「……さようなら、栞」
灰皿の中で黒い結晶のように縮れていく頁。
それを眺めながら、私は自分の内側に澱んでいた、名前のない執着を、この炎で静かに焼き切ろうとしていた。
私たちが生き残るためには、この美しすぎる過去は、あまりにも邪魔な存在だった。
「……朝から、何を焼いているんだ」
背後から、低く掠れた声がした。
振り向くと、英秋がドアの枠に寄りかかって、こちらの指先を見つめていた。
寝起きの充血した瞳が、灰皿の中でくすぶる残骸を、見下ろしている。
「ただの掃除」
私はライターを置き、鏡の前で身なりを整えるときのような、微かな微笑みさえ浮かべてみせた。
英秋は、何も言わずにゆっくりと歩み寄ってくると、私の指先に残った灰を、自分の親指で強く、皮膚が赤くなるまで擦りつけた。
「捨てれば済むものを、わざわざ焼く。……君は自分が思っている以上に、栞に追い詰められている。違うか?」
「追い詰められてなんてない。ただ、視界にノイズが入るのが耐えられないだけ」
「そうか」
呟いた。
「おいで」
彼は、両手を広げて、私を招き入れた。
私はその胸に顔を埋め、彼の深い呼吸と、染み付いた煙草の匂いを吸い込んだ。
英秋もまた、私の首筋に顔を埋め、執着の籠った吐息を漏らした。
「仕方のない子だ」
表参道のデザイン事務所。
スタッフたちがプロジェクトの進捗に追われ、慌ただしく行き交う中、新田がアポイントメントの時間通りに現れた。
完璧にプレスされたシャツの襟元、一切の淀みがない歩調。
彼は、一流の編集長という、非の打ち所がない完璧な仮面を今日も被っている。
「響子さん、英秋さんの新作サイト、最終の詰めをしましょう。……それから、個人的な話も少し」
新田は、打ち合わせの冒頭、私の目を射抜くように見つめて言った。
私は周囲のスタッフに目配せして下がらせ、二人きりになった会議室で、新田のために深くローストされたコーヒーを淹れた。
「個人的な話って、ブンちゃんのこと?」
新田は窓の外、絶え間なく流れる表参道の雑踏を見下ろしながら、静かに、けれど逃げ場のない声で話し始めた。
「文から、何か聞いたかな。……昨夜、僕は彼女を僕のスタジオに招きました」
「聞いた。……茨の道だって分かっていて、それでも堕ちることを選んだと、LINEで。
彼女、今までに見たことないような、純粋な熱量に溢れたメッセージをくれた」
「堕ちる、か。……響子さん、勘違いしないでほしいのだけど。僕は、彼女のことは本気です」
新田の口から出た「本気」という言葉の、あまりの重さと、無機質な純度の高さ。
私はわずかに呼吸を止めた。
「本気?……あなたは自分の人生を完璧に編集済みだと言っていたじゃない。家庭という正しい日常、編集者としてのキャリア、それらを守るために、彼女を別の領域に切り分けた。彼女のことはいわば、あなたの物語における『脚注』なのでは?」
私の問いに、新田は一瞬だけ、唇の端に歪な笑みを浮かべた。
「いいえ。……脚注こそが、その本の真価を決めるます。本文には書けない真実、それが彼女です。文の存在が僕のキャリアに傷をつけるリスクがあることも、すべて承知の上です。僕は、彼女という『間違い』を、僕の人生の最終章にするつもりです」
新田の瞳の奥には、静かな、けれど逃げ場のない執着が宿っていた。
彼は、彼女を自分の「秘密の聖域」として完璧に所有し、その存在そのものを自分の物語の一部として固定しようとしている。
その傲慢な愛し方は、私と英秋が積み上げてきた略奪という泥臭い、けれど血の通った行為とは一線を画す、冷酷なまでに美しいエゴイズムだった。
「僕は、文を愛している」
「……ブンちゃんは、もっと自由に生きたいタイプかと思っていたけど」
「彼女もまた、僕に壊されることをどこかで渇望しています。……あなたが英秋さんにそうしたように、です。僕たちは、似た者同士なんです、響子さん」
私はコーヒーの黒い渦を見つめながら、内側から浸食してくるような焦燥を抑えられなかった。
新田の本気は、私と英秋の過去を、より一層醜い、救いのないものへと貶める鏡のように感じられた。
私たちは、誰かを傷つけて奪うことでしか愛を証明できなかった。
けれど彼は、守るべきものをすべて守りながら、誰にも触れられない場所で「間違い」を完成させようとしている。
その洗練された暴力的な愛に、私は眩暈を覚えた。
夕方、私は文へLINEを送った。
新田が「本気だ」と言っていたこと。
そして、その本気が、彼女が想像しているような甘い救いではないこと。
私は、彼女を守りたかったのか、それとも、彼女が抱く幻想を壊したかったのか。
「ブンちゃん。新田さんと話したよ。
彼はあなたのことを本気だと言っていた。彼はあなたを愛していると言っているけれど、それは普通の恋じゃない。
それでも、あなたが後悔しないというなら、私は応援する」
返信は、数分後に届いた。
「わかってます。 彼の一部になれるなら、私は幸せです。 響子さん、心配してくれてありがとう。 でも、私はもう、戻りたくない」
文の言葉には、一切の迷いがなかった。
彼女は、新田という劇薬を自らの細胞に直接注入している。
かつて私が、英秋の言葉に溺れ、すべてを捨てて彼の手を取ったあの夜と同じ。
けれど、文の方が、より深く、より無邪気にこの絶望を「愛」と呼んでいるように見えて、私は言葉にできない苛立ちと、微かな敗北感を覚えた。
仕事を終え、タクシーでマンションへ向かった。
車窓に映る自分の顔は、朝よりもずっと険しく、そして疲れ切っている。
文の幸福。
新田の本気。
そして、闇の中に潜む栞の監視。
それらすべてが、私という中心に向かって収束してくるのを感じる。
逃げ出す場所なんて、最初からどこにもなかった。
リビングは、静まり返っていた。
書斎のドアの下から、細い明かりが漏れている。
英秋は相変わらず、執筆を続けている。
私は執筆中の英秋に敢えて挨拶をせず、寝室へ入り、服を脱ぎ捨てた。
鏡に映る自分の肌には、今朝、英秋がつけた痕が微かに赤く残っている。
私はガウンを羽織り、そのまま、冷たいベッドに潜り込んだ。
しばらくして、ドアが開く音がした。
英秋が、疲れを全身に纏って現れた。
彼は一言も発さず、ベッドに沈み込むと、背後から私を強く抱きしめた。
英秋の手が、私のガウンの中に潜り込み、私の太腿を強く掴む。
指先が食い込み、鈍い痛みが走る。
それは、慈しみなどではない。
自分の言葉で塗り潰せない過去の亡霊を、肉体の暴力的な快楽で上書きしようとする、焦燥に満ちた愛撫。
私は、英秋に抱かれながら、文から届いたメッセージを反芻した。
「彼の一部になれるなら、幸せです」
その、無垢で、薄っぺらで、それでいて眩しすぎる言葉が、私の喉元に鋭い刃のように突き刺さる。
ブンちゃん。
あなたは自分が特別な恋をしていると思っているみたいだけれど、そんなものはまだ、ただの始まりに過ぎない。
あなたが今、新田から与えられている甘い言葉も、肌の熱も、すべては新田という冷徹な編集者が用意した完璧なプロットの一部。
私と英秋が積み上げてきたものは、そんな一晩の熱量とは次元が違う。
私たちが共有しているのは、社会的な死を代償にして手に入れた、決して消えない「黒い刻印」。
あなたが夢見ている「愛の一部」になるなんていう可愛げのある願望とは、その質量の桁が違う。
「英秋。……もっと。
ブンちゃんが抱えている、綺麗な恋を、全部かき消すくらいに」
私の挑発的な言葉に、英秋はさらに力を込め、私の肌を乱暴に蹂躙した。
彼の肉体が衝突するたび、脳裏には新田の冷徹な眼差しと、文の幸せそうな笑顔が交互に点滅する。
文、あなたはまだ知らない。
奪う側の、底なしの快楽を。
正しい道を歩むことを諦め、誰かを傷つける側に回った者だけが味わえる、優越感を。
私は英秋の背中に、指先が白くなるほど力を込めた。
痛みが走るたび、私は文への、栞への、そしてこの世界への勝利を確信する。
英秋の呼吸が荒くなり、私の耳元で掠れた声が漏れる。
「響子……君は一生、俺から逃げられない。……君を塗り潰すのは、過去じゃない。俺だ。……文なんて今はどうでもいい」
その言葉とともに、彼は私の中へと全てを放出した。
身体が激しく震え、意識が白く弾ける。
その瞬間、私は文の存在を、そして彼女の幸福を、完全に足蹴にしたような、毒々しい高揚感に包まれた。
深夜。
英秋が深い眠りに落ちた後、私はベッドの中で天井を見つめていた。
文が手に入れた、生まれたての瑞々しい熱量。
私が守り抜こうとしている、この黒い熱量。
私は静かに目を閉じた。
暗闇が広がる。
私たちは、上書きし続ける。
過去を、罪を、そして、自分たち自身の脆弱な良心を。
栞が投げかける、「正しさ」という光に、網膜を焼かれながら。




