Subtext
Aya’s Side(文)
新田の運転するアウディA7は、静ひつな加速とともに、眠りにつこうとする東京の街を滑り出していた。
車内は外界の音を完璧に遮断した真空のようで、ナビの液晶パネルが放つ白い光が、新田の端正な横顔を青白く縁取っていた。
車内に漂うのは、彼が愛用するシダーウッドの香りと、小さく流れるFMの音楽。
アウディの、無機質なまでに磨き上げられたインテリアは、新田という男の生き方そのものを象徴しているように思えた。
何一つ無駄がなく、すべてが正しく配置され、正常に機能している。
そのあまりの潔白さが、助手席に座る私に、自分が不純物であるかのような錯覚を抱かせた。
「どこへ行くんですか?あなたの、ご自宅?」
私はわざと、彼が最も触れられたくないはずの一線を言葉にした。
横顔を盗み見る。
新田の瞳が、わずかに細められる。
けれど、そこに狼狽の色はない。
「いや。家には、僕が僕という人間を正常に機能させるための、静かな日常がある。
そこは君という例外を招き入れる場所ではないからね。
僕が個人的に借りている、スタジオがあるんだ。
代々木八幡にね。そこなら、誰にも邪魔されずに話ができる」
その言葉に、私は微かな敗北感と、それ以上の安堵を覚えた。
彼は、日常という自分の城を完璧に守り抜いている。
家庭という場所に「不満」などというダサい言い訳は持ち込まない。
彼はただ、自分の正しさを維持するために、私の存在を別の領域に切り分けようとしているのだ。
その残酷なまでの誠実さが、私を傷つけ、また私を惹きつける。
車はコンクリート打ちっぱなしの無機質な建物の前で停まった。
新田に促されるまま重い鉄扉を開けると、そこは天井の高い、がらんとした空間だった。
壁一面を埋め尽くす、彼が手掛けてきた本のバックナンバー。
プロ仕様のライティング機材。
「座って。コーヒーでも淹れよう」
新田はキーをテーブルに置き、ジャケットを脱いで椅子に掛けた。
シャツの袖を捲り上げるその動作は、一人の男に戻るための儀式に見えた。
豆を挽く乾いた音が、静寂なスタジオに響き渡る。
私はソファに深く腰を下ろし、彼が丁寧にドリップする後ろ姿を眺めていた。
「新田さん。あなたは、すべてを揃え、すべてを手に入れたはずなのに。
どうして、私なんですか」
新田は手を止めず、静かに、けれど重みのある声で語り始めた。
「愛しているよ、妻のことは。彼女との生活は、僕という人間を社会的に正しく成立させるための、唯一の接点だから。
彼女が用意してくれる朝食、整えられた寝具、穏やかな会話。
それらは僕にとって、嵐の海における錨のようなものだ。
……でもね、文さん。
錨を下ろしたままでは、船はどこへも行けない。
僕は時折、自分が深い霧の中に閉じ込められたような、言いようのない焦燥に駆られることがある。
すべてを揃え、すべてを手に入れたはずなのに、自分という人間がスカスカに透けて見えるような夜がある」
彼はドリッパーを置き、ゆっくりと私の方を振り返った。
「僕はね、自分の人生を編集しすぎたのかもしれない。
不純なものを削ぎ落とし、正しさと美しさだけで構成された完璧な一冊を作り上げた。
けれど、その本には血が通っていない。
3年前、サイン会で君を見かけたとき、僕は戦慄した。
君の瞳には、僕が捨て去ったはずの傷の痛みを知っているような瞳が宿っていて。
君は、誰にも見せない傷を抱えながら生きているように見えた。
その姿が、僕という空虚な器を、これ以上ないほど残酷に突き刺したんだ。
僕は、君という『間違い』を犯すことでしか、自分が生きている実感を掴めないところまで来てしまった」
新田が私の前にカップを置く。
立ち上る湯気が、私たちの間の空気をわずかに潤す。
彼は私の隣に座った。
「あの……難しすぎて何言ってるか分かんないんですけど……」
こんな緊張した場面で私は空気を読まずに新田の言葉を茶化して笑った。
そうでもしないと心臓が止まりそうな自分を保てなかった。
新田は吹き出して声を立てて笑った。
破顔一笑。
ふいに笑った顔は、年齢よりずっと若々しく見えた。
「そういうところが英秋さんも気に入ってるんだろうね。
面白い。難しい言葉で君を口説くのはよそう。
まわりくどいことを言ってるけれど、単純明快な話だよ。
僕は君に一目惚れをした。
小賢しいことを言ってるけれど、今の僕は完璧な編集長ではなく、恋に落ちたただの一人の男だ。
どう?これで意味がわかる?」
さっきよりずっと優しい目をして、新田は微笑んだ。
「ごめんなさい、茶化したりして。
あなたの言葉は、いつも私の臆病さを、一番醜い形で暴いてしまうから」
「醜くなんかない。君は誰よりも美しい。君の名前も。文学の文。この世で一番美しい名前だ」
新田の手が、私の頬に触れた。
家庭という正しさを維持している男が、その裏側でどれほどの質量を抑圧してきたのか。
その熱が、彼の指先から私の肌へと流れ込んでくる。
もうこれ以上私は冗談を言えなかった。
「あなたを好きになったら、私は誰かを傷つける側になってしまうよ」
私の告白に、新田は短く息を吐き、私を強く引き寄せた。
「……文」
新田はその時私を初めて「文」と呼び捨てにした。
「不実だと言われても構わない。
僕は、君という真実を、僕の日常の裏側に、永遠に隠し持っていたい。人生の最終章は文だ。」
その言葉に、私の中の最後の砦が、音を立てて崩れ去った。
ああ、この人を愛さずにはいられない。
初めからわかっていたこと。
私たちは吸い込まれるように唇を重ねた。
それからは、残酷なほど甘い時間だった。
彼は私のブラウスのボタンに指をかけ、一拍、置いた。
「……文。君の心臓の音が、指先にまで響いている。
そんなに怖がらなくていい。
僕は、君を傷つけたいわけじゃない」
その一言だけで、私の全身は熱い何かに貫かれた。
一つ、ボタンが外れるたび、スタジオの冷えた空気が私の肌をかすめる。
けれどすぐに、新田の視線がその場所を灼くように熱く覆う。
新田の温かな唇がそっと首筋に触れた。
「新田さん、あたし」
そう言いかけた時、新田は再び唇を塞いだ。
「君はもう、僕を求めている」
彼の低い声が、耳元で吐息とともに震える。
新田の手は、私の背中をゆっくりとなぞりながら、私のこわばった心を解きほぐしていった。
私は、彼が私のすべてを読み取っているという事実に、得体の知れない快感を覚えた。
一人の男に「個」として、これほどまでに深く見つめられたことがあっただろうか。
ただの「文」という存在として。
新田の唇は、私の首筋から鎖骨へと降り、その窪みを丹念に、そして深く愛おしんだ。
力でねじ伏せるような征服ではない。
私が私自身の意志で、彼という深淵を求めて堕ちていくことを、彼は静かに、けれど完璧に導いていた。
彼は、私のスカートを滑り落とさせると、そのまま私を深く抱きしめた。
「文、僕を見て。……君の瞳に映っているのは、誰でもない、僕だ」
彼の命令に近い囁きに、私は抗う術を持たなかった。
やがて、肌と肌が直接触れ合った瞬間、静電気のような火花が散った。
彼の愛撫は、性急な欲望ではなく、深い共鳴だった。
「あなたを、壊したい」
それが、新田の最後の言葉だった。
彼が私の中へと深く沈み込んだとき、私は自分の魂の形が、新田という型によって作り変えられていくのを感じた。
それは、痛みに似た充足であり、絶望に似た幸福だった。
彼は決して、私を道具としては扱わなかった。
私の体の反応の一つ一つに、彼は自らの存在を持って応えていく。
新田は額に汗を浮かべながら、一度も目を逸らさなかった。
私たちは、互いの鼓動を重ね合わせ、重厚な沈黙の中で、言葉以上のものを交換し合った。
彼が動くたび、私の視界は白く弾け、自分の名前さえも忘れてしまいそうになる。
けれど、新田が私の指を絡め、強く握りしめるたびに、「私は今、この男の人生の一部になっている」という強烈な実感が、私をこの世界に繋ぎ止めた。
絶頂へと向かう旋律の中で、新田は私の耳元で、聞いたこともないほど掠れた声で、私の名前を呼んだ。
それは、彼が築き上げてきた「完璧な日常」が、一瞬だけ音を立てて崩れた証拠だった。
私は、その一瞬の綻びを逃さず、すべてを受け入れた。
やがて、静寂が戻ってきた。
スタジオの天井は高く、暗い。
窓の外からは、夜明け前の代々木八幡の街の、青白い光が差し込み始めている。
新田は私の乱れた髪を指で整え、私の額に長く、深いキスをした。
「……文」
新田は掠れた声で言った。
「君を愛している。
これは、僕の人生において、最も正しくない、けれど、最も替えのきかない真実だ」
私は新田の告白を黙って聞いていた。
黙ったたま、彼の胸に顔を埋めた。
新田という男は、私の人生をオーバーライトしたのではない。
私の心の奥底に眠っていた、誰にも見せていなかった「本当の自分」を、彼がその手で引きずり出し、光を当ててくれたのだ。
スタジオを去る際、新田は私の手を取って短く言った。
「君のその首筋に残した、僕の言葉を忘れないで」
代々木上原の自宅の前にアウディを停め、新田は運転席から身を乗り出して私の唇に唇を重ねた。
私は車を降りて、マンションのエントランスを抜けた。
自室の鍵を閉め、リビングの鏡の前に立った。
昨夜までの、隙のない完璧な私の顔は、そこにはなかった。
髪は乱れ、瞳には熱が宿り、どこか無防備で、そして圧倒的に美しい「女」の顔がそこにあった。
スマホを取り出し、響子さんにメッセージを送る。
画面を打つ指先が、わずかに震えている。
「響子さん。
新田さんを好きになってしまいました。
彼に家庭があることも、この恋がどれほど茨の道であるかも分かっています。
でも、私はこの残酷で、美しい愛に生きることを決めました。
響子さんが手に入れたあの熱量を、私も今、この手で掴んでいます。
たとえ、すべてを失うことになってもかまわない。
後悔したりしない」
送信ボタンを押し、私はベッドに倒れ込んだ。
私は、自分の名前に、新田という男のしるしが深く、永遠に上書きされたことを感じながら、深い、幸福な眠りに落ちていった。




