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東京エキストラseason3  作者: 小林野ばら


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4/11

オーバーライト

Kyoko’s Side


寝室の遮光カーテンの隙間から、冬の硬い光が差し込んでいる。

隣で眠る英秋の呼吸は深く、重い。

明け方まで執筆していた彼の指先には、まだ煙草の匂いが染み付いている。

私はシーツの中で、その大きな手に自分の指を絡めた。

結婚して3年経っても、この男の体温だけは私を飽きさせない。

付き合ってからはもう7年の月日が経つ。


世間の指弾のすべてを潜り抜けて手に入れたこの肌の感触が、私の現実のすべてだ。

英秋が薄く目を開け、私を引き寄せた。


「……もう行くのか」

「10時からクライアントと打ち合わせがあるから」

「少し待て」


彼は掠れた声で言い、私のうなじに顔を埋めた。

無精髭が肌を刺激し、熱い吐息が首筋に広がる。

奪い取った者同士、互いの肉体を確認し合うことでしか、自分たちの輪郭を保てないことを知っている。

彼は私のTシャツを無造作に脱がせ、剥き出しになった肩に唇を落とした。


「君は、仕事に行こうとしている時が一番冷たい目をしている」

「冷たい目をしていないと、仕事にならない。女は武装するの。分かってるでしょ」


私は彼の髪に指を差し込み、その強い力に身を任せた。

英秋の舌が鎖骨の窪みをなぞり、さらに深くへと降りていく。

朝の静寂の中で、二人の重い呼吸だけが重なり合う。

私は彼の背中に爪を立て、その痛みを共有することで、今日一日を生き抜くための「毒」を体内に注入した。

英秋の愛撫は、慈しむようなものではない。

相手の領域を侵食し、自分のしるしを刻み込むような、傲慢で切実な行為だ。

朝の光が残酷に照らす中で、私たちは昨夜の続きを書き換えるように、激しく、そして艶やかに重なり合った。

鈍い痛みと快楽。

それは、私たちが犯してきた罪の感触そのものだった。


シャワーを浴び、完璧にアイロンをかけた白シャツに袖を通す。

キッチンでエスプレッソを飲みながらMacBookを開く。

ふと、昨夜、事務所からの帰り道、表参道の交差点で見かけた女性の姿が脳裏をよぎった。

20歳を少し過ぎたばかりだろうか。

彼女は、冬の街灯の下で、誰かを待つわけでもなくただ立っていた。

その立ち姿、伏せられた睫毛の角度、そして何より、通り過ぎる瞬間に感じたあの特有の重い空気。

それは、かつて私が英秋の家から彼を略奪した際、写真立ての中にいた少女の面影そのものだった。

名前は確か、栞。

あれから3年。

彼女が成長し、この街のどこかにいても不思議ではない。

けれど、あの時の彼女が私に向けるはずの憎悪を想像すると、背筋に冷たいものが走る。


表参道のデザイン事務所。

スタッフたちはすでに出揃っている。

私は自分のデスクにつき、新田から共有されたフォルダを開いた。

英秋の新作「オーバーライト」のプロモーション素材だ。


昼を過ぎて、私は再びデスクに戻った。


「響子さん、13時に予約されている方が下でお待ちです」


菜々子が声をかける。


「予約? 今日の午後は空けていたはずだけど。なんだっけ」

「いえ、一週間前から『響子さんのファン』という若い女性から熱心なリクエストがあって。お名前は『シオリ』様と伺ってます」


喉の奥が乾く。

私は冷静を装い、一階の受付へ向かった。

そこにいたのは、昨夜見かけた少女だった。

「……早川響子さん、今は九条響子さんですよね。お会いできて光栄です。あなたのデザインが好きで、サインが欲しくて」


彼女の声は、英秋にそっくりだった。

低くて、どこか人を拒絶するような。


「……ありがとう。でも、今日は約束は無かったはず。ファンだと言ってくれるのは嬉しいけど、ここはプライベートな空間じゃないので」

「すみません。どうしても、響子さんという実物を見てみたかったんです。……私から父を奪ったあなたが、どんな顔をしているのか」


「父」。


その単語が落ちた瞬間、受付の空気の密度が変わった。

彼女は、自分が誰であるかを隠すつもりなど最初からないのだ。

栞は、私の瞳をまっすぐに見つめ返した。


「……父が、あなたを選んだ理由が分かりました。あなたもまた、壊すことが生きがいなんですね」


彼女はそれだけ言うと、一冊の古びた単行本を私の手に握らせ、去っていった。

彼女の指先は、驚くほど冷たかった。

栞がいなくなった後も、私の手には彼女の体温と、英秋の血が混ざり合ったような、不気味な感触が残っていた。


15時。

新田からメールが届いた。


「サイトのメインビジュアルの彩度をもう少し下げてください」


私はMacに向かい、栞に渡された秀秋の昔の単行本の表紙をスキャンし、英秋の新作サイトの背景に薄く合成した。


「壊すのが生きがいなんですよね」


栞の言葉が、耳元でリフレインする。

私はデザイナーとして、常に美しさを構築してきたつもりだった。

けれど、その美しさはすべて、誰かの犠牲の上に成り立っている「虚飾」に過ぎないのではないか。

レイヤーを重ねるたび、画面の中の色彩が死んでいく。


夕方、文からLINEが入った。


「今夜、新田さんと二人で会うことになりました。

私、どうなっちゃうんでしょう。怖いのに、止められないんです」


私は画面を見つめ、無表情でタップする。


「期待に応えればいいよ。

それが、ブンちゃんが求めていた場所のはずだから。

中途半端に踏みとどまるのが一番惨めだと、

ブンちゃんはもう知っているはず」


文は、新田に壊されることを待ち望んでいる。

私は、栞という過去の化身に、自分の正体を突きつけられたことに、激しい焦燥を覚えた。

もし、この事務所の住所を彼女が知っているなら、マンションの場所だって。

その不安を振り払うように、私はマウスを動かし続け、1ピクセル単位の歪みを修正していった。


20時。

事務所の照明を落とし、私は一人で最後のリロードを行った。

英秋の新作サイトのデザインは、もはやウェブデザインの域を超え、一つの断罪の記録のようになっていた。

栞から渡された単行本をバッグに入れ、私は事務所を出た。


夜風が、コートの裾を冷たく震わせる。

タクシーを止め、マンションへ向かった。

車窓に映る自分の顔は、朝よりもずっと険しく、そして研ぎ澄まされていた。

この小さな 「事件」は、私を弱くしたりはしない。

むしろ、私がどれほど孤独で、どれほどこの罪に満ちた愛に執着しているかを思い出させてくれる。


マンションに戻ると、部屋はまだ静まり返っていた。

書斎からは、英秋が再びキーボードを叩く音が聞こえてくる。

私はリビングのソファに深く腰を下ろし、真っ暗な部屋で一人、栞の持っていた本をめくった。

そこには、若かりし頃の英秋が、かつての妻や娘に向けたであろう、瑞々しい愛情の羅列が綴られていた。

今の英秋からは想像もできない、無防備で優しい言葉の羅列だった。

それを読むたびに、私の心は嫉妬と罪悪感の狭間で切り裂かれた。

彼にこんな言葉を書かせていた時代があった。


それを奪い、代わりに「Narcissusの不在」を書かせていたのは、私だ。


この不快な熱をかき消すために、私は英秋の書斎のドアを乱暴に開けた。

英秋が顔を上げ、不機嫌そうに目を細める。


「……帰ってたのか」

「今日、娘ちゃんに会った」


英秋の動きが止まった。


「……君の事務所に?娘が?」

「そう。事務所に来たの。私のファンだって言って。

私のこと、壊すのが生きがいだって言ってた。

私たちが何を捨ててここにいるのか、彼女は全部知っているような目をしてた」


私は一気に捲し立てた。

英秋は椅子から立ち上がり、私の前に立った。


「……響子、怯えてる?

俺を奪った時の、あの傲慢さはどこへ行った」

「怯えてない。ただ、あなたの過去が、あんなに美しく成長しているのが、許せないだけ。私が見たことのないあなたの言葉を、彼女が持っているのが許せない」


英秋は笑った。

そして私の肩を強く掴んで引き寄せた。


「……君が奪ったんだ。

今さら被害者面をするな。

君は俺の闇を共有すると誓ったはずだ。

君の過去も、未来も、俺の言葉で君のすべてを塗り潰してやると言ったはずだ」


オーバーライト。


彼は私の髪を掴み、無理やり唇を重ねてきた。

その口づけは、今までで一番激しく、そして暴力的なほどに切実だった。

彼の口からは、煙草とコーヒー、そして執筆の疲労が混ざり合った匂いがした。

私は彼のシャツの胸元を掴み、なりふり構わず自分から彼を求めた。

英秋は私のシャツを引き裂くように脱がせ、書斎の机の上で激しく私を押し倒した。

英秋の指が私の内側を掻き乱し、私の思考を白濁させていく。

栞の静かな微笑みも、あの絶版の本に綴られた過去の愛も、この圧倒的な暴力的な愛撫の前では無意味だった。

英秋は、私が栞のことを思い出したであろう場所に、わざと痛みが残るほどの力で歯を立て、自分の刻印を上書きしていく。

彼の熱い吐息が耳元で弾け、私の名前を呼ぶ。

その声に救われるように、私は彼にしがみついた。

英秋の体が私を押し潰し、私は彼の中に溶けていく。


「響子を汚す奴は、過去だろうと未来だろうと、許さない。

君は一生、外の光なんて見る必要はない」


彼の低い声が、脊髄に響く。

私は彼の背中にさらに深く爪を立て、皮膚を裂く感覚に酔いしれた。

これだ。

これが私の欲しかった現実だ。

誰にも理解されない、誰にも祝福されない、けれど、この世で最も濃密な、二人だけの真実。

略奪したあの日、私たちは永遠に「正しさ」から絶縁された。

その痛みが、今この瞬間の快楽を補償している。

栞が見せた「純粋な憎悪」なんて、眩しすぎて、何も見えはしない。

彼に愛されるということは、彼に壊されることと同じだ。

それが、私が3年前に下した、唯一無二の決断だ。

そして私は、その破滅を誰よりも愛している。

私は絶頂の中で、自分の意識が遠のいていくのを感じた。

それは、死に似た解放感だった。

略奪の果てにあるのは、安らぎではない。

こうして互いの存在を激しく削り合い、魂を摩耗させ続けることでしか得られない、暗い愉悦だ。

机の上に散らばった原稿用紙が、私たちの体温で湿っていく。

そのすべてが、私たちの愛の証だった。


冬の嵐が窓を叩く。

私は九条英秋の共犯者として、自分の居場所を再確認した。

過去という亡霊が投げかける「正しさ」など、私を照らすにはあまりにも弱すぎる。

私は闇の中でこそ、最も鮮やかに生きることができる。

栞。

あなたがどんなに美しくなろうと、あなたの父の横に立つのは、この私だけだ。


そして文。

あなたは今夜、新田に何を暴かれるの?

私はこの暗闇の中から、あなたが堕ちてくるのを、待ち続けている。

その時が来たら、私たちは本当の意味で、同じ言葉を共有できる友人になれるはずだ。


鏡に映る自分たちの姿が、一瞬だけ、歪んで見えた。


私は英秋の腕の中で、ようやく本当の眠りについた。

明日もまた、私は世界を欺き続ける。

栞に渡されたあの本は、朝には燃やしてしまおう。

私たちの物語に、過去という余計なページはいらないのだから。


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