Enough is Enough
Aya’s Side(文)
西麻布。
鉄の扉を開け、地下への階段を降りる。
今夜の私は、セレクトショップの複数店舗を統括するディレクターとしての鎧を纏っている。
ヴィンテージのセリーヌのジャケットに、ラフなデニムとヒール。
隙のない自分を演出することで、ようやく指先の震えを抑えていた。
店内に入ると、レセプションの担当に、すぐに案内された。
テーブル席で、響子さんがシャンパングラスを片手に軽く手を挙げる。
その隣には、英秋さん。
そして、その向かいに——昨夜、スパで私の深淵を素手で掴み取った男が座っていた。
「……すみません、接客が長引いてしまって、遅れました」
「いいよ。売れっ子は大変だね。仕事があるのは、不自由で、かつ幸せなことだ」
英秋さんが低く、余裕のある声で笑い、私の席を促す。
私は新田の正面に腰を下ろした。
新田は、昨夜のバスローブ姿とは一変して、仕立ての良いチャコールグレーのスーツを完璧に着こなしていた。
けれど、彼が私を捉えた瞬間、脳裏にあのシダーウッドの香りが蘇ってきた。
「新田さん。彼女が昨日、あなたがスパで見つけた『面白い女』の降旗文さん。私はブンちゃんって呼んでる。あや、が文学のぶんだから」
響子さんが、楽しそうに新田に話を振る。
「新田蓮といいます。英秋さんの本を担当している編集部の編集長をしています。
驚きました、あんな時間に、英秋さんの本を読み耽っている人がいるなんて」
新田は無機質なほど丁寧に頭を下げた。
昨夜のあの、肌を焼くような親密さは微塵も感じさせない。
「新田さんって、仕事でもそうやってあんなふうに初対面の相手を観察するんですか?」
私が少し棘を混ぜて返すと、新田はワインを一口含み、わずかに目を細めた。
「いや。誤植を見つけるのは職業病だけど、あなたの場合は本より本人の綻びのようなものの方が雄弁だったかな」
「褒め言葉に聞こえませんけど」
「新田さんはこれでも最大級の賛辞を贈ってる。彼、興味のない相手には、誤植の指摘すらしないから」
響子さんが、楽しそうにジビエのテリーヌを切り分ける。
会話は、最近の表参道の凋落ぶりや、新しくできた商業施設の趣味の悪さなど、洗練された皮肉へと流れた。
金持ちの会話、と私は心の中で毒づいた。
「あの新しいビルの安っぽいLEDの演出は辟易する。東京もいよいよセンスの限界かもね」
英秋さんが鼻で笑う。
「同意します。あんな場所で服を売るくらいなら、私はパリの地下に潜ります」
私は英秋さんに媚を売った。
「はは、勇敢だね。ブンちゃんのそういう極端なところ、嫌いじゃない。響子も若い頃は、それくらい潔癖だった」
「失礼ね。私を勝手に過去形で語らないで」
響子さんは笑っているけれど、その瞳には、静かな自信が宿っている。
響子さんは、英秋さんの新作の装丁を詰めている話をする。
二人の会話は、夫婦というよりは、一つの作品を作り上げるための冷徹な共犯関係のように聞こえた。
3年前、彼らがすべてを壊してまで手に入れた日常がここにある。
それは、誰かの犠牲の上に成り立つ、恐ろしく純度の高い、閉じた世界だった。
「でも、文さんの店は少し正義が強すぎる気がするな」
新田が、カトラリーを置き、私を真っ直ぐに見据えた。
「正義?」
「すみません。勝手にネットで検索させてもらいました。
あの表参道の店は、もう少し、汚れたもの——誰かの使い古した愛や、捨てきれなかった執着を置いてみたらどうかなと思いました。
今のあなたなら、その生臭さの価値がわかるかもしれないね」
心臓の奥が鳴る。
周りにも聞こえているのではないかと思うほど。
新田の言葉は、私の仕事への矜持を否定しているようでいて、その実、私が一番隠したかった空虚さを正確に射抜いていた。
私は、誰かの記憶や、誰かが愛した歴史を「商品」として右から左へ流すことで、自分の人生の欠落を埋めているに過ぎないのではないかと。
「生臭い現実は、仕事じゃなくてプライベートで十分です」
「今の君に、そんなものを飼う暇があるの?」
英秋さんが面白そうに会話に割り込む。
「新田、彼女をあまり追い詰めるなよ。彼女には、かつての響子と同じ匂いがする。……まあもっとも、響子は途中でその看板を放り投げて、俺という絶望と心中する道を選んだわけだけど」
「秀秋、ブンちゃんの前で、あんまり格好つけないでよ」
響子さんが、英秋さんのグラスにワインを注ぎ足す。
その動作は驚くほど優雅で、二人の間にある「破壊的な信頼」を無言で証明していた。
私は、自分がこのテーブルで、最も未熟で、最も臆病な脇役であるような気がして、居た堪れなくなった。
2時間ほど食事を楽しみ、私は店を出て、新田さんが止めたタクシーに乗り込んだ。
英秋さんと響子さんは、まだ店に残って話を続けるという。
車内に沈む、シダーウッドの香りと赤ワインの残り香。
「昨夜、スパで声をかけたのは、ただの気まぐれじゃありません」
新田が静かに口を開いた。
「実は、以前にもお会いしています。3年前。日本橋の丸善で行われた、英秋さんのサイン会。あなたは響子さんの付き添いで来ていました」
記憶の奥から、サイン会での光景が蘇る。
3年前。
響子さんの友人として、私は彼女に同行した。
そこで初めて、私は英秋さんという怪物に出会った。
「あの時、文さんは響子さんの隣に立っていた。その後、英秋さんを交えて3人で立ち話していたのを、関係者席の方から見ていました」
そうだ。
あの時、私は無理をして買ったヴィンテージを纏っていた。
初めて会う秀秋さんに甘く見られないようにと。
「私は関係者席で、進行を管理していました。その時編集長だった本間と、響子さんに挨拶をして」
「……どうして、そんな昔のことを覚えているんですか」
「印象的だったからです。あの日、あなたは刺された傷の痛みを知っているような目をしていました。僕にはあの混雑する会場であなたしか目に入らなかった。響子さんでさえ、うろ覚えだったくらいです。だから昨夜、大手町のスパであなたを見かけたとき、一瞬で分かりました。あの時の女性が、今は服を完璧に乗りこなすディレクターになっているとは。
……少し、酔いを醒ましていきませんか」
タクシーが代々木上原の駅前を抜け、住宅街の入り口にある小さなカフェの前で止まった。
店内には低くジャズが流れ、数人の客がそれぞれの孤独を味わっている。
新田はコーヒーを、私は紅茶を頼んだ。
照明は暗く、カップから立ち上る湯気さえもが、秘密を隠すための帳のように見えた。
「新田さん、あなたは私をどうしたいんですか」
私は核心を突いた、つもりだった。
「どうしたい、なんて、そんな暴力的なことは考えていません。ただ、あなたが今、3年前の響子さんと全く同じ目をしているのが気にかかる、それだけです。自由を手に入れたはずなのに、その自由の重さに、自分自身が押し潰されそうになっているのでは」
新田の言葉は、熱を帯びた刃のように私の防御を切り裂いていく。
自由。
一人で立ち、自分の名前で責任を取り続ける日々は、自由というよりは、永遠に終わらないランウェイを歩かされているような疲弊を伴っている。
そんなことも、見抜いているの。何故この人は。
「文さん。英秋さんと響子さんは、お互いを破壊することで、本当の意味での自由を手に入れた。あなたには、その覚悟がありますか?」
新田が私の目を覗き込む。
彼の瞳は、私を観察しているのではなく、私の内側にある「崩壊したい」という願望を誘い出しているようだった。
「成功という名の孤独に耐えるのは、もう限界でしょう。あなたは誰かに、その重い鎧を丁寧に、けれど徹底的に脱がせてほしいと願っている。僕がその役を引き受けてもいい」
「……そんなこと、頼んでいません」
「頼まなくても、君の肌がそう言っている。昨夜のスパでのあなたは、無意識に自分を傷つけるような熱を求めていたはずです。今の完璧な自分に飽き飽きして、誰かに、めちゃくちゃにされたいと願っている。違いますか」
私は辱めを受けたように顔が火照るのを感じた。
悔しいけれど、彼の言う通りだった。
私は、誰かに自分の境界線を踏み越えてほしかった。
完璧な自分なんて、もう捨ててしまいたかった。
新田は時計を確認し、静かに立ち上がった。
「今日はここまでにしておきましょう。深追いは無粋だ」
彼は名刺を一枚置き、「送りますよ」と短く言った。
マンションのエントランスに着いたとき、新田は軽く会釈をしただけで、再びタクシーへと乗り込んでいった。
彼は私の部屋に上がろうとはしない。
強引に触れようともしない。
それどころか、指一本さえ触れなかった。
その節度こそが、一番残酷だった。
もし彼が強引に迫ってきたなら、私は彼を「悪い男」に仕立て上げて、自分の聖域を守ることができた。
けれど、彼は私に問いだけを投げかけて去っていった。
次に彼に会うとき、私は自分からその鎧を脱ぐことになるだろう。
彼には、それがわかっているのだ。
ドアを閉め、電気を付け、リビングで一人立ち尽くした。
高円寺から代々木上原のマンションに越してきたのは一年ほど前だ。
私が、ディレクターとして成功しはじめた頃。
私は鏡の前に立ち、完璧なジャケットを脱ぎ捨てた。
鏡の中の私は、新田が言った通り、刺された傷の痛みを知っているような目をしていた。
私はバスルームへ向かい、服をすべて脱ぎ捨てて、鏡に映る裸の自分を見つめた。
ディレクターという肩書きも、セリーヌのジャケットもない。
そこにあるのは、38歳になり、肌の張りが失われつつある、一人の孤独な女だった。
新田は、この姿を見たいと言ったのではない。
この体の奥にある、まだ誰にも見せていないものを見たいと言ったのだ。
シャワーの熱いお湯を浴びながら、私は新田の名刺を思い出す。
指先がまだ震えていた。
恐怖ではない。
それは、ようやく見つけた「火」を前にした、歓喜に近い震えだった。
「このまま地獄に堕ちたっていい」
かつて響子さんはそう言った。
3年前、響子さんが英秋さんと心中したとき、私はそれを愚かだと思った。
けれど今ならわかる。
空っぽのまま一生を終えるくらいなら、すべてを焼き尽くして灰になる方が、ずっと美しい。
私は濡れた髪のままベッドに横たわり、天井を見つめた。
東京の夜は深く、どこかで誰かがまた、新しい火を灯しているのだろう。
私の物語が、ここから加速していく予感がした。
新田という男の手によって、私は、私ですら知らない私へと変貌していく。
それは、最高にお洒落で、最高に絶望的な、私だけの物語になるはずだ。
私は目を閉じ、次に彼に会うときに着る服ではなく、彼に脱がされる瞬間の自分を想像していた。




