Dress down in the Ash
Kyoko’s Side(響子)
広尾のマンションの、北向きの書斎はいつもひんやりとしている。
明け方、執筆を終えた英秋が寝室へ戻ってくる微かな気配で、私は眠りの縁から引き剥がされた。
ベッドの沈み込みで、彼が隣に腰を下ろしたのがわかる。
「起きた?」
低く、けれど明瞭な声。
英秋は、私が愛用しているバカラにミネラルウォーターを注ぎ、サイドボードに置いた。
私はオーバーサイズのTシャツ一枚のまま体を起こし、水を一口含んでから、彼を見上げる。
執筆明けの彼は、どこか「あちら側」の匂いを引きずっている。
一晩中、新作の言葉たちと格闘した後の、神経質なまでの色気。
英秋が私の髪をかき上げ、首筋からうなじへと指先を滑らせる。
「少し、寝かせてあげようと思ったんだけど」
そう呟きながら、彼は私の顎をそっと持ち上げた。
触れ合う唇は、書斎の乾いた空気と、微かな煙草の苦味。
3年経っても、この瞬間の体温の交換だけは、私を飽きさせない。
略奪婚という嵐を潜り抜け、互いの傷跡を確認し合うような、静かで深い、朝の儀式だった。
ダブル不倫の末に手に入れた、この日常。
世間は私を略奪者と呼び、彼を背信者と呼んだ。
けれど、私たちはその非難の礫を浴びることで、かえって純度の高い共犯関係を築き上げてしまったのだと思う。
3年。
あれから3年の月日が流れた。
「今日、英秋は?」
「10時から新田と打ち合わせ。新作の海外版について。
いい加減、彼を解放してやらないと、過労で倒れそうだ」
英秋が私の唇をもう一度、今度は深いくちづけをした。
彼の親指が鎖骨の窪みをなぞり、Tシャツの裾の隙間から肌へと侵入する。
その不器用なほど慎重な愛撫には、出会った頃のような爆発的な熱量はない。
代わりに、深く、逃げ場のない執着が漂っている。
「今夜、新田が店を予約している。脱稿の祝い。君もぜひにと。良い店だよ」
「新田さんも、編集長になってからも忙しそうだね」
「相変わらずだね。ただ、自分の手がけた作品が成功すればするほど、彼が虚無感にかられてるように見える」
英秋が自嘲気味に笑い、私の唇を親指でそっとなぞった。
58歳になった彼は、成熟した大人の男の余裕を纏いながらも、その瞳の奥には相変わらず書くことへの、そして私という共犯者への、底知れない渇望を飼っているようだ。
私はベッドから起き上がり、鏡の前でTシャツを脱ぎ捨てた。
鏡越しに、英秋の視線を背中に感じる。
彼は私の肉体の変化も、衰えも、すべてを真実として愛している。
というより、彼は私の個としての輝きを、自分のインクにするために、必死で繋ぎ止めているのかもしれない。
「今夜、19時ね、楽しみにしてる」
私は彼の方を向き、シャツのボタンを留めようとする彼の手を止めた。
代わりに私が、一番上のボタンを留める。
指先が彼の喉元に触れ、英秋が小さく息を吸い込むのがわかった。
私は彼の首筋に顔を寄せ、微かに残る煙草の匂いを嗅いだ。
不倫、略奪、再婚。
言葉にするのは簡単だった。
けれど、その後に続く日常を、どれだけの解像度で生きられるか。
それが、英秋が私に課した、終わりのない宿題のような気がしていた。
一度すべてを壊して更地にし、そこに新しい家を建てる。
その手続きに、私たちはどれだけの血を流しただろう。
前夫との離婚協議、慰謝料、周囲の凍りつくような視線。
何より、自分の内側にあった「善良な市民」という仮面を、自らの手で剥ぎ取った時のあの痛み。
「後悔してる?」と、一度だけ英秋に聞いたことがある。
彼はただ、「後悔する暇があるなら、一行でもマシな文章を書く」とだけ答えた。
私たちは、お互いを愛しているというより、お互いの人生を破壊した責任を、生涯かけて取り合っているだけなのかもしれない。
私はシャネルを選んで口紅を引いた。
家を出る直前、英秋が背後から私の腰を抱き寄せ、耳元に唇を寄せた。
「新田に、あまり優しくするなよ」
「嫉妬?」
私は笑った。
「いや、あいつは、一度火がつくと自分でも制御できない男だからね。昨夜、大手町のスパで面白い女に会ったと言ってた。職業はバイヤー」
新田、バイヤー。
大手町のスパ。
その単語の組み合わせに、私の脳裏に文の顔が浮かんだ。
「まさかね?」
「わからないけど、俺もブンちゃんが思い浮かんだ」
3年という月日は、私もブンちゃんの環境を大きく変えた。
彼女は38歳になり、表参道のセレクトショップのバイヤーから、今は複数店舗を統括するディレクターへと昇格した。
プライベートでは、聡太くんと別れてから、特定の恋人はいないようだ。
私は冬の冷たい光が差し込む街へと踏み出した。
タクシーの窓から流れる東京の景色は、3年前と何ら変わっていない。
けれど、今の私には、街を歩く人々が皆、何かを隠しながら正しい顔をして演技をしているエキストラのように見える。
かつての私も、その一人だった。
英秋という劇薬を飲み込み、エキストラから「主役」へと無理やり舞台に引きずり出されたとき、私は初めて、自分がどれほど空っぽだったかを知った。
「略奪婚」という言葉の響きには、どこか勝ち誇ったようなニュアンスがあるけれど、その実態は、焼け野原に立ち尽くすようなどうしようもないほどの孤独だった。
隣に英秋がいる。
それだけで、他には何もいらないと豪語したあの日の情熱は、今は、上質な絹のようになめらかな「生活」へと形を変えている。
タクシーが表参道の交差点で止まる。
ドアが開いた瞬間、冷たい風が車内に流れ込み、香水の香りをさらっていった。
私の事務所はこのすぐ近くだけれど、その前に寄るべき場所があった。
文がディレクションを務めるセレクトショップだ。
ガラス張りの外観は、冬の陽光を跳ね返して冷ややかに光っている。
ここはただの服屋ではない。
文という一人のバイヤーが、世界中から「過去の遺産」をかき集め、今の東京にふさわしい価値を再定義する、一つの聖域だ。
私はこの店の顧客であり、何より、文という一人の女の生き方を面白がっている歳の離れた友人でもある。
「いらっしゃいませ。響子さん」
奥から現れた文は、完璧な仕立てのジャケットを纏っていた。
3年前、まだどこか「救済者」としての甘さと幼さを残していた彼女の面影は、もうどこにもない。
今の彼女の瞳にあるのは、価値あるものを見極め、それ以外を冷徹に切り捨てるプロの光だ。
「パリはどうだった? ブンちゃん。
面白いアーカイブは見つかった?」
「最高でしたよ。でも、戻ってきたら東京の空気が、乾燥しちゃって。喉イガイガ。除湿機かけまくり」
文は微笑みながら、一着のコートを私の前に差し出した。
1970年代のイヴ・サンローラン。
「これ、響子さんに絶対に似合うと思って、一番にキープしたんです」
私はその布地に指を触れた。
「ブンちゃん、昨日パリから帰って、スパに行った?大手町の、会員制のスパに入会したって言ってなかったっけ」
私は挨拶もそこそこに、彼女の瞳を覗き込んだ。
文の動きが、一瞬だけ止まる。
「……え?どうして知ってるんですか?昨日の夜スパに行ったこと」
「やっぱり」
「新田という人に会った?」
「あの男性、新田さんというんですか」
その時の文の頬の高揚を、私は見逃さなかった。
「秀秋の出版社の編集長。秀秋に早速連絡が入ったらしいよ。面白い女に会ったって」
私はあえて踏み込んだ。
新田、バイヤー、大手町のスパ。
英秋が朝、寝室で零した単語が、パズルのピースのようにカチリとはまった。
「響子さんには、敵わないないな。
出会ってしまったんです。私が、灰になるのを待っている部分を、一瞬で見抜いた男に」
自嘲気味に笑ったが、その瞳の奥には、かつての私が鏡の中で見ていたのと同じ、美しい地獄の予兆が揺れていた。
新田。
あの男は、英秋とはまた違う、静かな破壊衝動を持っている。
彼が文という鋭利な素材に触れたとき、どんな化学反応が起きるのか。
女としての私の好奇心が、疼くように反応した。
「今夜、19時から西麻布で英秋と新田さんと食事をする予定があるんだけど、ブンちゃんも、来ない?」
文の瞳が揺れた。
抗い難い誘惑への歓喜。
「いいんですか?」
「もちろん。新田さんも、面白いバイヤーに会ったって言っていたし。答え合わせをしましょう」
私はサンローランのコートを預かり、店を後にした。
自分の事務所へ向かう道すがら、冬の朝日がきりっとした寒さと青を連れてくるのを感じていた。
表参道のビルの一室にある私のデザイン事務所。
スタッフたちがMacに向かい、無機質なクリック音だけが響く空間。
デスクの上には、英秋のかつての書籍『Narcissusの不在』が置いてある。
タイポグラフィ、紙の質感、余白の広さ。
私は英秋の言葉を視覚化し、世界へと送り出す共犯者としての役割を全うしている。
この仕事があるからこそ、私たちは略奪婚という名の焼け野原で、互いを見失わずに立っていられるのだと思う。
Narcissusでは、愛という名の「不在」をテーマにしていた。
3年前にすべてを捨てた私たちの決断が、今、またこの一冊から物語が始まろうとしている。
ふと文の顔を思い浮かべた。
彼女がもし、新田という火を浴びることを選ぶなら、彼女の鎧は跡形もなく焼け落ちるだろう。
「お疲れ様です、響子さん」
スタッフの菜々子の声で、現実に引き戻される。
気づけば、窓の外は完全に夜の底に沈んでいた。
18時25分。
私はデスクを片付け、事務所の照明を落とした。
これから向かう西麻布のテーブルは、きっと3年前の私たちと、今の文と新田が、鏡合わせのように向かい合う場所になる。
私は口紅を引き直し、髪を整え、冬の冷たい夜気の中へと足を踏み出した。
略奪の先にあるのは、平穏ではない。
それは、火傷の跡を愛し続けなければならない、終わりのない覚悟だ。
それを、今夜、彼女はどう受け止めるのだろうか。
タクシーを止め、私は行き先を告げた。




