残照
Aya’s Side(文)
東京は、ひどく乾燥していた。
吸い込む空気が喉の奥でトゲのように刺さり、指先からは常に微かな熱が逃げていく。
買い付けから戻ったばかりの身体は、時差の重みで、泥の中に沈んでいるようだった。
パリの湿った石畳の匂いや、ヴィンテージのドレスから立ち上る埃っぽい絹の香りが、まだ鼻腔の奥にこびりついている。
大手町、地上30数階。
会員制スパのラウンジは、下界の騒音を完璧に遮断した真空の繭だ。
私は厚手のバスローブに包まれ、一人、深いデッキチェアに身を預けていた。
視界の先には、ジオラマのように無機質に瞬く東京の夜景。
3年前、誰かの隣で眺めていた夜景は、もっと切実で、もっと脆いものだった気がするけれど、今の私には、この冷たい光の群れの方が、よほど誠実な隣人に見えた。
手元には、一冊の文庫本。
九条英秋、『Narcissusの不在』。
3年前、まだ私が「誰かを救うこと」で自分の存在意義を保とうとしていた頃に出会った物語だ。
当時は、この突き放すような言葉たちが怖かった。
けれど、バイヤー、今はディレクターとして世界を歩き、他人の人生の残骸に値段をつけ、自分の審美眼という名の孤独を磨き続けてきた今の私にとって、英秋さんの言葉は、唯一、正しく自分を切り裂いてくれる刃だった。
——「愛される資格を問う者は、すでに愛の門を通り過ぎている。」
その一節をなぞったとき、不意に、隣から微かな衣擦れの音がした。
静寂の中に、上質なシダーウッドと、かすかな煙草の残り香が混じる。
反射的に視線を向けると、そこには、私と同じ白いバスローブを纏った男が座っていた。
男は、夜景に視線を投げたまま、彫刻のように動かない。
整えられた横顔には、30代の青臭い野心とは違う、一度すべてを捨てた者だけが持つような、静かな諦念の色気があった。
42、3歳といったところだろうか。
その指先が、グラスの縁をゆっくりとなぞる。
左手の薬指には、何もなかった。
けれど、そこだけがわずかに白く、かつて何かを嵌めていた不在の証を刻んでいる。
「……その本、32ページに、小さな誤植があるんです」
不意に投げかけられた声に、心臓の奥が小さく跳ねた。
低く、よく通る声。
けれど、決して押し付けがましくない、絶妙な距離感だった。
私は、開いていたページを閉じ、ゆっくりと男の方を向いた。
「32ページ?」
「ええ。句読点の位置が、一つだけ、原稿と違うんです。英秋さん本人は気づいていないけれど、僕は、それを見るたびに、あの人の完璧主義が少しだけ綻んでいる気がして、嫌いじゃないんです」
男は、初めてこちらを向いた。
その瞳は、私の武装を、一瞬で見透かすような鋭さを持っていた。
けれど、その奥に潜んでいるのは、敵意ではなく、深い同族嫌悪に近い親愛。
私は、自分がメイクを落とし、髪を湿らせた、ただの「一人の女」として晒されていることに、猛烈な羞恥と、それ以上の解放感を覚えた。
「……編集の方、ですか?」
「以前はね。今は、もっとつまらない、肩書だけの仕事をしています」
男は自嘲気味に笑い、私の手元にある文庫本を指差した。
「その本を、そんなに大切そうに持っている人に、久しぶりに出会いました。……あなたにとって、その物語は、なんですか?」
直球すぎる問いだった。
初対面の男に答えるには、あまりに重い、魂の核心。
けれど、このスパの静寂と、バスローブ越しに伝わる夜の冷気が、私の口を滑らせた。
「……鏡、かな」
「鏡?」
「はい。自分がどれだけ空っぽかを確認するための。……バイヤーという仕事をしていると、他人の価値観ばかりを扱って、自分自身がどんどん透き通っていく気がするんです。でも、この本を読むと、自分の内側にある真っ黒な空洞だけは、確かに自分のものだって、再確認できるから」
沈黙が流れた。
窓の外、東京タワーがゆっくりと消灯し、街の明かりが少しだけ深く沈む。
男は、私の言葉を咀嚼するように、じっと夜景を見つめ直した。
「あなたは、本当は自分が灰になるのを待っているんじゃないかな」
その一言が、私の肺に冷たい水を流し込んだ。
「バイヤーとして、他人の人生の残骸を整理することに、もう飽きているのでは?違いますか?」
どうして、この人は私の絶望を知っているのだろう。
3年前、私が必死に守ろうとして、結局は砂のように指の間からこぼれ落ちていった、あの「正しき日常」。
その後の3年間、仕事という名の鎧を着込み、ハイブランドのヴィンテージという、誰かの成功の証を身に纏い、自分を「一流」だと思い込ませてきた、私の滑稽な努力を。
そのすべてが、この男のたった一言で、無意味なガラクタに変貌していくような気がした。
「……あなたは、誰なんですか?」
私は、掠れた声で問うた。
男は、ゆっくりと立ち上がり、私のデッキチェアのそばに立った。
上から見下ろされる圧迫感。
けれど、それは不思議と不快ではなかった。
「名前はただの記号です。でも、もしあなたがその本の中にある地獄を本気で信じているのなら、僕たちは、もっと別の場所で出会うべきだったのかもしれない」
男の手が、ふと私のバスローブの袖に触れた。
指先から伝わる、熱。
それは、パリのホテルで感じた孤独よりもずっと熱く、かつて誰かと分け合った温もりよりもずっと残酷な、略奪者の熱だった。
「……3年前、あなたは、もっと迷いのある目をしていた気がします」
男が、独り言のように呟いた。
私はその言葉の意味を測りかねて、彼の顔を見上げた。
3年前?
どこかで会ったことがあるのだろうか。
仕事先?
誰かのパーティー?
けれど、私の記憶の中には、この男に該当する断片が見つからない。
新田、という名も。
彼が、英秋さんの横で冷徹に時計を見ていた編集者だったという事実も。
今の私には、まだ、繋がってはいなかった。
ただ、目の前にいるこの男の、圧倒的な「強さ」と「欠損」が、私の防波堤をじりじりと浸食していく。
「……私を、知っているんですか?」
「いいえ。僕が知っているのは、あなたが抱えている、その美しい絶望だけです」
男は、私の指先に触れていた手を離し、一歩、後ろに下がった。
「もうすぐ、ラウンジが閉まります。次は、服を着ている時に会いましょう。あなたがその見事な鎧を纏っている時に」
彼は、それだけを言い残すと、足音も立てずに去っていった。
残されたのは、シダーウッドの香りと、私の膝の上に置かれた『Narcissusの不在』。
そして、彼が触れた袖の、消えない熱。
私は、再び夜景に目を向けた。
あんなにも冷たく、誠実に見えた東京の光が、今は、巨大な火種のように揺れて見えた。
私は、自分が今、決定的な境界線を越えてしまったことを確信していた。
名前も知らない、けれど、私の深淵を言い当てた男。
聡太くん。
3年前、私が最後にあなたの名前を呼んだとき、私は「自由」になれた気がした。
でも、違った。
私はただ、もっと大きな火に焼かれるために、裸になっただけだったんだ。
バスローブをぎゅっと握りしめる。
時差ボケの重みは消えていた。
代わりに、全身を駆け巡っているのは、暴力的なまでの予感。
これから始まる、何もかもを焼き尽くすための、狂おしい始まりの予感だった。
青い夜が、ゆっくりと明けていく。
けれど、私の内側では、かつてないほど暗く、熱い夜が幕を開けようとしていた。




