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東京エキストラseason3  作者: 小林野ばら


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10/11

ストロベリーナイト

Aya’s Side(文)

喉の奥が焼けるように熱い。

新田さんの名前を呼び続けて枯れ果てた喉は、もうまともな音を出すことを拒んでいた。

店の床に転がったまま、震える指でスマホの履歴を遡る。

新田さんの番号ではない。

今さらあそこに繋げたところで、聞こえてくるのは彼の正しい生活のノイズだけだ。

今の私には、正しさなんて一ミリも必要なかった。

もっと不器用で、温かくて、私をただの「文」として扱ってくれる場所が必要だった。


「……助けて」


通話ボタンを押した。

数回のコールのあと、少し低くて、聞き覚えのある落ち着いた声が届く。


「……文さん? どうしたの、こんな時間に」


聡太くん。

その響きに触れた瞬間、止まっていたはずの涙がまた、じわりと溢れ出した。


「助けて。今すぐ、来て。

お願い、助けて」


声になっていたかは分からない。

けれど、聡太くんはそれだけで事態の異常さを察したようだった。


「わかった。すぐ行くから。お店にいるんだよね、そこで待ってて」


それだけ言って、電話は切れた。


40分ほど経ったところだろうか。

店の裏口を叩く音がした。

鍵を開けると、そこには息を切らした聡太くんが立っていた。

ラフなパーカーにデニム。

私たちが付き合っていたときの、あの頃のままの彼。


「文さん、大丈夫?」


私の顔を見た瞬間、聡太くんの瞳が揺れた。

けれど、彼は私を抱きしめたりはしなかった。

ただ、一歩引いたところで、心配そうに私を見つめている。

新田さんのような高価な香水の匂いはしない。

柔軟剤の匂いと、少し汗の匂い。


「……帰ろう、文さん。ここでは冷えちゃうから」


聡太くんは私に触れることなく、ただ静かな声で促した。

私たちは、タクシーて代々木上原の私のマンションに向かった。

かつて新田さんと過ごした時間が染み付いたこの部屋に、聡太くんを招き入れるのは、自分を傷つけるような行為だった。

いつもなら完璧に整えられているリビングの空気も、今は広すぎて、冷たすぎる。

私はソファの隅に深く沈み込んだ。

聡太くんは戸惑いながらキッチンへ向かい、熱い紅茶を淹れてくれた。

彼は私の向かい側の椅子を引いて、適度な距離を保って座った。

その「触れない」という配慮は、彼なりの誠実さなのだろう。


「……無理をしすぎたんだね、文さんは」


私が半年間のすべてを吐き出したあと、彼は静かにそう言った。

聡太くんは、新田さんという人の存在を今初めて知ったはずなのに、驚くことも責めることもせず、ただ受け止めている。


「その新田さんっていう人は、きっと文さんのことを本気で愛していたんだと思うよ。

でも、それと同じくらい、自分が作り上げた世界を壊すのが怖かったんだろうね。文さんを愛している自分と、完璧な家庭を守る自分。どっちも捨てられなくて、最後にどうしても選ばなきゃいけなくなった時、新田さんは逃げる道を選んだんだ」

「わかってる……わかってるの。でも、私は本気だった」


私の口からは、自分でも止められない言葉が溢れ出した。


「ほんとうに、本気で好きだったの」

「分かってる」

「新田さんといる時の私は、彼が作る完璧なレイアウトの中で、私は唯一の、そして最高のアクセントだった。それが、どれほど甘美だったか、聡太くんにわかる? 彼の完璧な人生を掻き乱しているという実感そのものが、私を輝かせていたの。でも彼は、結局自分を救った。私を切り離して。元の綺麗な場所に戻った」

「新田さんは、文さんが思っているほど完璧な人じゃなかったのかもしれない。ただ臆病だっただけなんじゃないかな。文さんが惹かれたのは、その臆病さを隠すための綺麗なメッキだったのかも。……そんなもののために、文さんは自分を削ってしまったんだね」

「……聡太くんに何がわかるの」

「わからないよ。僕は文さんみたいに今のトレンドは分からない。でも、文さんが今、今にも消えてしまいそうな顔をしているのはわかるよ」


聡太くんは椅子から動かなかった。

彼がここで私を抱きしめて、甘い言葉を囁けば、私はもっと楽に彼を突き放せただろう。

けれど、彼はそれをしない。

私の弱さに付け入るような真似は、彼が自分自身に許さないのだ。

なんでそんなに聡太くんは聡太くんのままなの。


「聡太くん。今日は帰らないで」


私はソファの上で丸くなり、彼を見上げた。


「アイスを買ってきて。あそこのコンビニにある、一番高いやつ。それから、私が眠るまで、ここにいて。……絶対に、絶対に、動かないでね。私が起きたときに、あなたがいなかったら、私は……」

「……文さんは、本当に勝手な人だね」


聡太くんは困ったように微笑んだけど、その声には隠しようのない優しさが混じっていた。


「ハーゲンダッツ?バニラでいい?」

「……ストロベリーがいい」


私は、自分の唇からこぼれる毒を自覚しながら言った。

「ストロベリーがいい。新田さんが嫌いだったから。あの人は、イチゴの香料は安っぽいと言って、絶対に口にしなかった。……だから、今すぐ私の体の中に、あの人の嫌いなもので満たしたい」


私の復讐は、なんて幼稚で、なんて哀れな形をしているんだろう。

でも、私にはそれが必要だった。

私は自分で思っているより、ずっと子供だった。

聡太くんは自分のことを、新田さんへの当てつけの道具として使っていることを、理解している。

それでも、彼は私を笑わなかった。


「……わかった。すぐ戻るから」


玄関のドアが閉まる音。

一人になった部屋は、急激に酸素が薄くなったような感覚に陥る。

私は新田さんと選んだカシミヤのクッションに顔を埋め、彼の残香を探した。

けれど、そこにあるのは無機質な洗剤の匂いだけだった。

新田さん。あなたは今、温かい家庭の静寂の中にいるの?

奥様の淹れたお茶を飲みながら、この半年のことを「一時の気の迷い」として処理しているの?

私が流しているこの血のような涙を、あなたは一滴も知らないまま、また完璧な編集長として明日を迎えるの?

けれど、同じだけの熱量で、私はまだ新田さんの、あの冷たい指先に触れたくてたまらなかった。


20分ほどして、

聡太くんが戻ってきた。

彼はレジ袋からストロベリーのアイスを取り出し、蓋を開けてスプーンを添えて私に渡した。

自分用には、温かいラテ。

彼はまた、元の椅子に座った。

私はアイスを口に運んだ。

人工的な甘さと、強烈なイチゴの香り。

新田さんが嫌った、安っぽくて、強い味。

それが私の食道を通るたびに、私の中の新田さんが汚されていくようで、奇妙な快感を覚えた。


「……ほんとに好きだったの」


私はアイスを食べながら、彼に言った。


「聞いたよ」

「ほんとにほんとなの」

「分かってるよ」

「分かってないよ」

「分かってるよ」

「聡太くんのことなんか忘れてたの」

「そうだろうね」

「……あ、表参道までタクシーいくらだったの?」

「そんなのいいよ」

「だって聡太くんお金あるの?」

「それくらい格好つけさせてよ」

「だって、もう私たち付き合ってないのに。こんな目に遭わされて、聡太くん可哀想」

「それを文さんが言うか」


聡太くんは優しい目で笑った。


「私たちがまだ、井の頭公園でキッチンカーのアイス食べて笑っていた頃のこと思い出した。……新田さんのことも、仕事のことも、何も知らなかった頃の、何の意味もない話をしてたね」


聡太くんは少し困ったように天井を仰いだけど、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「……あの頃の文さんは、今よりずっと素直だった気がするな。

僕が誕生日にプレゼントしたスニーカー、色が落ちて、かかとがすり減るまで履いてくれたね。あれ、実はセール品だった」


聡太くんは笑った。


「……知ってたよ。

でも、嬉しくてそれしか履いてなかったから、すぐボロボロなって」

「はは、やっぱりバレてた。

でも文さん、あれを履いて、俺といつも散歩してた。

海だって遠かったのに、電車で行ったね。

車が買えなかったから。

あの時、文さんは完璧ではなかったかもしれないけど、一番笑ってたよ」


そんな、どうでもいい会話。

新田さんの世界では、一秒だって許されなかった無駄な時間。

それが、ちぎれそうだった私の魂を、少しずつ繋ぎ合わせていく。


「私、最低よね」

「今気づいた?」


聡太くんはまだ優しい目をしている。

アイスのカップが空になった頃、私はソファに横になり、遠くに座る彼を眺めた。


「新田さんのこと、死ぬほど憎いのに、まだ思い出してる。こうして聡太くんを呼びつけて、自分の傷を埋めさせてる。……ほんと最悪」


聡太くんは、私に触れる代わりに、ただ静かな、深い眼差しを私に向けた。

その視線は、新田さんの鑑賞するような目とは違った。

ただ、一人の欠落だらけの人間を見つめる、熱くて重い温度があった。


「本当にね。でも俺は男だから。大丈夫。いつか、文さんに俺を救ってもらった」

「そんなこと」

「そんなことがなくても、文さんを1人にしておけないよ」


彼は、自分に言い聞かせるように言った。


「文さん。たとえ今、文さんの頭の中が別の男のことでいっぱいだとしても、俺は文さんがまた立ち上がるのを見守ってるから。文さんがあのとき俺にしてくれたように」


その言葉に、また涙が込み上げた。

新田さんは私を最高級のデッドストックとして保存しようとした。

私を静止した美の中に閉じ込めようとした。

でも聡太くんは、泥まみれでボロボロになった私を、そのまま生身の人間としてそこにいさせてくれる。

再生なんてしなくてもいい、ただ生きていろと、その距離感で語っている。

私はまた声を上げてわんわん泣いた。

子供みたいに。


「泣き虫だね、文さんは」

「聡太くんのくせに、なんか男らしい〜」


と言って私はまた泣いた。

聡太くんは笑った。

もう自分が何で泣いているのか分からなくなった頃、ソファの中で毛布にくるまり、微睡んだ。

聡太くんは一歩も近づかず、ただリビングの灯りを一番暗く落とした。

彼の気配、椅子が軋む音、時折聞こえるラテを啜る音。

新田さん。

私は、あなたが望んだような美しい残影にはなってあげない。

私は、泥にまみれて、みっともなく泣いて、別の誰かに縋り付いて、そうやってしか生きられない。

それを、たとえ恋ではなくても、肯定してくれる人が、私にはまだ居る。


私は、遠くで見守る聡太くんの影を感じながら、数ヶ月ぶりに、深い、眠りの中へと落ちていった。


「目が覚めるまで、そこにいてね」


眠りに落ちる瞬間に、わたしは告げた。


「いるよ。ずっとここにいるから。

安心しておやすみ。

文。」

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