Dear Woman!
Aya’s Side
喉の奥に残っていた新田さんの香水の苦みは、一晩眠って目が覚めると、驚くほど綺麗に消えていた。
代わりに鼻をくすぐったのは、昨夜、聡太くんが淹れてくれたアールグレイとストロベリーの微かな残り香だった。
「起きた?」
ソファの端に、昨夜と同じ姿勢で座ったままの聡太くんがいた。
彼は私が動くのを見ると、膝の上で広げていた古い雑誌を閉じ、小さく伸びをした。
その動作の一つひとつが、新田さんの計算された優雅さとは対極にある、ひどく無防備で、不格好なものだった。
新田さんの隣では、私は一瞬たりとも、こうした生活の弛緩を自分に許すことができなかった。
常に美しく、常に聡明で、彼の描く理想の女でいなければならなかったのだ。
「ごめん。ずっとそこにいてくれたんだね」
「約束したからね」
聡太くんが微笑む。
「文さんが起きるまで、絶対に動かないって。
……それに、文さん、なんだか今にも消えちゃいそうだったから。俺が目を離した隙に、どこか遠い、もう誰の手も届かない場所へ行ってしまうんじゃないかって、少し怖くなった」
聡太くんは照れたように笑い、
「キッチン借りるね」
と言った。
キッチンの水道を捻って、グラスで水を飲んだ。
水の流れる音。
換気扇が回る音。
新田さんと過ごした半年間、私の世界には常に、彼が選んだBGMが流れていた。
完璧な音響、完璧な照明、完璧な会話。
けれど、今のこの雑多な生活音の方が、ずっと深く私の鼓動に共鳴している。
「聡太くん」
「うん?」
「お腹すいた」
「まだ胃袋は絶望してないね」
二人で笑う。
「昨日あんなに泣いたのに、お腹って空くのね」
「お腹が空けば、また元気になれる。
……何か作ろうか。冷蔵庫、何もないけど、卵とパンくらいはあるね」
聡太くんは相変わらずたどたどしくはあるけれど、フライパンを火にかけた。
私はソファから立ち上がり、窓を大きく開けた。
代々木上原の坂道には、今日も忙しなく人が行き交っている。
新田さんが守りたかった正しさの外側で、世界はこんなにも無秩序に、けれど力強く拍動している。
あの人は、この喧騒や、予定調和を乱すノイズを心底嫌っていた。
彼は、人生を一つの完璧な作品として額装したがっていたのだ。
けれど、その額縁の中に、私の居場所は最初からなかった。
私は、デスクの上に置いたままだった、新田さんと選んだストールを手に取った。
指先に触れるその極上の肌触りは、今でも私の虚栄心を優しく愛撫する。
新田さんは、私に「本物」を教えたつもりだったのだろう。
けれど彼が与えたものは、私を美しく包装し、自分のギャラリーに飾るための梱包材に過ぎなかった。
私が感情をあらわにしたり、みっともなく泣き喚いたりすれば、彼の完璧な世界に傷がつく。
だからこそ、彼は昨日、あんなふうに私を捨てた。
自分という一等地の不動産を守るために。
私はそのストールを丁寧に畳み、クローゼットの奥へと押し込んだ。
アーカイブは、もう必要ない。
私は、新田さんの完璧な物語を彩るためのデッドストックとして生きることを、自分に許さない。
私は誰かのコレクションの一部ではなく、自分の足で土の上を歩く一人の女でありたい。
「お待たせ。少し焦げちゃったけど、味は、たぶん、大丈夫」
聡太くんが差し出したのは、形が崩れたオムレツと、厚切りのトースト。
一口食べると、素朴な塩気が涙腺を刺激した。
でも、もう新田さんの名前を呼んで泣くことはなかった。
昨日、タクシーを降りて聡太くんのパーカーの裾を掴んだ瞬間、私は自分の足で地面を踏む感覚を取り戻したのだ。
「……美味しい」
私は涙ぐんだ。
「また泣く」
聡太くんは笑う。
「でもよかった。食欲はある。
文さん、今日は お店、休む?」
「ううん、仕事に戻る。
私にはまだ、やるべきことがたくさんあるから。それに、聡太くんにタクシー代を返すために稼がなきゃ」
「冗談を言えるくらいには元気になったかな。
稼がなきゃなんて、文さん、完全に俺より稼いでるでしょ」
「当然」
私は笑った。
「私が聡太くんから奪った時間も、必ず返すね」
「そんなの気にしなくていいよ。
俺は文さんに、何度も救われてるんだから」
聡太くんは、昨夜のことはもう一切蒸し返さなかった。
新田という男に裏切られ、プライドを粉々に砕かれた私の惨めさを、彼はただの「昨日」として扱ってくれる。
私は、聡太くんがかつて贈ってくれた、あの色褪せたスニーカーを玄関から持ってきた。
かかとはすり減り、色は落ちている。
けれど、これこそが、私が自分の足で歩いてきた証だ。
新田さんが好んだルブタンの靴音ではなく、地面を捉えるこの鈍い音こそが、私の鼓動だ。
「今日は、表参道まで歩いていく。このスニーカーで」
私たちは顔を見合わせて笑った。
私たちは、かつてのような恋人同士には、もう戻れないかもしれない。
けれど、私たちは生身の人間として、また新しい関係を築いていける気がした。
ハイヒールを脱ぎ捨てて、昨日までと違う私自身の物語を、歩いていく。
このウォーキングシューズで。
Kyoko’s Side(響子)
広尾のマンションの寝室。
隣で眠る英秋の呼吸を数えながら、私は窓から差し込む春の光を眺めていた。
ブンちゃんからの
「新田さんと別れました。いろいろ、ありがとう」
という短いメッセージを、私は既読にしたまま返信していない。
彼女は、正解のない日常を生きる道を選んだ。
新田という完璧な毒に侵されても、彼女は死ななかった。
むしろ、その毒を自分の血肉に変えて、立ち上がろうとしている。
「……起きてるんだね、響子」
英秋が目を開けずに、低く呟いた。
「うん。執筆は? 今日から再開するんでしょ」
英秋は上体を起こし、ベッドの端に腰を下ろした。
白髪の混じり始めた彼の背中は、3年半前、すべてを捨てて再婚した頃よりも、少し小さく見える。
あの頃、私たちは不倫の背徳感を燃料にして、燃えるように生きていた。
世間という敵を想定することで、私たちの愛を純愛という名の物語へと昇華させていたのだ。
私たちは略奪という行為によって、自らの純白さを永遠に失った。
それを埋め合わせるために、英秋は書き続けた。
私たちが作り出す「美しさ」は、すべて過去への贖罪であり、同時に、自分たちを正当化するための武装でもあった。
「ブンちゃんが新田さんと別れたって」
「新田は……逃げたんだね。自分の完璧な世界を守るために、彼女を切り離した。ある意味賢いね。
……俺には、それができなかった。俺はいつだって、壊れていくものから目を逸らせない。君を奪ったあの日から、僕は自分の加害性を書き続けることでしか、生きていけなかった。
新田のように潔癖になれたら、もっと楽だったのかもしれないけれど」
「そうだね。あなたは逃げなかった。ある意味あなたは不器用で。
栞があんなに私を憎んでいるのも。 私たちは、誰かを深く傷つけることでしか、一つになれなかった。新田さんのような冷徹な『正しさ』を持ち合わせていなかった。だからこうして、今も罪を共有し合っている」
私たちは、かつて鎌倉の海で誓い合った、「永劫の改訂」を、人生という未完成の原稿を、何度でも二人で書き直していくのだと。
「あなたが、新田さんのように卑怯になれず、私は彼のようには完璧主義になれなかった。
ブンちゃんは、その枠の外へ出た。
彼女はもう、誰かの物語のエキストラじゃない。
自分の人生の、たった一人の主役になった」
私はベッドから立ち上がり、窓を大きく開けた。
窓の外には、いつもと変わらない東京の街並みが広がっている。
世間から見れば、私たちは略奪婚を成功させ、優雅に暮らす「九条夫妻」だ。
けれど、その内実が、お互いの欠落を埋め合うための共依存であり、過去の裏切りを忘れないための監視に近いものであることを、知る者はほとんどいない。
「……響子。君には、聞いたことがなかった。
後悔していないのか。もっと別の、穏やかな再婚相手がいたはずだろう。君の才能を正しく愛し、平穏な朝を約束してくれるような男が」
英秋が、私の背中に向かって問いかけた。
私は振り返らず、窓の外を見つめたまま答えた。
「後悔?あなたにしては愚問ね。
……あなたが私の隣にいて、私があなたの言葉の最初の読者であること。あなたが私を裏切るたびに、私がそれを許す。私はあなたという、一生書き直さなければならない不完全な作品を、愛している」
私は、左手の薬指で光るダイヤモンドを見つめた。
それは、不変の覚悟の結晶。
文が新田との恋で失った、刹那の輝きとは違う。
この石はどこまでも冷たく、鋭く、私たちの不自由な日常を繋ぎ止めている。
どれだけ月日が流れても、この硬度だけは変わることがない。
「あなたと出会った7年前にまた出会い直しても、
また同じ道をきっと歩むよ」
私は言った。
「朝食にしましょう。エスプレッソを淹れよう」
私は部屋を出て、キッチンへと向かった。
あの「永劫の改訂」を記した手帳。
略奪、憎悪、和解、そして倦怠。
そのすべてが、愛の「版」を変えながら続いていく。
私たちはこれから、文が選んだような救いのある日常は送れないだろう。
栞の憎しみは消えず、英秋の才能は枯渇の恐怖に怯え続け、私はそれを冷徹にマネジメントし続ける。
救いようのない二人。
でも、私たちはこれからも、書き損じだらけの人生を、一文字ずつ丁寧に、残酷に、改訂し続けていく。
それが、私たち二人が選んだ、世界で一番不自由な、幸福だから。
Fin.




