第六十七話:示談交渉
2029年も7月に入って梅雨が明けたころ、波留の元に損害賠償裁判について、裁判官からの和解勧告があったと連絡が入った。
提訴した損害賠償請求金額は1兆2000億円であるが、波留にそんな巨額の賠償金を取ろうという考えは無く、というか裁判に勝ってもその5分の1ですら払えるはずが無いし、最後まで裁判で戦ってテレビ局や新聞社、出版社に潰れてもらっては困ると考えている。
提訴した最大の目的は、示談交渉においてアンドロイドのPRをテレビの地上波や新聞雑誌の紙面上で大々的に行う契約を勝ち取ることであり、それによってアンドロイドを必要とするであろう高齢者へのアピールを波留は行いたかった。
波留は田中特殊雑貨工房の法務部長を務める神代忠人執行役員と若手弁護士二人の四人で示談交渉に挑むことにした。さらに、司法書士である白川千佳係長を経験を積ませる意味で記録員として同行させることになった。
「それでは出発しましょう」
本社ビルに集まった5人を引き連れ、波留は移動の車の中で彼にとって意外な話を聞く。
「――どんな顔をして来るか楽しみではあるな」
「会長、相手の顔を見る機会は恐らくありませんよ――」
波留は被告たちがどんな顔で交渉に挑んでくるのか楽しみにしていた。というか、どうやり込めてやろうかと色々策を練っていた。地球世界があまりにも平和で、異世界にいたころのある意味命を懸けた王侯貴族との修羅場とまではいかないまでも、ある程度の刺激を味わいたかったというのが本音だ。
けれども神代の話によると、今回のような巨額の損害賠償裁判で被告側が感情的になっている場合の示談交渉では、被告とは別の部屋に通され、裁判官が部屋を移動しながら交渉の仲立ちをすることが通例になっていて、被告と直接交渉を行う機会は無いだろうということだった。
神代たちはそれを想定し、示談条件案を数パターン紙に印刷して用意してきたということだった。その内容は波留が示した方針に基づいているから、今さら確認する必要はないのだが、彼は肩透かしを食らった気持ちを紛らわせようと、その条件案が書かれた書類に車内でひと通り目を通し、抜けや認識違いが無いことを確かめた。
「到着したようです。まだ少々時間がありますがどうされますか?」
「時間になるまでここで待ちましょう」
万が一でも遅刻をするわけにはいかないし、渋滞を考慮して早めに本社ビルを出たからこうなったわけだが、早く着いたからとて、予定外の時間に来られても対応する側は困る場合がある。だから波留は車の中で時間をつぶすことにした。時間にすれば1時間弱だが、心を落ちつけるにはちょうどい時間だと彼は思った。
そして時間になり、裁判所に慣れている神代の案内で手続きを済ませ、指定された部屋に入った。その部屋の入り口には調停室と書かれたプレートが掲げられていた。
「結構広い部屋だな」
「人数が居ますからね」
調停室には会議室で使うような大き目のテーブルがあって、波留たちは一応下座側に一列に座って来訪者を待った。
時間にして数分だったが波留たちが待っていると、調停室に入ってきたのは二人の男だった。片方が裁判官でもう片方が書記官らしい。挨拶を済ませた後、その二人がテーブルを挟んで波留たちの対面に座った。
「早速ですが和解に応じるということでよろしいですね?」
「被告が当方が望む条件を飲むならば和解に応じることになるでしょう」
「和解条件をまとめた書類はありますか?」
「こちらになります」
神代がカバンから一束の書類を取り出し、裁判官に渡した。その内容はこうなっている。
・損害賠償金をTV局が1000億、新聞社が450億、出版社が450億、コメンテーターが一人あたり50億に減額する。
・減額した代償として被告側役員全員の辞任とTV局はゴールデン時間帯でのコメンテーター二人も出演した謝罪番組の放送、新聞社は第一面を使った謝罪文の掲載、出版社は当該週刊誌の巻頭に謝罪文の掲載。
・田中ロボテクス製アンドロイドのイメージ回復のために、TV局は田中ロボテクス製アンドロイドのPR番組をゴールデン時間帯に2時間番組として放送すること。新聞社は見開き一面を使用した田中ロボテクス製アンドロイドのPR記事を掲載すること、出版社は巻頭で田中ロボテクス製アンドロイドのPR記事を掲載すること。
波留たちは当然ながらこの条件を相手が飲むとは思っていない。とくに総額2000億の損害賠償金は支払えるはずが無いと思っている。役員全員の辞任要求も飲めないだろう。
ここからは原告も被告も歩み寄りを見せなければ示談は成立しないことになるが、波留はどう転んでも構わないと思っている。示談条件を見たときの被告側の顔を見たかったとも彼は思ったが、裁判官の渋い表情を見るに、怒りに震えるか青い顔をして卒倒しそうになるかのどちらかだろうと想像出来て、それで良しとすることにした。
「この条件に相違ありませんね?」
「相違ありません」
この後数回裁判官と書記官が部屋を出入りして被告側とのやり取りを行ったが、波留たちはそう簡単には条件を緩めないぞという牽制の意味を込め、一切の譲歩をすることなく1回目の示談交渉はお開きになった。
この2000億円という金額は、田中グループの弁護士たちが予測した判決の金額であり、波留たちが遠慮することはもちろんないのだが、払えるはずもない賠償金額の判決を勝ち取ったところで旨味が少なすぎる。
だから波留はアンドロイドのPRを被告側にやらせることが最大の利益であると考えている。波留たちが示談条件を緩めなかったのは、2回目以降の交渉で賠償金額をさらに下げる代わりに、アンドロイドのPRを被告たちに確実に実施させるための戦略でもあった。
「時間がかかりそうですね」
神代たち弁護士三人と裁判官とのやり取りを記録していた白川係長の感想に、波留は「長引けば長引くほどこちらが有利になるからな、焦らずじっくりと進めればいいさ」と言って笑みを零したのだった。




