第十章-3 未来のアルシオ
正式に婚約を認められたあとも、サロンにはしばらく静かな余韻が残っていた。アエラはまだ、胸の奥がふわふわしている。けれど、隣に立つアルシオの気配だけは確かだった。彼もまた、緊張がほどけきらない顔をしている。けれどその横顔には静かな安堵があった。
「では、アルシオ。アエラさんを貴賓室まで送りなさい」
アリーシャが穏やかに告げる。
「はい、母様」
アルシオはすぐに頷いた。ユリウスはまだ、アリーシャとルークに少し話があるらしい。アエラは父へ視線を向けると、ユリウスはやわらかく笑って頷いた。
「お先に休みなさい、アエラ」
「はい、お父様」
アエラは深く礼を取る。
「本日は、本当にありがとうございました」
声は少し震えた。アリーシャはそれを責めることなく、静かに微笑んだ。
「こちらこそ」
アルシオが扉へ向かい、アエラもその後へ続こうとする。その時だった。
「アエラ嬢」
低く静かな声に呼び止められ、アエラは足を止めた。ルークは、ほんの少しだけくだけた父親の顔をしていた。
「はい」
「この子の隣は、気苦労が絶えないだろうが」
ルークはちらりとアルシオを見て、わずかに口元を緩める。
「よろしく頼むな」
その微笑みを見た瞬間、アエラの顔に一気に熱が上った。
「は、はい!」
声が裏返りかけた。アリーシャが隣で楽しそうに目を細めている。ユリウスも口元に笑みを含んでいた。アルシオだけが、少し不思議そうにアエラを見ていた。
「……リーナ?」
「な、何でもないわ」
アエラはすぐに視線を逸らした。二人はサロンを辞し、静かな回廊を歩き始めた。夜も更け、王城の中は昼間とは違う静けさに包まれている。壁の燭台が柔らかく揺れ、磨かれた床に二人の影を落としていた。
しばらくは何も言わなかった。正式に婚約を認められたこと。ルークの問いも、アリーシャの微笑みも、胸の中で何度も反響して、アエラはうまく言葉にできなかった。
けれど隣を歩くアルシオは、どこか別のことが気になっているようだった。貴賓室に到着すると、扉を開けようとするアエラに声をかける。
「……前から思ってたんだけど」
「な、何?」
アエラは嫌な予感を覚えて身構える。
「なんで父様に対して、そんなに赤くなるの?」
肩が一瞬跳ねた。
「そっ、そんなことないわよ」
「嘘。去年も、今年も、創設祭の時に父様を見て同じ反応してた」
「っ……」
鋭い。こういうところだけ、やたらよく見ている。アエラはしばらく黙り込んだ。
「気のせいよ。もう寝るわね」
アエラが扉へ手をかけようとすると、目の前へアルシオの手が伸び、行く手を遮った。誤魔化そうにも、アルシオの視線が逃がしてくれない。恐る恐るアルシオを見上げると、微笑んでいるのに目が笑っていない気がした。
「リーナ」
静かに名前を呼ばれる。観念するしかなかった。アエラは小さく息を吐き、ほとんど聞こえないくらいの声で呟く。
「……だって」
「うん」
「アルシオって、王配殿下に似てるじゃない?」
アルシオが少しだけ首を傾げる。
「うん?」
「だから……」
言えば言うほど、顔が熱くなる。アエラは視線を泳がせて、ぼそぼそと続けた。
「大人になったら、あんなふうに……色気が出るのかなって……」
沈黙が落ちる。
「……」
「な、何よ」
アエラは真っ赤なまま睨む。けれど、まるで迫力がない。やがてアルシオが、ゆっくりと目を細めた。
「へぇ」
その声音に、アエラは嫌な予感を覚えた。
「……ちょっと。何その顔」
「いや」
アルシオの顔が近づく。アエラは反射的に後ずさった。けれど貴賓室の扉がすぐ後ろにあって、逃げ場がない。
「リーナは、父様じゃなくて――」
少し意地悪で、楽しそうで、こちらの反応を分かっていて逃がさない顔をしている。
「未来の僕を想像してたの?」
耳元に、低く囁かれる。
「――!!」
声にならなかった。一瞬で顔が熱くなる。耳や首まで、全部が燃えるようだった。
「ち、違っ……!」
「違うの?」
「……違わないけど!」
「リーナ、可愛い」
「もう知らない!」
アエラは両手で顔を覆った。アルシオは堪えきれないように小さく笑う。
「もう! 絶対面白がってるでしょ」
「そんなことないよ。嬉しい」
その声だけは、少しだけ柔らかかった。アエラは指の隙間から、ちらりとアルシオを見る。アルシオは本当に嬉しそうに目を細めていた。その顔をされると、なんだかんだで許してしまいたくなる。
「でも、そっか」
アルシオがふっと笑う。
「リーナは、色気のある男性に惹かれるんだね」
「それは……!」
アエラの顔がまた熱くなる。
(――もう!本当にこういうところ、意地悪だわ!)
「僕、頑張るから」
「別に今のままでもっ!」
思わず即答すると、アルシオが少しだけ目を丸くした。
「今のまま、何?」
自分の失言に、アエラは言葉が出ない。アルシオを自ら喜ばせてしまっている。
「あの、その……!」
言葉がぐちゃぐちゃになる。アエラが再び顔を覆おうとすると、アルシオがその両手をそっと取った。
「アルシオ?」
逃がさないみたいに、優しく指を絡められる。アルシオは少しだけ身を屈めた。茶色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「……リーナ」
呼ばれただけで、胸が鳴る。アエラは目をきゅっと閉じた。次の瞬間、柔らかな感触が唇へ落ちた。
「……っ」
今度は軽く触れるだけではない。優しく、確かめるみたいな口づけだった。アエラの思考が真っ白になる。アルシオの指が、そっと頬へ触れる。離れていく唇が、少し名残惜しそうで。
「……やっぱり、嬉しい」
低く囁かれる。アエラはもう、何も返せなかった。ただ真っ赤な顔のまま、アルシオを睨むことしかできない。その時だった。
ふと、アエラは気づいた。ここは貴賓室の扉の前だ。当然、扉の横には近衛兵が立っている。弾かれたように彼らを見ると、近衛は完璧なまでに“何も見ていません”という顔をしていた。アエラの視線を感じたのか、そっと顔を背けられる。アエラの顔が、さらに熱くなる。
「~~~っ!!」
アルシオを勢いよく睨み上げる。
「馬鹿!!!」
アルシオを押し除け、慌てて貴賓室へ駆け込んだ。ばん、と少し大きな音を立てて扉が閉まる。静かな回廊に、沈黙が落ちた。近衛たちは相変わらず微動だにしない。ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいる者がいた。扉の前に残されたアルシオは、数秒黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……リーナ」
扉越しに声をかける。
「ごめん。ちょっと調子に乗っちゃった」
即座に中から返事が飛んできた。
「ちょっとじゃないわよ!」
興奮しているのが、声だけで分かる。アルシオは思わず笑ってしまう。
「だって、リーナが可愛いこと言うから」
「言ってない!」
「言ったよ」
「もう知らない!」
完全に拗ねている。けれど、その声は怒りきれていない。アルシオは困ったように笑いながら、閉ざされた扉へそっと手を触れた。
「……おやすみ、リーナ」
少し間が空く。それから、小さな声が返ってきた。
「……おやすみなさい」
その声音がちゃんと柔らかくて、アルシオは安心したように目を細めた。
扉の両隣に立っていた近衛は平静を装いながら、内心では、ひどく驚いていた。第一皇子アルシオ殿下といえば、穏やかでいつも礼を崩さない方だ。近衛や侍女にも横柄な態度を取ることはなく、言葉をかける時には必ず相手を見て、ささやかな労いすら忘れない。その殿下が、あんなふうに年相応の少年の顔で笑うとは。しかも相手は、先ほど正式に婚約者として認められたばかりの令嬢だ。
近衛は視線を伏せたまま、見なかったことにした。それが今の務めだ。けれど、悪いものを見たとは思わなかった。むしろ、あの静かな皇子殿下にも、誰かの前であれほど柔らかく崩れる顔があるのだと知って、どこか胸が温かくなる。
アルシオは扉を一度だけ振り返った。その横顔には、まだ少しだけ照れのようなものが残っている。やがて小さく咳払いをして、近衛たちへ視線を向けた。
「……ご苦労様。引き続きよろしくね」
少しだけ気恥ずかしそうな声音だった。それでも礼を欠かさないところが、やはりアルシオらしい。近衛殿たちは静かに頭を垂れる。
「はっ」
アルシオはそれ以上何も言わず、夜の回廊を歩き去っていく。明日にはきっと、王城の端々で囁かれるだろう。けれどそれは、悪意のある噂ではない。第一皇子殿下は、どうやら婚約者殿をとても大切にしておられるらしい。そんな、少しだけ微笑ましい噂だった。




