第十章-2 隣に立つ覚悟
案内されたのは、食堂からほど近い私的なサロンだった。深い色の絨毯と落ち着いた調度品が置かれた、小さすぎず、大きすぎない部屋。窓の外には夜の庭が広がり、燭台の灯りが静かに揺れていた。
先ほどまでの温かな晩餐とは違い、いよいよ承認か否か、通達されるのだと理解した。アエラはそれを肌で感じ、そっと背筋を伸ばした。
アリーシャが腰を下ろし、その隣にルーク。ユリウスは少し離れた椅子へと向かうが、座る前にアリーシャへと向き直った。
「あらためて、娘アエラマリーナとアルシオ殿下の婚約を、お認め頂きたくお願い申し上げます」
先ほどまでの柔らかな表情ではなく、エストリア共和国首相としてアリーシャへ深く頭を下げた。
「ユリウス殿のお申し出は、確かに承りました。ですが、答えをお伝えする前に、二人の覚悟を聞かせてください」
アリーシャの言葉に、ユリウスは再び一礼し、席へと座った。アルシオはアエラと並んで、アリーシャとルークの前に立った。最初に口を開いたのは、ルークだった。
「楽しい晩餐だったな」
「はい」
アルシオが答える。
「ルナーリアも、リーナを気に入ったようです」
「そうだな」
ルークは短く頷いた。
「だが、少し真面目な話をしようか」
その一言で、サロンの空気が引き締まった。アエラは息を止める。ルークの赤みを帯びた茶の瞳が、まっすぐアルシオへ向けられる。
「アルシオ」
「はい」
「お前は、アエラ嬢を守るつもりなのだろう」
問いではなく、確認だった。アルシオは逃げずに頷く。
「はい」
「なら、聞く」
ルークは静かに続けた。
「昨日の茶会では、アエラ嬢への非難があったそうだが、あの程度で終わると思うか」
アエラの指先がわずかに強張る。クラリスたちの言葉。母のことに踏み込まれた瞬間の冷えた背筋。でも、エレオノーラが助けてくれた。
ルークは直接見ていたわけではない。けれど、聞いただけで十分に分かっている。あれが、これからも起こりうることを。
「今後、もっと悪意は向く」
ルークの声は変わらない。
「噂も立つ。血筋も、国も、立場も、すべて利用される。アエラ嬢が何を言っても、何をしなくても、都合よく語る者はいる」
アルシオは唇を引き結んだ。
「お前が隣へ立たせようとしているのは、そういう場所だ」
静かな言葉だった。けれど、刃のように重かった。
「それでも、お前は彼女を隣へ立たせるのか」
サロンに短い間、沈黙が落ちる。アリーシャは何も言わない。ユリウスも、ただ見守っている。アルシオはゆっくりと息を吸った。
「噂も悪意も、すべて防げるとは思っていません」
その声は、思っていたよりも落ち着いていた。
「茶会のことも聞きました。きっと、これからもっと増えると思います」
アエラは隣で、静かに彼を見上げる。
「それでも」
アルシオはまっすぐルークを見た。
「一人では立たせません」
その言葉に、アエラの胸が小さく鳴る。
「僕が先に矢面へ立ちます。僕が選んだのだと、周囲に示します。リーナだけが責められるようなことにはしません」
ルークは表情を変えない。
「それで十分だと思うか」
さらに問われ、アルシオは一瞬だけ目を伏せた。そして、首を横に振る。
「いいえ」
短い返事だった。
「僕が前に出ても、リーナが傷つかないわけではありません。僕の名を使っても、守り切れない言葉は必ずあります」
それが現実だと、アルシオは知っていた。
「……それに、僕が皇族の色を持たないことを、突いてくる者も必ずいる」
アリーシャがとっさに声を上げようとするが、ルークが制する。アルシオは静かに続けた。
「今までは、母様と父様が守ってくれていた。でも、これからはそうはいかない」
アリーシャの指先が、ぎゅっと裾を握りしめる。ルークは黙ったまま、息子を見ている。
「アエラを守るためには、僕自身が周りを認めさせていかなければならない」
その言葉は静かだった。けれど、逃げのない声だった。
「僕が第一皇子として至らない、後継者に相応しくないと思われれば、きっと矛先はリーナにも向く。異国の娘だから、共和国の娘だから、王家の色を持たない僕が選んだから――そんなふうに言われる」
アルシオは一度、拳を握る。
「だから、僕が立たなければいけない」
その横顔に、アエラは息を呑んだ。昨日までの、少し無茶をして笑う少年の顔はない。今ここにいるのは、セレスティア皇国第一皇子としてのアルシオだった。
「父様」
アルシオは、まっすぐルークを見る。
「僕はもう、自分の色のことで母様と父様の後ろに隠れ続けるつもりはありません」
ルークの赤茶の瞳が、静かに細められる。
「……そうか」
短い返事だった。だがその声は、先ほどまでよりもわずかに低く、深かった。
「それが分かっているならいい」
ルークは椅子の背に身を預ける。
「アエラ嬢を守るために、お前自身が後継者にふさわしいと周囲に認めさせろ」
確かな言葉だった。
「お前自身が堂々と立てなければ、彼女を守ることはできず、二人もろとも口を挟まれる隙を与えてしまう」
アルシオは頷いた。
「はい」
アエラは隣で、胸の奥が熱くなるのを感じていた。アルシオは、自分を守ろうとしてくれている。けれどそれだけではない。彼は今、自分自身と向き合おうとしている。そのことが、たまらなく誇らしかった。でも、それだけでいいのかと、アエラは違和感を覚えた。
「……違います」
小さな声が響いた。皆の視線が、アエラへ向く。アエラは握っていた手を、ゆっくりと開いた。そして、まっすぐ顔を上げる。
「アルシオだけではありません」
アルシオがわずかに目を見開く。アエラはその視線を受け止めてから、ルークへ向き直った。
「わたしも、アルシオを守ります」
声は震えていなかった。
「きっと、傷つくことはあります。嫌なことを言われることも、これからもっと増えると思います。茶会でも、それは少し分かりました」
胸の奥に、あの冷たさはまだ残っている。けれど、もう怯えてはいなかった。
「でも、真綿で包むように守られるだけの場所に、甘んじるつもりはありません」
アリーシャの紫の瞳が、静かにアエラを見ている。
「アルシオだけに、全部背負わせません」
アエラは一度、隣のアルシオを見る。
「二人で乗り越えます」
その言葉に、アルシオの表情が揺れた。驚きと、安堵と、そしてどうしようもない愛しさのようなものが、茶色の瞳に滲む。ルークはしばらく何も言わなかった。長い沈黙だった。やがて――ふっと、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……そうか」
短い言葉だった。けれどその響きに、先ほどまでの試すような硬さは、少しだけ薄れていた。
「二人で乗り越える、か」
アルシオはわずかに息を呑む。
「守るという言葉は、時に傲慢だ。相手を囲い、遠ざけ、何も見せずに済ませようとすることもできる」
その声には、どこか自分自身へ向けるような響きがあった。
「だが、皇族の隣に立つ者は、守られるだけではいられない。隣に立つなら、敵意も非難もも同時に受けることになる」
アエラは静かに頷いた。
「はい」
ルークはアエラを見たあと、再びアルシオへ視線を戻す。
「俺の方からは、もう何も言うことはない」
それから、隣のアリーシャへ目を向けた。
「アリーシャはどうだ?」
最終判断者は、女皇だ。その場の誰もが、それを理解していた。アリーシャはしばらく二人を見つめていた。歓迎会でアエラの背中から手を離さなかった息子。茶会で一人立ち、自身の思いを譲らなかった少女。互いを守ると言いながら、片方だけに背負わせないと告げた二人。アリーシャは、静かに微笑んだ。
「わたくしも、アエラさんがアルシオを選んでくれたことを、嬉しく思います」
アエラは息を呑んだ。その言葉に、アリーシャの母としての思いが滲んでいた。
「これからも、よろしくお願いしますね」
アエラの視界が、少しだけ滲みそうになる。
「……はい」
声が震えた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。アルシオもまた、静かに頭を下げた。
「正式な発表は、時期を見て行います。ですが、今この時を持って、二人の婚約を認めます」
その言葉で、二人の婚約は正式に認められた。公に発表されるのはまだ先でも、アエラは今この時から、第一皇子の正式な婚約者として、王家に迎えられたのだ。ユリウスが静かにグラスを置く。
「娘を、よろしくお願いいたします」
その声は首相としてのものではなく、父親のものだった。アリーシャが頷く。
「大切に迎えます」
静かな言葉だった。けれどそこには、揺るぎない重みがあった。




