第十章-1 皇国の外と内
翌日、アエラはユリウスと共に市街へ出ていた。訪れたのは、エストリアとの取引がある商家だった。皇国の城下でも古くから店を構える家で、主に織物や香料、乾燥果実、細工物などを扱っているという。
店の奥には帳簿と品見本が並べられ、商人たちが丁寧に頭を下げて出迎えた。
「アルタイル閣下。遠路、ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ。いつも共和国との取引では世話になっています」
ユリウスは穏やかに笑いながら、差し出された帳簿へ目を通す。
「この香料は、少し入荷が遅れていますね」
「ええ。南側の荷が一度止まりまして。今は迂回路を使っておりますが、少々値が上がっております」
「なるほど。では、次の便からは量を調整しましょう。こちらの染料は?」
「こちらは順調でございます。むしろ皇国のご婦人方に評判がよく、追加で仕入れたいという声も」
ユリウスは頷き、時折質問を挟みながら、品の流れや値の変化を確認していく。アエラはその横で、静かに聞いていた。聞いている、つもりだった。けれど正直、半分も頭に入っていない。昨日の庭でのこと。そして今夜の晩餐。皇族たちとの、内輪の席に招待されているのだ。公の席よりも近い距離で、アエラ自身を見られることになる。そこで自分は、うまく振る舞えるだろうか。認めてもらえるだろうか。そんなことばかりが、胸の奥でぐるぐる回っていた。
「リーナ」
「……え?」
父に呼ばれて、アエラははっと顔を上げた。ユリウスが少しだけ苦笑している。
「聞いていたかな」
「ええ、もちろん」
「では、今の話を」
「……南の荷が、少し……ええと」
言葉が詰まる。商人が柔らかく笑った。
「ご令嬢には、少々退屈な話でございましたかな」
「いえ、そんなことは」
アエラは慌てて姿勢を正す。商人は気を悪くした様子もなく、むしろどこか楽しげに目を細めた。
「それとも、別のお考えごとで?」
その一言に、アエラは一瞬だけ固まった。商人は声を少し落とす。
「失礼ながら、城下でも少し噂になっております。ご令嬢は、第一皇子殿下のもとへ輿入れされるのではないか、と」
「……それは」
アエラが返答に迷うより早く、ユリウスが穏やかに笑った。
「まだ私から申し上げられることはありませんよ」
「当然でございますね。これは失礼を」
商人は深く頭を下げた。けれど、その顔には嫌な好奇ではなく、どこか親しみのある笑みがあった。
「ですが、もしそうなれば、城下としても喜ばしいことですな」
「……そうなのですか?」
思わず、アエラは問い返していた。商人は頷く。
「ええ。今の皇国は穏やかです。女皇陛下の治世は安定しておりますし、王配殿下も民の間では評判がよろしい」
「ルーク殿下が?」
「はい。表に多く出られる方ではありませんが、軍や治安に目を配ってくださっていると聞きます。若い頃から苦労をなさったそうで、民の暮らしに目を配って下さっています」
アエラは静かに聞き入った。王城で見るルークは、静かでどこか近寄りがたい。けれど民の間では、確かな信頼を得ているのだ。
「アルシオ殿下についてはどうですか」
ユリウスがさりげなく問いを投げる。商人は少し考えるように顎を撫でた。
「第一皇子殿下ですな。正直、我々のような者には遠いお方です。ですが、悪い噂は聞きません。お色が王家のものではないと囁く者はおりますが……まあ、それは貴族様の方が気になさることでしょう」
その言い方に、アエラは目を瞬かせる。商人は続けた。
「我々にとって大事なのは、明日の商いと暮らしです。髪や瞳の色で税が軽くなるわけでも、道が良くなるわけでもありませんからな」
あまりにも現実的な言葉に、アエラは思わず少し笑ってしまった。
「殿下が聡明で、民を苦しめるような方でなければ、それで十分です。まして、エストリアとの縁が深まるなら、商人としては歓迎したいところです」
商人はにこりと笑う。
「アエラ様が嫁がれるのなら、楽しみですな」
アエラの頬が、じわりと熱くなる。
「まだ、そうと決まったわけでは……」
「ええ、もちろん。これは私の独り言です」
商人はまた頭を下げたが、どこか楽しそうだった。ユリウスも隣で、何も言わずに微笑んでいる。
それを横目に、アエラは小さく息を吐く。城の中では、血筋や色や格式が重くのしかかっていた。けれど市街では、少し違う。王家の色がないことを、気にする者もいるだろう。だがそれだけが全てではない。人々は、日々の暮らしの中で皇族を見ている。平穏かどうか。信頼できるかどうか。暮らしが守られているかどうか。その目線は、茶会で向けられたものとはまるで違っていた。
ほんの少しだけ、胸が軽くなる。けれどすぐに、今夜のことがまた心に浮かんだ。アルシオの家族の中へ入る時間。ルナーリア殿下に渡す花の種は、侍女に確認してもらってある。喜んでくださるだろうか。失礼にはならないだろうか。アリーシャ陛下は、王配殿下は今日の自分をどう見てくださるだろうか。
「リーナ」
再びユリウスに呼ばれ、アエラは顔を上げる。父は苦笑し、帳簿を閉じた。
「今夜が気になる?」
アエラは答えなかった。けれど、それだけで十分だったのだろう。ユリウスは穏やかに目を細める。
「大丈夫だよ。ありのままの君でいたらいい」
「うん」
ユリウスは頷く。
「それで十分だ」
商家を出ると、市街の通りには夕方前の賑わいが広がっていた。荷車の音。露店の呼び声。パンの焼ける香り。皇国の城下は、思っていたよりずっと穏やかだった。
アエラはその景色を見つめながら、胸元に手を当てる。晩餐のことを考えると、やはり緊張する。でも、少なくとも今は、この国をもっと知りたい、と少しだけ思えた。
*
その夜、アエラとユリウスは、皇族たちとの内輪の晩餐へ招かれた。王城の私的区域に近い、落ち着いた食堂だった。大きすぎない卓には、すでに席が整えられている。公の宴とは違い、灯りも料理の並べ方も、どこか柔らかい。
アエラは入室すると、まずアリーシャとルークへ礼を取り、それからユリウスと共に席へ進もうとした。その時だった。
「アエラ様!」
明るい声が、ぱっと室内に弾けた。声の主は、ルナーリアだった。公の歓迎会には出ていなかったため、アエラが彼女ときちんと顔を合わせるのはこれが初めてだった。淡い金色の髪に、母譲りの紫の瞳。まだ幼さの残る顔立ちには、隠しきれない好奇心と喜びが浮かんでいる。
「ルナーリア殿下。初めてお目にかかります。アエラマリーナ・アルタイルと申します」
「はい! 存じ上げております。わたくし、アエラ様にお会いできるのを心待ちにしておりました」
ルナーリアはきらきらした目で頷く。その勢いに、アエラは少しだけ頬を緩めた。そして、持参していた小さな包みを侍女から受け取り、ルナーリアへと差し出す。
「殿下はお花がお好きだと伺いましたので……よろしければどうぞ。エストリアで最近流通し始めた花の種です。皇国の土に合うかは分かりませんが、もし咲いたら、とても綺麗な薄紫の花になります」
「まあ……!」
ルナーリアの顔が、一瞬で輝いた。
「お母様、見てください! アエラ様が、お花の種をくださいました!」
アリーシャが柔らかく微笑む。
「よかったわね、ルナーリア」
「はい!」
ルナーリアは包みを大切そうに両手で抱きしめる。
「ありがとうございます、アエラ様! 咲いたら必ずお見せしますね!」
「ええ。楽しみにしております」
そう答えると、ルナーリアはもう我慢できないというように、ぱたぱたと自分の席の方へ向かった。
「アエラ様!こちらへ! ルナの隣に座ってください!」
「ルナーリア」
アリーシャが少したしなめるように名を呼ぶ。けれどその声にも、強い咎めはない。ルナーリアは胸を張った。
「ちゃんとお母様にお願いしておきました。アエラ様のお席は、ルナの隣です」
どうやら前もって決めていたらしい。アエラは少し驚いてから、思わず笑ってしまった。
「では、お言葉に甘えて」
ルナーリアの隣へ腰を下ろすと、正面にはアルシオが座った。目が合うと、アルシオは少しだけ笑った。その柔らかな表情に、アエラは昨夜の庭を思い出してしまい、慌てて視線を逸らす。
上座にはアリーシャ。その隣にルーク。アリーシャの正面にはユリウスが座り、アルシオの隣にはエクシオがいる。
「アエラ様、ルナはずっとお会いしたかったのです」
隣でルナーリアが小声ではしゃぐ。
「わたしに、ですか?」
「はい。お兄様の婚約者になられるのでしょう?」
「っ……」
アエラは思わず息を詰まらせた。
「ルナーリア」
アルシオが少し困った声を出す。けれどルナーリアは不思議そうに首を傾げた。
「違うのですか?」
「まだ正式に決まったわけではありませんよ」
アリーシャが穏やかに補う。ルナーリアは、それでもきょとんとしていた。
「でも、お兄様があんなに嬉しそうにしていらっしゃるのですもの」
その一言で、アエラの頬が一気に熱くなった。アルシオも珍しく、視線を落とす。エクシオが楽しそうに笑った。
「ルナ、そこは言わないであげなよ。兄様が困ってる」
「そうなのですか?」
「ほら、下を向いて、きっとにやけてるんだよ」
「エクシオ」
アルシオが静かに弟をたしなめるが、エクシオは悪びれもせず笑っていた。そのやり取りを見て、アエラは少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。兄妹のやり取りは、くだけつつも温かかった。
料理が運ばれ、晩餐は穏やかに始まった。ルナーリアはもらった花の種の包みを大切そうに傍らへ置き、時折うれしそうに眺めていた。そして、アエラに質問した。
「この花は、香りもするのですか?」
「強い香りではありませんが、夜になると少しだけ甘く香ります。共和国では、夜会の庭園に植えられることもあります」
「夜に香る花……素敵ですね」
ルナーリアはうっとりしたように包みを見つめる。
「咲かせるの、難しいかしら」
「少し気難しいと聞いています。でも、殿下ならきっと大切に育ててくださると思って」
「もちろんです!」
その様子に、アリーシャが目を細めた。
「アエラさんは、人の好みをよく見ていらっしゃるのね」
「いえ。前もって、殿下がお花をお好きだと伺っていましたので」
「それでも、相手が喜ぶものを選べるのは大切なことです」
静かな言葉だった。褒められたのだと分かり、アエラは少しだけ頬を染める。
「ありがとうございます」
そこへユリウスが穏やかに笑って口を開いた。
「この子は昔から、興味を持ったことにはよく気が回るのです。もっとも、気が回りすぎて困ることもありましたが」
「お父様」
嫌な予感がして、アエラは父を見る。ユリウスは、すでに楽しそうだった。
「幼い頃、私が外交へ出ると聞くたびに、自分も行くと言い張りましてね。ある時など、港まで勝手についてきたどころか、船に乗り込んでいたんですよ」
「まあ!」
ルナーリアが紫の瞳を輝かせる。
「冒険みたいですね」
「大人たちは大騒ぎでしたよ」
ユリウスは苦笑する。
「本人は船員たちに混ざって、すっかり出発する気でいました」
「だって、置いていかれるのが嫌だったんですもの!」
アエラは真っ赤になって抗議した。
「それに、父がどんなところへ行って、誰と話すのか知りたかったんです」
「その結果、船の荷に紛れていたわけだ」
「紛れてはいません!」
ユリウスが楽しげに笑う。正面でアルシオも、目を細めていた。
「リーナらしいね」
「笑わないで」
「褒めてるんだけど」
「どこがよ」
そう返すと、卓に柔らかな笑いが広がった。アリーシャは微笑みながら、今度はアルシオへ視線を移す。
「アルシオとは、ずいぶん違う幼少期ですね」
「兄様は逆です」
すぐに食いついたのはエクシオだった。
「ずっと本を読んでいましたよね」
エクシオは楽しそうに続ける。
「探す時は大体、書庫なんですよ。集中すると全然返事しないし」
ルークが静かに頷いた。
「何度か迎えに行ったな」
「書庫で眠ってしまっていたこともありましたね」
アリーシャまで穏やかに追撃する。アルシオが珍しく困ったように息を吐いた。
「……もう、その辺で」
その様子がおかしくて、アエラは思わず笑ってしまった。
「でも、本ばかり読んでいるのは、学園でも一緒かもしれません」
その瞬間、アリーシャが小さく目を丸くした。
「あら、やはりそうなの?」
「ええ。図書館へ行くと、大体アルシオがいます」
「大体じゃないよ」
少し恥ずかしそうに否定するが、アエラは止まらない。
「しかも、放っておくとずっと本を読んでいるんです。休憩も忘れるくらい」
「兄様らしい……」
ルナーリアが、しみじみ頷く。
「本を読んでいる時は、周りの音が聞こえないそうなんです」
アルシオが額へ手を当てる。その困り方が、学園で見る“完璧な第一皇子”とは違いすぎて、アエラはまた笑ってしまった。
「だから、わたしがよく声をかけに行っていたんです」
そう言うと、卓の空気がふっと柔らかくなる。アリーシャは静かにアエラを見つめた。
「アエラさんが?」
「ええ。最初は煙たがられていました。本当に本しか見てくださらなくて」
「それは言い過ぎじゃないかな」
「事実でしょう?」
アエラが返すと、エクシオが堪えきれず吹き出した。
「兄様、はじめはアエラ先輩にそっけなかったんですね」
「エクシオ」
「でも、今は全然違うじゃないですか」
その一言に、アルシオがぴたりと黙る。ルナーリアが不思議そうに首を傾げた。
「違うのですか?」
「そうですね」
答えたのは、アエラだった。自然に言葉が出ていた。
「今は、ちゃんとこっちを見てくれるもの」
一瞬、卓が静かになった。アルシオが、正面からアエラを見ている。茶色の瞳が、驚いたように少しだけ見開かれていた。アエラは言ってから、自分の言葉に気づく。
「……っ」
急に恥ずかしくなって視線を逸らした。エクシオは完全に面白がっている顔になる。ルナーリアはきらきらしている。ユリウスは口元を隠して笑いを堪えていた。楽しい晩餐の時間は、思っていたよりもずっと早く過ぎていった。
ルナーリアは最後まで花の種を大切そうに抱えていたし、エクシオは兄の幼少期の話を楽しげに掘り返しては、アルシオにたしなめられていた。アエラも何度も笑い、気づけば昼間から続いていた緊張は少しだけ薄れていた。けれど、食後の茶が終わる頃、空気はゆっくりと変わった。
「ルナーリア、そろそろ部屋へ戻りなさい」
アリーシャの穏やかな声に、ルナーリアは名残惜しそうにアエラを見る。
「アエラ様、またお話ししてくださいね」
「ええ。もちろんです」
「お花、咲いたら必ずお見せします!」
そう言って、ルナーリアは侍女に伴われて居室へ戻っていった。エクシオもまた、アリーシャの視線を受けて静かに席を立つ。
「兄様、アエラ様。おやすみなさい」
「おやすみ、エクシオ」
「おやすみなさい、エクシオ殿下」
エクシオは一瞬だけ兄の顔を見た。けれど何も言わず、ただ軽く頭を下げて退室していく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。残ったのは、アリーシャ、ルーク、ユリウス。そしてアルシオとアエラだった。
「場所を移しましょうか」
アリーシャが静かに告げた。




