第九章-4 欲しかった言葉
アエラは膝の上で温石を握りしめて、少しだけ夜空を見上げる。
「どう、って言われると……よく分からないわ」
「うん」
「うまく出来たのかも分からないし。たぶん、失礼もあったと思う」
クラリスの言葉、令嬢たちの笑い。母のことを問われた時の、胸が凍るような感覚。思い出すだけで、指先に少し力が入る。
「でも、譲れないところもあるもの……」
アエラは静かに言った。
「エストリアを見下されたり、あなたが支えてくれるのを不相応だって言われるのは我慢できないわ」
アルシオは、黙って聞いている。
「それに……エレオノーラ様を利用するような言い方は許せない」
「エレオノーラ嬢を?」
「ええ」
アエラは小さく頷く。
「彼女は、助けてくれたわ。わたしが答えたくないことに踏み込まれた時、きちんと止めてくれた」
アルシオの表情が、少しだけ静まる。
「そう」
「やっぱり素敵な人だわ。品があって、静かで、でも強い人」
言いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
「だから、分かった気がした。あの人がアルシオの隣に相応しいとみんな思ってたのか」
アルシオは何も言わない。それが少しだけ苦しくて、でも誠実でもあった。アエラは自分の指先を見つめる。
「わたし、多分、ずっと後ろめたかったの。エレオノーラ様に対して」
「……リーナ」
アルシオは少しの間、黙っていた。やがて、静かに言う。
「リーナは、すごいね」
「何が?」
「相手をちゃんと認めようとするところ」
アエラは一瞬言葉を失った。
「……別に、そんな立派なものじゃないわ」
「ううん」
アルシオは首を横に振る。
「君は立派だよ」
その言葉に、胸がきゅっと鳴った。昼間、何度も自分に言い聞かせていた。逃げない。崩れない。怒りに任せない。けれど本当は、ずっと怖かった。
「ねぇ、アルシオ」
「うん」
「わたし、ちゃんと出来てたかな?」
思ったより弱い声が出た。アルシオはすぐには答えなかった。代わりに、そっとアエラの手を取る。夜風で冷えていた指先が、彼の手の中で包まれる。
「出来てたよ」
迷いのない声だった。
「母様は、リーナが何を譲って、何を譲らないのかを見てるんだと思う」
アエラは隣の横顔を見る。月明かりの下のアルシオは、昼間の皇子の顔よりずっと柔らかい。
「母様は、ちゃんとリーナを見てくれてる。きっと好きになってるよ」
アルシオの声は、静かだった。
「だから、大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、今日一日胸の奥に張りついていた不安が、少しだけほどけた気がした。アエラは息を吐く。
「……アルシオ、ありがとうね」
「何が?」
「今、欲しい言葉をくれて」
アルシオは少し考えるように瞬きをした。
「うん」
「……好き」
ほとんど聞こえないくらいの小さな声だが、アエラは言葉にしたかった。アルシオの目が見開かれる。アエラの耳が赤くなっていた。夜風は二人の間を抜けていく。アルシオがアエラの頬に手を伸ばしかけて――、レックスがわざとらしく咳払いをした。
「そろそろ戻れよ。これ以上、侍女たちに心配かけんな」
「……分かってる」
アルシオはそう返しながら、伸ばした手をゆっくりと引き戻した。あと少しだけ、この穏やかな時間に甘えていたかった。
「……じゃあ、戻るわ」
アエラは名残惜しそうに立ち上がる。
「送るよ」
立ち上がったアルシオが手を差し出した。
「え?何言ってんの。駄目でしょう」
「なんで?危ないでしょ」
「それを言うなら、そもそも飛び降りさせないでよ」
「それもそうだね」
「絶対、思ってないでしょ」
アエラが睨むと、アルシオは少しだけ目を細めた。その顔がまるで反省していない。少し離れた場所で、レックスが呆れたように息を吐く。
「……もう諦めろ。こうなったら、こいつはてこでも譲らない」
その言葉に、アエラは思わずアルシオを見る。アルシオは否定もしなかった。気を取り直すように言った。
「とにかく。こんな時間に皇子殿下が貴賓室へ向かうところなんて見られてはいけないわ」
「構わないよ」
「駄目に決まってるでしょ!」
思わず声が大きくなり、アエラは慌てて周囲を見回した。アルシオは相変わらず穏やかな顔のままだ。
「でも、一人で戻すなんて薄情なことはしたくないよ」
少しだけ困ったように、けれどどこか甘えるみたいに首をかしげながら見つめられ、アエラは言葉に詰まる。ずるい。そんな顔をされたら、強く言えない。レックスが、完全に諦めた声音で言った。
「ほらな」
「……もう」
結局、アエラは小さくため息をつくしかなかった。三人は静かな回廊を歩き始める。アルシオはアエラの手を握り離さなかった。
夜の王城は昼より静まっていたが、人の気配が消えることはない。角を曲がるたび、控えている侍女や近衛がこちらへ気づき、深く礼を取る。そして、その視線がほんの一瞬だけ止まる。第一皇子がエストリアの令嬢を連れて歩いている。しかも夜遅くに、だ。何も言われなくても分かる。
――見られてることに、アエラはだんだん居た堪れなくなってきた。隣を歩くアルシオは平然としているのに、自分だけがそわそわしている気がして余計に悔しい。
「あぁ……」
「どうしたの?」
アエラは小声で返した。
「面白おかしく噂になるに決まってるもの」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ」
「リーナと僕の噂なら、別に広まっても困らないし」
「悪い噂は広めるべきじゃないわ!」
アルシオは小さく笑う。その笑い方が楽しそうで、アエラはもう怒る気力もなくなってきた。貴賓室を守る近衛たちは、一瞬中にいるはずのアエラが歩いてきたことに驚いたようだが、アルシオが隣にいることに触れないのは、さすが皇国の近衛である。だが、その表情は“見なかったことにしよう”としている微妙なものだった。
貴賓室の扉を叩くと、中から慌てた侍女らが出てきた。
「アエラ様!いきなり飛び降りないでください!」
「うぅ……、本当にごめんなさい」
アルシオがアエラの前に一歩踏み出す。
「心配かけたね。飛び降りるよう言ったのは私だ。リーナといたくて、無理を言ってしまった。貴女方を驚かせて、申し訳ない」
アルシオは手を胸に当て、軽く頭を下げる。皇子が、侍女に頭を下げる。そんなことはあってはならない。侍女らは余計に狼狽えてしまった。
「とっ、とんでもございません!皇子殿下!頭をお上げください!」
侍女らに弁解するために、わざわざ送ってくれたことが嬉しかった。握られた手が、熱くなるのを感じた。そして、アエラは前に立つアルシオの背中を見た。後ろから見ると、大きくて広い背中だと思った。アルシオは細身の方だと思っていたけど、やっぱり男の人なんだと、胸が高鳴った。アルシオはようやくそっとアエラの手を離した。指先から温もりが抜けていく。ほんの少しだけ、名残惜しいと思ってしまった自分に、アエラは内心で困ってしまう。
「じゃあ、また明日ね」
アルシオは穏やかに笑った。柔らかくて、少しだけ甘い笑い方。その顔を向けられると、胸が変に熱くなる。
「……うん。また、明日」
アエラが小さく返すと、アルシオは満足そうに目を細めた。その横で、レックスが深々と息を吐く。
「送ったぞ。俺らも帰るぞ」
「うん」
アエラは思わず小さく笑ってしまう。
「レックスも、ありがとう」
「おう」
相変わらずぶっきらぼうな返事に、アエラの口元がまた緩む。ガゼボに着いた時、レックスも少し驚いた様子だったのを、アエラは横目で見ていた。きっとアルシオの用意周到さに呆れていたんだろう。それでも、何も言わずに少し離れた位置で見守ってくれていた。
「ちゃんと眠るんだよ」
「……あなたもね」
扉がゆっくり閉まる。最後に見えたのは、穏やかに微笑むアルシオだった。
「……本当に、ずるい人」
小さく呟いたその声は、少しだけ幸せそうだった。




