第九章-3 受け止める自信
その夜、アエラは貴賓室で静かに過ごしていた。ユリウスはルークと晩酌をするのだと、出ている。今は昼間の茶会で交わされた言葉も、微笑みも、もう遠いもののように感じる。侍女たちが、寝室を整えるため、動いている傍ら、窓辺に腰掛けたアエラは、膝を抱えるようにして、夜の庭園を眺めていた。雪が松明の灯りを照り返し、遠くの輪郭も見えている。均整の取れた植え込み。静かで、美しくて、そして少しだけ息苦しい。
今日の茶会は、うまくやれたのだろうか。感情的にはならなかったと思う。エストリアを貶されても、女が前へ立つことを笑われても、真正面から怒りをぶつけたりはしなかった。でも、譲れないところは退かなかった。アルシオが誰かを支えることを、下の立場のように言われるのは嫌だった。エレオノーラを利用するような言い方も、許したくなかった。だから、言い返した。あれが正しかったのかは、分からない。アリーシャは最後まで、自分への評価を口にしなかった。ただ静かに見ていた。それが余計に、アエラには難しかった。
「……どう思われたのかな」
小さく呟く。強すぎると思われただろうか。皇国には合わないと思われただろうか。それとも、アルシオの隣へ立つには適さないと。胸の奥が少しだけ苦しくなる。
皇国訪問は、あと二日。明日は市街への視察。その後には、皇族たちとの内輪の晩餐にも招かれている。ちゃんと出来るだろうか。アルシオとの婚約を、認めてもらえるだろうか。そこまで考えて、アエラはぎゅっと唇を噛んだ。
「……認めてもらえなかったら」
その先を、考えたくなかった。アルシオはきっと、自分を選ぼうとしてくれている。歓迎会で、あれだけ堂々と、背へ手を添え続けた。噂になることも分かっていて、隠そうともしなかった。彼だってもう後には引けない。だからこそ怖かった。恋だけでは越えられないものがある。
アエラは窓硝子に映る自分を見た。皇国の未来へ迎え入れられるかもしれない存在としては、まだあまりにも不確かだった。
「……怖いな」
正直に認めると、少しだけ肩の力が抜けた。怖いけれど、逃げたくはない。アエラがそっと窓へ額を預けた、その時だった。
こつん。
小さな音が、窓硝子を鳴らした。
「……?」
顔を上げる。気のせいかと思ったが、すぐにまた、こつん、と軽い音が響いた。ここは二階だ。怪訝に思いながら窓辺へ寄り、下を覗き込んだ瞬間、アエラは目を見開いた。
「……は?」
庭の木陰に、アルシオが外套を着て立っていた。その隣にはレックスもいる。腕を組み、いかにも不本意そうな顔でこちらを見上げていた。どうやら小石を窓へ当てていたらしい。アエラは慌てて窓を開くと、冷たい外気が頬を刺した。アエラは声を潜めた。
「何してるの?」
アルシオは少しだけ困ったように笑う。
「リーナが気になって、こっそり見に来た」
あまりにも自然に言われて、アエラは一瞬言葉を失った。
「……あなた、皇子殿下よね?」
「うん」
「その自覚ある?」
「あるよ」
「ある人は、夜中に貴賓室の窓へ小石投げたりしないのよ」
下でレックスが深々とため息をついた。
「俺もそう言った」
「でしょうね!」
思わず返すと、アルシオはなぜか少し楽しそうに笑っている。その顔を見た瞬間、アエラの胸の奥に張りついていた重さが、少しだけほどけた。
「……本当に、何しに来たの」
今度は少しだけ声が柔らかくなる。アルシオは夜の庭に立ったまま、真っ直ぐアエラを見上げた。雪が薄く積もった庭には、木陰とは言え二人の姿が濃く影を落としている。
「顔が見たかった」
アエラの胸がきゅっと鳴る。
「もう……、やめてよ。急にそんなこと言うの」
アエラは額を押さえた。するとアルシオが、少しだけ声を落とす。
「少し、出られる?」
「何言ってんの」
アエラは即答した。
「ここ、二階よ。下に降りるには回ってこないといけないもの。わたし、一応貴賓なのよ。お供も連れずに行けるわけないでしょ」
「飛び降りればいい」
「……は?」
「受け止めるから」
一瞬、本気で言葉を失った。
――はぁ!?
「馬鹿なの!?」
声を抑えようとしても、怒りと動揺は隠せない。下でレックスが額に手を当てたのが見えた。
「おい、顔見るだけのはずだろ」
レックスの苦言は聞き流された。アルシオは穏やかな顔のまま見上げてくる。
「大丈夫だよ。僕が受け止める」
「そういう問題じゃないわ!」
二階から地面までは当然距離がある。アルシオが真下にいるとはいえ、受け止め損ねたら、お互いが怪我をしてしまう。ここから飛び降りるなんて、恐ろしかった。どう考えても常識外れだ。けれど、下から自分だけに向けられるアルシオの微笑みを見ていると、どうしても拒み切れない。腹立たしいことに、アエラはあの優しい顔に弱かった。昨日から、アルシオは何か箍が外れている気がする。歓迎会で背中の手を離さなかった時も、貴賓室で抱きしめてきた時も。そして、こういう時のアルシオは譲らない。
アエラはしばらく睨んでいたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……落としたら絶対許さないから」
「うん」
「本当に受け止めてよ」
「もちろん」
部屋には侍女がいる。彼女らには申し訳ないが、外へ出ると告げたところで反対されるのは目に見えている。しかも、窓から飛び降りるなど、淑女のすることではない。申し訳ないとは、思いつつアエラは窓枠へ手をかけた。ドレスの裾を押さえながら、そろそろと外へ身を乗り出す。夜風が足元を撫で、あらためて高さがあることに心臓が縮こまった。下では、アルシオが両腕を広げている。その顔があまりにも優しい顔をしていて、逆に腹が立った。
「アエラ様!?」
「……ごめんなさい!」
侍女らが驚いた声を上げたのを後ろに聞きながら、意を決して壁を蹴る。一瞬、身体が宙へ浮いた。次の瞬間、強い腕がしっかりとアエラを抱き止めていた。
「……っ」
衝撃はあった。けれど痛くはない。アルシオの腕に包まれている。
「ね。大丈夫だった」
その一言で、アエラの理性が戻った。
「大丈夫じゃないわよ!」
小声で睨みつける。
「本当に馬鹿!信じられない!」
アルシオはなぜか少し嬉しそうだった。その横で、レックスが呆れきった顔で窓を仰ぐ。そこには、アエラの侍女が慌てて、窓下を覗いているところだった。
「……アエラ嬢の侍女方、驚かせて申し訳ありません。少しだけ、アルシオ殿下にアエラ嬢のお時間をいただきたい。すぐお戻りいただくので、そのままお待ちいただけますか?」
その声色は抑えているが、二階まではしっかり届いたようだ。相手が第一皇子である以上、強く制止することもできず、侍女たちは青ざめたまま窓辺に立ち尽くした。
アルシオはアエラを抱えたまま、いつまでも降ろさない。不思議に思ってアエラはアルシオに問いかける。
「……もう離していいわよ」
「うん」
そう返事をしながら、アルシオは降ろさない。
「アルシオ?」
アルシオは答えない代わりに、にこりと笑う。あ、なにか企んでいる、と思った矢先だった。アルシオは不意にアエラの唇へ口付けた。
「!」
「こっち」
アルシオは何事もなかったかのように、庭園の奥へ視線を向けた。そこには、小さなガゼボがあった。アルシオはそっとアエラを降ろすと、前もって用意していたのか、外套をアエラにかけた。
「はい。冷えるといけないから」
そう言って、布に包んだ温石を手渡す。ベンチには毛皮を敷き、自分がそこへ座ると、脚の間にアエラを座らせた。
「!!」
アエラは思わず思考が止まっていた。
「アルシオ!?」
外套や、温石まではいい。正直、夜の冬空は寒かった。だが、アルシオの脚の間に座らされるのは、想定外だ。慌てて立ち上がろうとするが、アルシオの腕がアエラを逃さない。
「ダメだよ。寒いから、しっかりくっついて?」
アルシオは自分の外套の中に、アエラを閉じ込めるように抱きしめた。恥ずかしくて、バタバタとしても、アルシオは動じない。アエラはもう抵抗する気力が失せてしまった。何を言っても、何をしてもアルシオが喜ぶだけだ。確かに、ぴったりと抱きしめてもらっていると、じんわりと暖かい。少し離れた場所では、レックスが腕を組み、周囲へ目を配っている。
「……もういいわ。好きにして」
「うん」
「こんなの皇子のすることじゃないわ。あらかじめ用意していたのね。しかも、窓から飛び降りろなんて、もし怪我でもしたらどうするのよ」
「それは、受け止める自信があったから」
「そういう問題じゃない!」
小声で怒ると、アルシオはまた少し笑った。夜の庭は静かだった。遠くで枝から雪の落ちる音がした。王城の灯りは回廊の向こうにあり、ここだけが少し別の時間に切り離されたように幻想的だった。しばらく、二人は何も言わなかった。やがてアルシオが、静かに口を開いた。
「……茶会、どうだった?」




