第九章-2 互いの敬意
「ですが、本当に残念ですわ」
クラリスは、どこかため息混じりに微笑んだ。
「エレオノーラ様ほどのお方でも、殿下のお心に寄り添うことは出来なかったんですものね」
「っ!」
エレオノーラが言葉に詰まる。けれどクラリスは止まらなかった。
「だって、皆そう思っておりましたでしょう?」
令嬢たちを見渡す。
「エレオノーラ様は、幼い頃から皇国の礼を学ばれ、教養も品格も備えておられる」
それは、事実だった。アエラにも分かる。皇国の空気に自然に溶け込むような、静かな気品がある。
「もし殿下のお隣に立たれるなら、これほど安心できる方はいないと、皆思っておりましたのに」
クラリスはそこで、初めてアエラへ視線を向けた。
「そのようなお方ですら届かなかったのに、突然異国から来られた方が殿下のお隣に立たれるのでは、周囲が戸惑うのも、無理はないのではなくて?」
柔らかな声。けれど、今度ははっきりと向けられた刃だった。
「皇国の礼も、文化も、歴史も、まだ知らないことばかりでしょう?」
「クラリス様」
エレオノーラがもう一度制止しようとする。だがクラリスは続けた。
「もちろん、アエラマリーナ様が悪いわけではありませんの。ただ……」
扇が、ゆっくりと閉じられる。
「殿下のお隣という場所は、あまりにも重いものですから」
アエラの胸の奥に、再び静かな怒りが広がった。クラリスは、エレオノーラを利用している。そのことが、アエラには何より腹立たしかった。アエラはゆっくりと顔を上げる。翠の瞳が、まっすぐクラリスを見た。
「……エレオノーラ様が、どれほど素晴らしい方かは、わたくしにも分かります」
静かな声だった。クラリスがわずかに目を細める。
「教養も、礼節も、お心遣いも。それを身に着けるまでに、どれほど努力を重ね、どれほどの時間を費やしてこられたのか、わたくしには到底量りきれません」
それはお世辞ではなく、本心だった。
「ですが」
そこで、アエラの声がほんの少しだけ低くなる。
「それほどの方を周囲が勝手に“及ばなかった方”であるかのように語るのは、僭越ではありませんか。エレオノーラ様のお名前を、わたくしを貶めるために使わないでくださいませ」
卓の空気が止まった。クラリスの笑みが固まる。アエラは視線を逸らさない。それに、エレオノーラはこの場にいる令嬢たちとは違う。アルシオを第一皇子としてではなく、アルシオ自身を慕っている。そう、アエラに告げた。彼女は同じ男性を想う一人の女性なのだ。クラリスは、扇を握る指先に力を込めた。
「そんなつもりはありませんわ!……そういえば、エレオノーラ様はアルシオ殿下の一年下の学年になるのですよね」
強引に話題を変えるように、クラリスはエレオノーラへ視線を向けた。
「エクシオ殿下とも、親しくされていたのですか?」
エレオノーラは一瞬だけ戸惑い、それでも静かに答える。
「ええ。クラスが一緒でしたし、よくしていただいております」
「お茶をご一緒されたとか」
クラリスの目が、細く笑う。
「殿下方に挟まれるなんて、羨ましいですわぁ」
「そんなつもりは……」
「学年が違えば、なかなかアルシオ殿下とはお近づきになられないのかしら」
その言葉に、エレオノーラは静かにカップを置いた。
かすかな音が、妙に響く。
「……クラリス様」
藍色の瞳が、まっすぐ向けられる。
「わたくしは、アルシオ殿下に近づくために学園へ通っていたわけではありません」
声音は穏やかだった。けれど先ほどまでより、明確に冷えている。
「学園では、皆それぞれの立場と目的を持って学んでおります」
クラリスが少しだけ表情を強張らせる。
「それを、どなたに近づくためなどと語るのは、共に学んだ方々への侮辱ですわ」
空気が止まる。アエラは、思わずエレオノーラを見た。エレオノーラは怒鳴らない。けれど今、はっきり怒っていた。静かな怒りだった。張り詰めかけた空気を変えるように、別の令嬢が慌てたように口を開いた。
「そ、そうですわ。エレオノーラ様は、創設祭の折にも、来賓方の前で堂々と振る舞っておいででしたものね」
その言葉に、何人かが安堵したように頷く。
「ええ。とても美しかったですわ」
「皇国の令嬢として、本当に申し分なく……」
「ご挨拶も完璧でしたもの」
今度は露骨な悪意ではない。けれど、“皇国らしさ”を並べ立てることで、またアエラとの差を浮かび上がらせようとしている。アエラは、その空気を感じ取った。エレオノーラもきっと気づいている。けれど彼女は、困ったように少しだけ目を伏せた。
「わたくしは、ただ学園の一員として務めを果たしただけですわ」
「まあ、ご謙遜を」
クラリスが柔らかく笑う。
「やはり、幼い頃から皇国の礼を身につけておられる方は違いますわ」
その視線が、またアエラへ向く。
「異国から来られた方には、なかなか難しいことでしょうけれど」
アエラは、静かに息を吸った。露骨な挑発だった。けれど、ここで感情的になれば終わる。アエラはゆっくりとティーカップを置いた。
「確かに、わたくしは皇国で育っておりません」
穏やかな声だった。
「ですから、知らないことも多いですし、学ばなければならないことも沢山あります」
令嬢たちが静かに耳を傾ける。
「けれど、だからこそ、学びたいと思っています」
クラリスの笑みが、わずかに揺れる。
「皇国の礼も、歴史も、文化も。わたくしにとっては新しいものばかりです」
そこで、アエラは静かにエレオノーラへ視線を向けた。
「ですから、創設祭の時のエレオノーラ様のお姿は、わたくしの印象にも強く残っております」
突然話を向けられ、エレオノーラがわずかに目を見開く。
「来賓の方々へ自然に気を配りながら、決して出過ぎず、けれど場を支えておられた」
アエラは微笑んだ。
「とても素敵でしたわ」
その言葉に、エレオノーラの藍色の瞳が静かに揺れる。お世辞ではない。本当にそう思ったからこその声音だった。アエラは続ける。
「わたくしには、まだ出来ないことばかりです。だから、学ばせていただきたいと思っています」
その返しは、クラリスたちの思惑を静かに外していた。エレオノーラを尊敬し、学ぶ相手として扱ったのだ。クラリスは扇を持つ指先に、わずかに力を込めた。
*
茶会が終わる頃には、窓の外の陽射しも少し傾き始めていた。令嬢たちは順にアリーシャへ礼を取り、それぞれ退出していく。クラリスも最後まで優雅な微笑みを崩さなかったが、その目には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
アエラも礼を終え、小サロンを出ようとしたところで、不意に呼び止められた。
「アエラマリーナ様」
振り返ると、エレオノーラが立っていた。淡い瑠璃色のドレスの裾を乱さず、背筋を伸ばしたまま。けれど茶会の最中よりも、その表情はいくらか柔らかかった。
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
二人は庭園へ続く回廊の端へ移った。まだ人の気配はあるが、声を落とせば他には届かない距離だった。先に頭を下げたのは、エレオノーラだった。
「先ほどは、ありがとうございました」
アエラは目を瞬かせる。
「それは、こちらの台詞です。エレオノーラ様が止めてくださらなければ、わたしは……」
言いかけて、少しだけ言葉を詰まらせる。母のことを問われた瞬間の、胸の奥が凍るような感覚が、まだ少し残っていた。エレオノーラはその続きを急かさなかった。
「語りたくないことに触れられるのは、苦しいものですわ。だから、止めただけです」
「それでも、助かりました」
アエラはまっすぐに頭を下げた。
「ありがとうございます」
エレオノーラは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。
「では、お互い様ですわね」
「お互い様?」
「アエラマリーナ様も助けてくださいましたでしょう」
アエラは息を呑む。
「……あれは、本当にそう思ったからです」
エレオノーラは穏やかに頷いた。
「けれど、嬉しかったのです。わたくしは長く、周囲から勝手に“相応しい令嬢”として見られてきました。もちろん、それを誇りに思う気持ちもございます。けれど……時々、自分自身ではなく、役割だけを見られているように感じることもありました」
エレオノーラもまた、周囲が作った理想の中へ押し込められてきたのだ。
「わたくし、本当にアルシオ殿下をお慕いしておりました」
不意に告げられた言葉に、アエラの胸が小さく鳴った。エレオノーラは慌てるでもなく、ただ淡く微笑んだ。
「とはいえ、何かがあったわけではありません。殿下はいつもお優しく、礼儀正しく接してくださった。それだけです。わたくしが、勝手にお慕いしていただけ」
その声音に、恨みはなかった。ただ、少しの切なさだけがあった。
「だからこそ、歓迎会で分かりました。殿下がアエラマリーナ様へ向けるお顔は、わたくしが知っているものとは違いました」
アエラは何も言えなかった。
「悔しくなかった、と言えば嘘になります」
エレオノーラは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「けれど、今日の茶会で分かりました。殿下が貴女を選ばれた理由が」
「……わたしは、まだ選ばれたなんて言える立場では」
「それでも、殿下のお心はもう決まっているのでしょう」
柔らかいのに、逃げられない言葉だった。アエラは頬に熱が上るのを感じながら、視線を少し逸らす。エレオノーラは少しだけ楽しそうに微笑む。
「殿下は、とてもお優しい方です。けれどその優しさゆえに、自分のお気持ちを後回しになさるところがあるのでしょう?」
「そう、ですね」
恋敵と呼ぶには、あまりにも静かで。友人と呼ぶには、まだ少し痛みがあった。けれど、互いを軽んじることはできなかった。アエラは改めて、エレオノーラを見つめる。
「エレオノーラ様は、本当に素敵な方です」
「そのように言われると、少し困りますわ」
「本心です。わたしにはまだ出来ないことを、たくさん持っていらっしゃる」
「でも、アエラマリーナ様も、わたくしには出来ないことがおありです」
エレオノーラは、静かに言った。
「だから、尊敬しています」
その言葉は、アエラの胸に深く届いた。アルシオに選ばれた側と選ばれなかった側。それは確かだ。けれど今ここにいる二人は、ただその立場だけで向かい合っているのではなかった。
「ありがとうございます。わたしも、エレオノーラ様を尊敬しています」
エレオノーラは少しだけ驚いたように目を見開き、それから、今まででいちばん柔らかく笑った。
「では……わたくしのことは、どうぞエレオノーラとお呼びくださいませ」
「もちろん! エレオノーラ」
アエラは頷いた。
「ありがとうございます。アエラ先輩」
「ええ」
二人は、静かに微笑み合った。




