第八章-4 慣れなくていい
その様子を、少し離れた場所から見ている者たちがいた。女皇アリーシャ、王配ルーク。そして、エストリア共和国首相ユリウスである。広間へ戻ってきたアルシオは、アエラの背に手を添えたままだった。エスコートとして不自然とまではいえないが、腰より少し高い位置に添えられたその手は、広間へ戻ったあとも離れない。彼女がただの貴賓ではないことを、アルシオ自身が言葉ではなくその手で主張していた。その意味を、この場の貴族たちは皆、理解していた。もちろん、アリーシャも。
「おやおや」
ユリウスが、どこか愉快そうに目を細める。
「皇子殿下も、意外に大胆な行動をなさいますね」
「本当に」
アリーシャは小さく息を吐いた。視線の先では、アエラがわずかに頬を染めながらも、背筋を伸ばしてアルシオの隣を歩いている。向けられる視線は決して柔らかなものばかりではない。けれど、俯いてはいない。
「ユリウス様、申し訳ありません。あの子があのような行動を。……よほど、アエラ様が特別なようです」
謝罪の形を取りながらも、アリーシャの声に強い咎めはなかった。あるのは、母としての驚きと、女皇としての重みだ。ユリウスは肩をすくめるように笑った。
「私としては、二人に口を出す気はありませんよ。二人が覚悟を決めたのであれば、親は応援するだけですから」
それから、少しだけ声を落とす。
「ただ……陛下のお立場から言えば、そうは言えないでしょうが」
アリーシャはすぐには答えなかった。広間の視線は、まだ二人に集まっている。好奇。嫉妬。探るような目。そして、わずかな敵意。それでもアルシオは、アエラの背に手を添えたまま離れない。その姿を見て、アリーシャの胸に、かすかな痛みと誇らしさが同時に広がった。
「あの子は、普段はあまり自分の望みを表に出しません」
ぽつりと、アリーシャは言った。
「けれど、あの顔は……きっと、もう覚悟の上なのでしょうね」
隣で黙っていたルークが、静かに視線を細める。
「……アエラ嬢を守ってるんだな」
低い声だった。ユリウスがそちらを見る。
「王配殿下には、そう見えますか」
「ええ」
ルークは、広間の中央へ目を向けたまま答える。
「全ての視線を己に向けて、彼女のそばで守っているんだろう」
アリーシャは、そっと目を伏せた。その言葉で、胸の奥にあったものが形を持つ。あの子は、アエラを守ろうとしている。皇子として。そして、一人の少女を愛する少年として。
「少し安心しました」
ユリウスが静かに言った。
「安心、ですか?」
「ええ。殿下が、ちゃんと娘を守ろうとしてくれているので」
その目が、ほんの少し父のものになる。
「うちの娘は強い子ですが、それでも傷つかないわけではありませんから」
アリーシャは静かに頷いた。
「ええ」
アエラマリーナ・アルタイル。最初に名を聞いた時は、聡明で、少々奔放な令嬢なのだろうと思っていた。けれど、実際に会ってみれば、その認識はすぐに改められた。歓迎会が始まってからの彼女は、見事だった。ユリウスの隣に立ちながら、ただ父の影に隠れているわけではない。問われれば答え、踏み込みすぎることはせず、けれど曖昧に逃げることもしない。皇国貴族たちの探るような言葉にも、首相令嬢として十分に応じていた。外交の場での立ち方を知っている。視線の受け方も、言葉の返し方も、年齢を思えば十分すぎるほどだった。
けれど、アルシオの前に立った時だけ、彼女は年頃の少女の顔になる。ほんの少し呼吸が乱れる。視線がやわらかくなる。アルシオの何気ない一言に頬を染め、少し拗ねたように唇を尖らせる。
その変化が、アリーシャには微笑ましくもあり、少し眩しくもあった。そして何より――変わっているのは、アエラだけではなかった。
アリーシャは、息子を見る。アルシオは昔から、自分を抑えることに慣れすぎていた。第一皇子として。王家らしくない色を持つ子として。周囲の視線を知り、幼い頃から求められる皇子であろうとしていた。感情を表に出しすぎない。望みを押し通さない。周囲を困らせない。そうやって、自分の意思を静かに飲み込むことに慣れてしまった。家族の前ですら、時々驚くほど聞き分けが良かった。
もちろん、ルークも自分も、あの子を誰より愛して育てた。けれど、それでもあの子はどこかで、己を引く癖を身につけてしまったのだ。そんなアルシオが、アエラの隣では驚くほど表情を変える。少し意地悪そうに笑う。困ったように目を細める。彼女に触れる時は、嬉しそうに微笑んでいる。あんな顔を、家族の前ですらあまり見せない。まして、人前では。
――ああ。痛いほど、分かってしまう。アルシオは、あの子を特別に思っている。守りたいと思っている。隣に立たせたいと望んでいる。そしてきっと、彼女の前では、第一皇子ではなくアルシオでいたいのだ。
「……よい方ですね、アエラ様は」
アリーシャが静かに呟くと、ユリウスは少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに笑う。
「ええ。少々、気が強すぎるところはありますが」
「そこも含めて、なのでしょう」
ルークが低く言った。アリーシャとユリウスが、同時に彼を見る。ルークは淡々と続けた。
「アルシオには、あれくらい真っ直ぐな相手の方がいい」
その声音は静かだったが、父としての確信があった。アリーシャはふっと笑う。
「あなたがそう言うなら、きっとそうなのでしょうね」
けれど、微笑みはすぐに少しだけ静まった。母としてなら。個人的な思いとしてなら。アリーシャは、もうアエラを認めていた。アルシオを見る目に打算がないことくらい分かる。アエラは、アルシオを第一皇子としてだけ見ているのではない。黒髪でも、茶の瞳でも、王家の色を持たなくても、ただアルシオとして見ている。それが、アリーシャには嬉しかった。
けれど――女皇としては、まだそれだけでは足りない。アルシオの隣に立つということは、彼を愛するだけでは済まない。皇国の血統を重んじる者たちの視線に晒される。王家の色をめぐる囁きに巻き込まれる。時には、今夜のような悪意を向けられる。そしてそのたびに、感情のままに怒ることは許されない。だからこそ、次を見なければならない。
明日は、皇国の令嬢を招いての茶会を予定している。そこへ、アエラを招く。晩餐や舞踏よりも柔らかく見えて、時にもっと鋭い言葉が交わされる女の場所。皇国の令嬢たちに囲まれた時、アエラがどう立つのか。正面から試された時、どう微笑み、どう受け答え、どう踏みとどまるのか。そして、アルシオの隣に立つという意味を、恋ではなく責任として理解しているのか。それを、見届けなければならない。
個人的な好意だけで、息子の未来を決めることはできない。けれど、胸の奥ではもう願っていた。どうか、あの子が乗り越えてくれますように。どうか、この国の重さに飲み込まれませんように。そして――どうか、アルシオの隣で笑っていてくれますように。ユリウスが、グラスを軽く持ち上げた。
「では、今夜はひとまず、若い二人の勇気に」
アリーシャは微笑み、ルークもわずかに口元を緩める。けれど、その目はまだ油断なく広間を見ていた。あの子たちは今、自分たちで選び始めている。ならば、親として、そして王としてその選択が折られぬよう、見届けなければならない。
*
歓迎会が終わる頃には、広間の熱も少しずつ引いていた。ユリウスはまだアリーシャやルークと話があるらしく、アエラだけ先に貴賓室へ下がることになった。
「では、アエラマリーナ嬢は私が」
アルシオがそう申し出ると、ユリウスは少しだけ目を細めた。
「頼みますよ、皇子殿下」
その声音に含みがあった気がして、アエラは父を睨みたくなった。けれど、今はもうそんな余力もない。回廊を歩く間、アエラは最後まで背筋を伸ばしていた。貴賓室の扉が閉まり、外の気配が遠ざかる。その瞬間だった。
「あー! 疲れたー!」
アエラは大きく息を吐きながら、両腕を広げるようにしてソファーへ倒れ込んだ。先ほどまでの首相令嬢の顔は、もうどこにもない。背筋を伸ばし続けていた反動なのか、ぐったりとクッションへ沈み込んでいる。壁際に控えたエストリアの侍女たちが動じていないのを見て、これが普段通りのアエラなのだろうと、アルシオは思わず小さく笑った。
「お疲れ様。リーナ」
「本当に疲れたわ……皇国の社交界って、ずっと微笑んでないといけないのね」
「それは、どこの社交界でも同じじゃないかな」
「そうだけど。皇国は特に、微笑みの裏に刃物が見えるのよ」
「……それは否定しづらいね」
アエラはクッションを抱きしめたまま、じとりとアルシオを見る。
「今更ながら、アルシオってすごいわね。ずっと微笑んでて疲れない?」
「うーん」
アルシオは少し考えるように首を傾げた。
「もう染み付いてるしね」
何気ない言い方だった。けれど、アエラの表情が少し曇る。
「……染み付いてるって、皇子として振る舞うこと?」
アルシオは淡く笑った。
「幼い頃からそうだったから。微笑むべき時に微笑んで、黙るべき時に黙って、相手が欲しい言葉を返す。そうしていれば、大抵の場は穏便に過ぎる」
その声音は穏やかだった。でも、アエラの胸には重く落ちる。
「それ、疲れるでしょう」
「慣れるよ」
「慣れなくていいのに」
思わずそう返すと、アルシオは少し目を瞬いた。アエラはクッションへ顔を半分埋めながら、小さく息を吐く。
「……今日は、本当に腹立ったんだから」
「うん」
「黒髪とか、茶色の目とか……そんなの、あなたの一部でしかないのに」
アルシオは何も言わなかった。アエラはソファーから体を起こした。
「もう少し、きつく睨んでやるんだったわ」
その時だった。後ろから、ふわりと腕が回された。
「……っ!」
アエラの肩が跳ねる。
「ちょ、アルシオ!?」
驚いて振り返ろうとするけれど、アルシオはそのまま後ろからぎゅっと抱きしめる。まるで離したくないみたいだった。背中に感じる体温が近い。耳元に落ちる息がくすぐったくて、アエラの顔が一気に熱くなる。
「リーナが怒ってくれたから」
アルシオの声は静かだった。
「悲しかったんだなって、気づいたよ」
本当は、あの場で自分の色を貶されたこと、少し恥ずかしくてアエラに聞かせたくなかった。アエラ自身のことも貶していたし、彼女たちから遠ざけたかったのもある。だが、アルシオ自身、傷ついていたことを気付かされた。
そして、その言葉に、アエラの身体から少しずつ力が抜けていく。アルシオは、悲しかったことにすら、気づいていなかった。それほど長く、幼い頃から晒され続けていたのだ。傷つくことすら、後回しになっていた。アエラはそっと、自分の前に回されたアルシオの腕へ手を重ねる。
「……慣れなくていいのに」
「うん」
「悲しいなら、悲しいって思っていいのに」
「うん」
返事は短い。けれど抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもった。その弱さが、アエラにはたまらなく愛しかった。
「リーナ」
「……何?」
「リーナは可愛くて、かっこいいよ」
アエラの思考が止まる。
「……え?」
「大好きだよ」
耳元で、あまりにも真っ直ぐに言われた。次の瞬間、アエラの顔が一気に熱くなる。
――だから急にそんなこと言わないでよ!
心の中で叫ぶ。
なんなの!?急に素直になりすぎなのよ!
振り返れない。絶対、顔を見られたくない。アエラは真っ赤なまま唇を引き結び、必死に平静を保とうとした。
「……あなたね」
「うん」
「そういうことは、もう少し、段階を踏んで……」
「そうなの?」
「そうよ!」
思わず声が大きくなる。すると背後で、アルシオが堪えきれないように笑った。
「……なんか、絶対楽しんでるでしょう」
「そんなことないよ」
「嘘」
即答すると、アルシオはまた小さく笑う。リーナの反応が、あまりにも可愛くて、驚いた顔も、怒った顔も、もっと見てみたくなる。だから、ついいじめたくなってしまう。そんなことを言ったら、本気で怒られそうだ。
「でも、リーナを怒らせるの、結構楽しいかも」
「アルシオ!」
案の定、怒られてしまった。
「あはは!」
アルシオはとうとう声を出して笑ってしまった。その笑い声と砕けた笑顔に、アエラは目を丸くする。歓迎会では、完璧に皇子として振る舞っていた。穏やかに微笑み、丁寧に言葉を返し、誰にも隙を見せなかった。けれど今、後ろから自分を抱きしめて笑っているアルシオは、なんなのだ。そのギャップが、悔しいくらい愛おしい。
「……本当に、ずるい」
「うん」
「そこは否定しなさいよ」
「した方がいい?」
「……もういいわよ!」
拗ねたように返すと、アルシオの腕が少しだけ緩む。
「……ねぇ、リーナ」
不意に呼ばれて、アエラは反射的に振り向いた。
「な――」
言葉の続きは、柔らかな感触に奪われた。アルシオの唇が、軽くアエラの唇へ触れる。
「……っ」
一瞬だった。触れて、すぐに離れる。けれど、あまりにも不意打ちだったせいで、アエラの思考は完全に止まった。目の前には、ほんの少しだけ目を細めたアルシオがいる。
「今のは怒らないんだ」
静かな声だった。アエラは数秒遅れて、ようやく意味を理解する。
「~~~っ!!」
顔が一気に熱くなる。
「アルシオ!!」
壁際に控えていた侍女の一人が、驚いたように肩を震わせた。けれど、すぐに何も見なかったかのように視線を伏せる。
「だめだった?」
「何するのよ!」
アエラは真っ赤な顔のまま叫ぶ。
「普通、確認してからするものでしょう!?」
「確認したらいいの?」
「え!?そっ、それは――」
アルシオが小さく笑う。
「……もう知らない!」
顔を覆いながら吐き捨てると、アルシオは少しだけ困ったように笑った。
「ごめん」
「絶対反省してないでしょ」
「うん」
「もう!」
アエラが睨むと、アルシオはまた笑い声を堪えられなかった。その笑い声が、あまりにも楽しそうで。アエラは怒るべきなのに、胸の奥が温かくなるのを止められなかった。




