第八章-3 今度は僕の番だよ
日が暮れ始める頃、アルシオは貴賓区画へ向かった。歓迎会の準備はすでに整っている。大広間には灯りが入り、楽師たちも控えている頃だろう。王城の廊下には、昼とは違う静けさが満ちていた。壁に掛けられた燭台の灯が、石床に淡く揺れている。
貴賓室の前に立つと、アルシオは一度だけ小さく息を吐いた。到着時のアエラは、エストリア首相の娘として凛と立っていた。けれど今夜は歓迎会だ。どんな装いをしているのか、考えないようにしていたはずなのに、胸の奥が少し落ち着かない。
扉を叩く。
「アルシオです。お迎えに参りました」
中からユリウスの声が返った。
「どうぞ」
扉を開けた瞬間、アルシオは言葉を失った。貴賓室の中央に、アエラが立っていた。薄い藍色のドレスは、皇国の夜の席に合わせた落ち着いた色合いだった。首元にはきちんと襟があり、礼を失わない意匠になっている。けれど肩から二の腕にかけてはやわらかく露わになり、その上に重ねられた薄布が、灯りを受けて淡く揺れていた。慎ましさと華やかさが、不思議なくらい自然に同居している。胸元から腰にかけては、銀糸の刺繍が水の流れのように施されていた。動くたび、藍色の布地の上に小さな光が走る。耳元には小さなオニキスのイヤリングが揺れ、赤みを帯びた髪と緑の瞳を、いつもより少し大人びて見せていた。
アルシオはしばらく、何も言えなかった。
「……アルシオ?」
アエラが少し不安そうに首を傾げる。その声で、ようやく我に返った。
「あ……ごめん」
「何よ」
アエラの頬が、ほんのり赤くなる。
「変?」
「違う」
アルシオはすぐに首を振った。公の場ではない。貴賓室の中にはユリウスと控えの侍女がいるだけで、少しだけ学園での距離に戻れる。
「すごく綺麗だと思って」
まっすぐ言うと、アエラは一瞬で真っ赤になった。
「っ……そういうことを、急に言わないでよ」
アエラは視線を逸らし、耳元のオニキスが小さく揺れた。
「……ありがとう」
小さな声だった。そのやり取りを、ユリウスが少し離れたところでにこにこと眺めていた。
「いや、若いね」
「お父様」
アエラが低く咎める。ユリウスはそんな二人を見てから、改めてアルシオへ視線を向けた。
「アルシオ殿下も、今夜はずいぶん皇子らしい装いですね」
アルシオは姿勢を正す。今夜の礼装は、皇国の第一皇子としての正装だった。白銀を基調とした上衣には、胸元から袖口へかけて銀糸の刺繍が流れている。肩に掛けた短いマントの裏地には、皇国の色である深紫が覗き、黒の飾り紐が全体を引き締めていた。
「ありがとうございます」
そう答えた時、アエラがこちらを見ていることに気づいた。今度はアルシオの方が少し戸惑う。
「リーナ?」
「……あなたも、よく似合ってるわ」
アエラはそう言ってから、慌てて言い直すように口元を押さえた。
「いえ、あの……よくお似合いです、アルシオ殿下」
そのぎこちなさが可愛くて、アルシオは笑いそうになった。
「ありがとう」
柔らかく返すと、アエラはますます視線を逸らす。ユリウスは相変わらずにこにこしていた。
「さて。そろそろ向かいましょうか。あまりここに長居しても、胸焼けしてしまいそうだ」
「お父様!」
今度こそアエラが声を上げた。アルシオは咳払いをして、扉の方へ一歩下がる。
「では、ご案内します」
貴賓室を出ると、空気はまた少し変わった。廊下には皇国の侍従が控え、歓迎会の会場へ続く道には、灯りが整えられている。ここから先は、私的な言葉ばかりではいられない。
アルシオはユリウスとアエラを大広間近くの控室まで案内した。歓迎会では入場の順も決められている。ユリウスとアエラはエストリア側の賓客として、アルシオとは別に入場することになっていた。
控室の前で、アルシオは足を止める。
「ここで一度、失礼します」
「ええ」
アエラは静かに頷いた。けれどその瞳には、ほんの少しだけ名残惜しさがあった。アルシオも同じだった。今すぐ隣に立って、手を取れたらいいのにと思う。けれど、今はまだその時ではない。
「じゃあ、またあとで……」
思わず、少しだけ学園の時のような声になった。アエラの表情がふっと柔らかくなる。
「ええ。またあとで」
アルシオは小さく頷き、控室の扉が閉じるのを見届ける。それから、ゆっくりと背筋を伸ばした。まもなく、歓迎会が始まる。
歓迎会は、着席の晩餐ではなく立食形式で整えられていた。広間の壁際には、銀の皿に盛られた軽食や果実、淡い色の酒が並べられ、中央には舞踏のための空間がゆるやかに空けられている。楽師たちの奏でる音は、まだ控えめだった。食事と歓談、そして必要に応じて踊るための、やわらかな夜。
けれど、その場に集った貴族たちの視線は、決してやわらかなものではなかった。エストリア共和国首相、ユリウス・アルタイル。その隣に立つ娘、アエラマリーナ。そして、少し離れた場所に立つセレスティア皇国第一皇子、アルシオ。その三者を結ぶ線を、誰もがそれとなく測っていた。
ユリウスの周囲には、すぐに皇国貴族たちが集まり始めた。
「アルタイル閣下。此度のご来訪、誠に喜ばしく存じます」
「学園では、我が国の若者たちも大変世話になっているとか」
「エストリアとの交易についても、いずれ改めてお話を伺いたく……」
言葉は丁寧で、笑みは穏やかだ。けれど、その一つひとつに探りがある。友好、交易、学園、そして未来。ユリウスはそのすべてを、軽やかに受け止めていた。
「こちらこそ、皇国の皆様には良いご縁をいただいています。学園もまだ若い場所ですからね。若者たちがどう育つか、私も楽しみにしているところです」
その隣で、アエラもまた微笑みを崩さずに立っていた。ただ父の後ろに控えるのではない。問いを向けられれば、きちんと答える。踏み込みすぎることはせず、けれど曖昧に逃げることもしない。
「学園では、皇国の方々にも多く助けていただいております。国が違えば考え方も違いますけれど、だからこそ学ぶことが多いのだと思います」
そう答えると、老齢の伯爵が目を細めた。
「若いのに、なかなかしっかりしておられる」
「ありがとうございます」
礼を返しながら、アエラはそっと息を整えた。緊張していないわけではないが、ここで縮こまるわけにはいかなかった。ここは皇国――アルシオの国だ。やがて、いくつかの挨拶が途切れ、ユリウスの周囲の輪が一度ほどけた。アエラがようやく小さく息をついた時だった。
「アエラマリーナ嬢」
聞き慣れた声に振り向くと、アルシオが立っていた。
「少し、息抜きしませんか」
「息抜き?」
「ええ」
アルシオは、広間の中央へ視線を向ける。ちょうど楽の調子が、舞踏向けのものへ変わろうとしていた。
「一曲、お相手いただけますか」
アエラは一瞬だけ目を見開いた。
「ええ。喜んで」
差し出された手に、自分の手を重ねる。その瞬間、周囲の視線がわずかに動いた。アルシオは何事もないようにアエラを中央へ導いた。音楽が始まる。学園の舞踏会で踊った時とは違う。ここには、ただ二人を微笑ましく見守る学友たちはいない。皇国の貴族たちがいる。値踏みする者、探る者、祝福する者、面白くなさそうに眺める者。それでも、アルシオの手は穏やかだった。
「緊張してる?」
「少しだけ」
「珍しいね。いつもは本番に強いのに」
「だって。あなたの国でしょう」
小さく返すと、アルシオはわずかに笑った。
「そうだね。だからこそ、君には無理をしてほしくない」
「無理はしていないわ」
「そう?」
「ええ。少し背伸びしているだけ」
その言葉に、アルシオの目がやわらかくなる。
「それなら、大丈夫そうだね」
何気ない一言だった。けれど、アエラの胸は不意に熱くなった。その一曲は、広間に十分な印象を残した。終わると二人は互いに礼を取り、自然に手を離した。
そこから先は、また社交の時間だった。アルシオは皇国の令嬢たちに誘われ、礼儀正しく数曲を踊る。アエラもまた、皇国貴族の子息たちから申し込まれ、首相令嬢として穏やかに応じた。
しばらくして、アルシオがひとりの令嬢と踊っているのが見えた。銀がかった金髪を結い上げた、美しい令嬢だった。淡い藤色のドレスに、真珠の首飾り。名は、クラリス・アルトハイム。皇国でも名門とされる侯爵家の令嬢だと、先ほど紹介されたばかりだった。
「アルシオ殿下は、本当にお優しいのですね」
踊りながら、クラリスはうっとりとした声音で言う。
「皆様が殿下を見ておりますわ」
「そんなことはありませんよ」
「まあ。そうしてご自分を誇らないところも、素敵ですわ」
アルシオは穏やかに応じている。けれど、胸の奥が少しざわついた。曲が終わるとクラリスは名残惜しそうに礼をし、令嬢たちの輪へ戻っていった。
アエラは壁際で、給仕から葡萄水の入ったグラスを受け取ろうとしていた。その時だった。
「でも……本当に惜しいですわよね」
聞こえてきた声に、指先が止まる。先ほど、アルシオと踊っていたクラリスの声だった。
「アルシオ殿下は、お優しくて、ご聡明でいらっしゃるでしょう?」
「ええ。本当に素敵なお方ですわ」
「だからこそ、お色がないのが残念ですわ」
アエラの手の中で、グラスかすかに鳴った。
「皇国の皇子殿下でいらっしゃるのに、黒髪に茶色のお瞳でしょう?もちろん、殿下ご自身は素晴らしい方ですわ。でも……もし、あのお色が子に移ったらと思うと」
クラリスは、扇の陰で小さく笑った。
「ぞっとしますわ」
喉の奥が熱くなった。
「でしたら、エクシオ殿下を望まれればよろしいのでは?」
「エクシオ殿下は第二皇子ですもの。やっぱり第一皇子でないと」
悪びれもない声音だった。その瞬間、アエラは理解した。この人たちは、アルシオを見ていない。第一皇子という立場。権力。次代に繋ぐ血。見ているのは、それだけだ。
アルシオが本当はどんなふうに笑うのかも、少し意地悪っぽいところがあることも、興味のある話になると急に言葉が増えることも、弟や妹の話をすると声がやわらかくなることも、何も知らない。知らないまま、値踏みしている。今すぐ、この飲み物をぶちまけてやりたかった。怒鳴ってやりたかった。アルシオは、そんなふうに語られる人じゃない。けれど、アエラは動かなかった。ここは皇国だ。感情のままに動けば、自分だけでは済まない。アルシオに迷惑がかかる。そう分かっているから、アエラはグラスを卓へ戻した。
彼女たちの話はその後も続く。
「それにしても、よりによって殿下はなぜエストリアのご令嬢を目にかけておられるのでしょうね?」
「本当に。エレオノーラ様なら、私たちもまだ納得できますのに、今日はいらしておられませんし」
「さすがに、今日は来られないんではなくて?」
そう言いながら彼女たちは、笑っている。アエラが隣にいるのに、気がついているはずなのに。わざと聞こえるように言っているとしか思えなかった。
「アエラマリーナ嬢」
その時、背後から声がかかった。振り向くと、アルシオが立っていた。
「どうかしましたか?」
「……なんでもありませんわ」
微笑んだつもりだった。けれど、うまく笑えている自信はなかった。
「そうですか?」
アルシオが少し首を傾げる。その向こうで、令嬢たちが気まずそうに視線を逸らした。――もしかして、アルシオは今の会話を聞いていたのかもしれない。それでも、何事もなかったような顔をして、やり過ごそうとしているのなら、それが、余計に腹立たしかった。
「ねぇ、アルシオ殿下」
アエラは一歩近づいた。
「わたくし、少し疲れてしまったのです。どこか、連れて行ってくださらない?」
そう言って、わざとらしく彼の腕に手を絡める。上目づかいでアルシオを見上げれば、茶色の瞳が驚いたようにわずかに見開かれた。けれどすぐに、穏やかな表情へ戻る。
「……少し、外の空気に当たりに行きますか?」
「ええ。ぜひお願いしますわ」
歩き出す直前、アエラは令嬢たちへ視線を向けた。しかし、その翠の瞳には、はっきりと怒りが宿っていた。
――聞こえていたわ。私は忘れないから。
声には出さなかったが、令嬢たちを一瞥して、アエラはアルシオの腕に手を添えたまま、広間を出た。
回廊を抜け、庭園に面した小さな露台へ出ると、吐く息が白く解けた。広間の楽の音は、今は遠く聞こえている。アエラはしばらく黙っていた。アルシオも何も言わなかった。やがて、アエラはそっと手を離した。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「勝手に腕なんて組んで」
「嫌ではなかったよ」
あまりにも穏やかに言われて、アエラの胸が痛んだ。
「……どうして平気そうなの」
「え?」
「聞こえていたんでしょう」
風が吹き、アルシオの黒髪がかすかに揺れる。彼は少しだけ目を伏せた。
「……まあ、慣れているから」
その言葉に、アエラの中で何かが熱くなる。
「慣れてるって何よ」
声が強くなった。
「そんなの、慣れなくていいじゃない」
アルシオが静かに目を見開く。
「黒髪だから何? 茶色の目だから何? アルシオがどんな人かも知らないくせに……!」
言いながら、声が震えた。
「アルシオは、ちゃんと優しいし、本当は少し意地悪っぽいところもあるし、笑うと可愛いし……!」
そこまで言って、アエラは自分の言葉に気づいた。頬が熱くなる。
「……っ」
顔を背ける。沈黙が落ちた。やがて、アルシオが小さく笑った。からかう笑いではなかった。どこか泣き出しそうなほど、やわらかい笑みだった。
「……ありがとう」
その笑顔をみると、アエラは怒る気が失せていった。
「……怒鳴ってやりたかったわ」
「うん」
「飲み物も、ぶちまけてやりたかった」
「それはやめておいて良かったよ」
少し困った顔を見せるアルシオに、アエラも息を吐く。
「でも、堪えてくれたんでしょ?」
「当たり前でしょう。ここでわたしが騒いだら、あなたに迷惑がかかるもの」
「うん」
アルシオはそっと手を伸ばしてアエラの手を掴んだ。
「戻ろう」
「……でも」
「大丈夫」
その声には、静かな強さがあった。
「今度は、僕の番だよ」
アエラは息を呑む。それから、ゆっくりとその手を握り返した。広間へ戻った瞬間、空気がわずかに揺れた。先ほどよりも明らかに鋭い視線が集まる。扇の陰の囁き。探るような目。アエラはそれを肌で感じて、無意識にアルシオから一歩離れようとする。けれど、その前にアルシオの手がそっとアエラの背へ触れた。腰より少し高い位置にそっと添えられた手。エスコートのための手だけれど、アルシオの手は、アエラの背から離れない。
ざわめきが、静かに広がる。アエラは小さくアルシオを見上げた。
「……殿下」
「大丈夫」
アルシオは穏やかな顔をアエラに向けて言う。
「僕に任せて」
その声音は静かだった。けれど、優しいだけではない。視線を向けてくる令嬢たちへ、はっきりと示している。彼女を一人にはしない。彼女に向けられるものは、自分が引き受ける。アエラの胸が熱くなる。
「……ずいぶん大胆ね」
小さく言うと、アルシオは涼しい顔で返した。
「そうかな」
「そうよ」
「でも、君が先に僕の腕を取ったんだよ」
アエラは思わず睨み上げる。けれどアルシオは、ほんの少しだけ意地悪っぽく笑っていた。その笑顔が、悔しいくらい可愛かった。
「……やっぱり、意地悪だわ」
アエラはまた頬を熱くした。背に添えられた手の温度が、確かにそこにある。広間の視線はまだ痛い。でも、もう一人ではなかった。アエラは背筋を伸ばす。そして、アルシオの隣を歩いた。




