第八章-2 望む人を迎えて
アリーシャは侍従に短く指示を出し、私的なサロンへ移ることになった。暖炉の火が揺れる小さなサロンには、アリーシャとルーク、そしてアルシオだけが残った。控えの者も最低限に下がらせ、扉が閉じられる。先ほどまでの温かな家族の空気が、少しずつ違う重みを帯びていく。アリーシャとルークはソファーに腰を掛け、アルシオは二人の正面に立ったまま向き合った。しばらくしてアリーシャが静かに口を開く。
「さて、話があるのでしょう?」
その声音は穏やかだった。けれど、すでにすべてを見透かしているようでもあった。アルシオは小さく呼吸を整え、答えた。
「はい」
アリーシャの菫色の瞳が、まっすぐに息子を見つめている。アルシオは一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「母様。父様」
声は少しだけ硬かった。けれど、逃げるつもりはなかった。
「アエラマリーナ・アルタイル嬢を、私の伴侶として望んでおります」
暖炉の火が、小さく音を立てた。アルシオはさらに言葉を続ける。
「彼女を皇国へ迎えたい。どうか、認めていただきたいのです」
アリーシャもルークも静かに聞いていた。昨年の時点で、アルシオの胸に特別な存在がいることには、気づいていた。ルークには、それがアエラなのだということもわかっていただろう。けれど今回は違う。アルシオ自身が、アエラを望むと明言した。この言葉の意味は重い。アリーシャは静かに口を開いた。
「アエラマリーナ・アルタイル様、というのね。あなたの特別な方は。エストリア首相、ユリウス様のご息女なのですね」
「はい」
アルシオはまっすぐに頷いた。セレスティア皇国の第一皇子が、エストリア首相の娘を伴侶へと望む。皇族の婚姻相手を他国から迎えるということは、国家間の関係にも直結する。中立を貫いてきたセレスティア皇国が、商業国家エストリア共和国の首相の娘を第一皇子妃として迎えるとなれば、国内の貴族たちだけでなく、ガルデや帝国も必ず何らかの意味を見出すだろう。思惑も、憶測も、噂も飛び交う。アエラマリーナ自身がどれほど優れた人物であっても、その出自だけで利用しようとする者は現れる。
「アルシオ。あなたの気持ちは、分かりました」
「……はい」
「けれど、すぐに認めるとは言えません」
その言葉に、アルシオは静かに息を呑んだ。けれど、目は逸らさなかった。アリーシャは続ける。
「あなたが誰かを望むことを、母としては嬉しく思います。あなたが、自分の言葉でその方を伴侶に望むと言えたことも」
その声はやわらかかった。けれど、紫の瞳に宿る光は揺るがないものになる。
「ですが、女皇としては軽々しく頷けません。アエラマリーナ様ご本人の意思。ユリウス様のお考え。皇国に迎えた後、彼女に降りかかるもの。そのすべてを見なければなりません」
「分かっています」
アルシオは静かに答えた。
「それでも、私は彼女以外を望むことはできません」
そこで、これまで黙っていたルークが口を開いた。
「アルシオ」
「はい」
ルークはただ静かに、息子の奥底を見定めるような声だった。
「アエラ嬢を皇国へ迎えるということは、彼女を守る覚悟があるということだな」
「はい。守ります」
迷いなく答えたつもりだった。けれど、ルークはそこでわずかに目を細める。
「何から守るんだ」
その一言に、アルシオは言葉を詰まらせた。悪意から。噂から。貴族たちの視線から。政治的な思惑から。答えはいくつも浮かんだ。けれど、そのどれもが正しく、同時に足りない気がした。
アエラは強い。誰かに守られているだけの人ではない。きっと悪意を向けられても、正面から跳ね返そうとするだろう。けれど、それだけでは済まない。皇国そのものが。王城のしきたりが。血筋を重んじる古い目が。第一皇子の隣という立場が。あの自由な人の羽を、知らず知らずのうちに奪うかもしれない。
アルシオは、ゆっくりと息を吸った。
「……皇国からも、です」
アリーシャの瞳が、わずかに揺れた。ルークは何も言わない。アルシオは続けた。
「彼女はエストリアの人です。自分の意志で立ち、自分の言葉で進む人です。皇国へ来れば、その自由は必ず試されます。私の隣に立つことで、多くの視線に晒されることになる」
言葉にするほど、胸の奥が痛んだ。
「だから、彼女を守るというのは、ただ害意を遠ざけることではありません。彼女が彼女のまま、皇国で立てるようにすることだと思っています」
暖炉の火が、静かに揺れた。
「私の願いで彼女を閉じ込めたくない。けれど、彼女を望むことを、もうなかったことにはできません」
アルシオはまっすぐに両親を見た。
「彼女が皇国へ来ることを選んでくれるなら、私は、その選択を後悔させない場所を作りたい」
ルークはしばらく黙っていた。その沈黙は長く感じられた。けれど、不思議と責められているようには、感じられなかった。やがて、ルークは静かに言った。
「分かった。だが、それを実際に通すのは簡単ではない。彼女だけではない。お前自身も苦しむことになる」
「はい」
「それでも望むか」
アルシオは迷わなかった。
「望みます」
その答えに、アリーシャはそっと目を伏せた。母としてなら、すぐに手を伸ばしてやりたかった。よく言えましたと、そう抱きしめてやりたかった。
「……アエラマリーナ様に、お会いしましょう」
アリーシャは静かに言った。
「あなたが選んだ方を、わたくしも会ってみたいわ」
「はい」
ルークもまた、小さく頷く。
「話は、それからだな」
厳しい言葉ではなかった。だが、それは確かに、アルシオが次へ進むことを許す言葉だった。
その日のうちに、アリーシャはエストリア首相ユリウス・アルタイル宛ての書状をしたためた。内容は、冬期休暇中の皇国訪問を正式に歓迎するものだった。表向きには、エストリア共和国との友好確認と、来年度以降の交易品目についての意見交換。けれど、その書状に込められたもう一つの意味を、受け取る側が読み違えるはずもない。
書状は早馬でエストリアへ届けられた。返答は早かった。一週間と経たないうちに、ユリウスがアエラマリーナを伴い、皇国を訪れることが正式に決まった。それを受けて、王城の中は静かに慌ただしくなった。エストリア共和国首相が来訪する以上、ただ私的な面会として済ませるわけにはいかない。歓迎の席を設け、外交上の会談も組まれる。交易品目の確認、関税調整の予備協議、名目はいくらでもあった。けれど、王城に仕える者たちの間では、それ以上の意味がひそやかに囁かれていた。エストリア首相の娘が、第一皇子殿下のもとへ、皇国へと訪れる。それが何を意味するのか、考えない者はいなかった。
*
そして、訪問の日。皇都には朝から降り続いた雪が残り、草木や屋根の上などは白く覆われていた。路肩に寄せられた雪を横目に、数台の馬車が王城へと向かっていった。王城の正門をくぐった馬車から、まず降り立ったのはユリウス・アルタイルだった。学園の来賓として見る時とは違い、彼は首相としての装いをまとっていた。エストリアらしい異国風の長衣は、深い緑を基調とし、襟元と袖口には金糸の細かな模様が施されている。皇国の正装とはまるで異なる意匠でありながら、奇をてらったものではない。むしろ洗練され、彼の飄々とした雰囲気の奥にある知性と格を際立たせていた。
続いて、アエラが馬車から姿を見せた。学園での制服姿や舞踏会の華やかなドレスとも違う。今日のアエラは、エストリア首相の娘として、皇国を訪うにふさわしい装いをしていた。深みのある若草色を基調とした訪問着は、首元まできちんと覆う立ち襟の意匠だ。胸元から袖口にかけては、細やかな金糸の刺繍が蔦草のように流れ、動くたびに控えめな光を返す。腰には淡い生成りの帯布が結ばれていた。仕立てはきちんと格式を備えており、華奢なアエラの体を華やかに見せながら、彼女らしい鮮やかさと、場にふさわしい品が絶妙に重なっていた。赤みを帯びた髪は丁寧に結い上げられ、耳元には小さな翠玉が揺れている。
「ようこそおいでくださいました。お久しぶりにございます。ユリウス殿」
ユリウスが、アリーシャとルークに向き直る。
「陛下、王配殿下。此度は歓迎ありがとうございます。急な訪問だったのに、申し訳ない」
ユリウスが軽く頭を下げる。アエラも父に習って頭を下げた。
「とんでもございません。私たちも今回の訪問、楽しみにしておりました」
「お二人に紹介させてください。私の娘、アエラマリーナです」
アエラは一歩前に出て、ドレスの裾を軽く捌き、優雅に礼をとる。耳元の翠玉がゆれて、光を返す。
「セレスティア女皇陛下、王配殿下。お招きいただき、誠に光栄にございます。アエラマリーナと申します」
声は澄んでいた。学園で見せる、奔放で勢いのあるアエラとは違う。けれど、それもまた彼女の一面なのだろう。礼節をわきまえ、場の重さを理解し、そのうえで萎縮しない。アリーシャは静かに微笑んだ。
「ようこそお越しくださいました。アエラマリーナ様」
「お会いできる日を、心待ちにしておりました」
アエラはそう答えた。その振る舞いに乱れはない。ルークの視線も、アエラを静かに見ていた。見定めるような、けれど相手の立ち方を尊重する眼差しだった。アエラはその視線にも怯まなかった。ただ一度、アルシオへ視線を向けた瞬間だけ、違った。緑の瞳が、ほんのわずかに揺れる。その頬に、淡い朱が差した。
「……アルシオ殿下。どうぞよろしくお願い致します」
声はきちんとしていた。けれど、学園で彼を呼ぶ時の柔らかさが、どうしても滲んでしまっている。アルシオもまた、胸の奥が温かくなるのを抑えきれなかった。
「ようこそ、皇国へ。歓迎します。アエラマリーナ嬢」
公の場だから、リーナとは呼ばない。アエラもそれを分かっているのだろう。けれど、ほんの少しだけ唇が綻んだ。
「お招きいただき、ありがとうございます」
ただそれだけのやり取りだった。だが、アリーシャは見逃さなかった。堂々と所作も整っている少女が、アルシオの前でだけ、ほんの少し表情を柔らかくすることを。ルークもまた、何も言わなかったが、静かに目を細めた。ユリウスはその様子を横目で見て、どこか楽しそうに微笑んでいる。
「女皇陛下。急な訪問にもかかわらず、このように迎えていただき感謝いたします」
「ユリウス殿。今宵は歓迎の席を用意しております。その前に、少しお休みくださいませ」
「お気遣い、痛み入ります」
言葉は穏やかだった。けれど、その場にいる誰もが分かっていた。これは単なる友好訪問ではない。皇国の第一皇子が、エストリア首相の娘を望んだ。そして今、その娘は父と共に、皇国の門をくぐったのだ。
正式な挨拶を終えると、アリーシャは控えていた侍従へ目配せをした。エストリアからの一行は、ユリウスとアエラだけではない。従者、侍女、護衛、そして交易に関する書類を携えた文官たちも同行している。彼らのために、王城内には賓客用の一角が用意されていた。
「まずは旅の疲れをお取りください。歓迎の席は、日が暮れてから整えております」
「お心遣い、感謝いたします」
ユリウスは穏やかに礼を返す。アルシオは一歩前へ出た。
「貴賓室まで、私がご案内いたします」
その言葉に、アエラの瞳がわずかに揺れた。けれど彼女はすぐに表情を整え、優雅に礼を取る。
「お願いいたします、アルシオ殿下」
王城の廊下は、学園のそれとはまるで違っていた。高い天井。磨き上げられた石床。壁に掲げられた歴代の皇族の肖像。窓から差し込む冬の光は白く、静かで、どこか冷たい。歩くたび、靴音が長く響く。
エストリアの文官たちや従者たちは、案内役の侍従に従い、整然と後ろを進んでいる。皆、礼節を崩さない。皇国側の侍従や近衛たちも、表向きには完璧な応対をしていた。けれど、アエラは気づいた。廊下の端に控える者たち、通りがかった文官、柱の影に立つ侍従。誰も声には出さない。誰もあからさまに見つめたりはしない。それでも、視線を感じた。
エストリアで向けられる好奇の視線とも、学園で浴びてきた賑やかな注目とも違う。もっと静かで、鋭くて、絡みつくようなものだった。
エストリア首相の娘。第一皇子殿下が望んだ相手。皇族のしきたりになど、馴染むはずがない。そうした言葉が、声にならないまま肌に触れてくるようだった。アエラは背筋を伸ばしたまま歩いた。視線を落とさず、顎を引き、口元には礼儀正しい微笑を残す。けれど、背中に汗が伝うのを感じた。
(思っていたより、じっとりと重いのね)
皇国という国は、静かだ。けれどその静けさの奥に、こちらを値踏みするような圧がある。ふと、アエラは隣を歩くアルシオを見た。アルシオは変わらず穏やかな顔をしている。案内役としての所作は美しく、歩幅も、視線の配り方も、皇子として申し分ない。だが、その彼にも視線は向けられていた。
黒髪、茶色の瞳。皇族らしい色ではない第一皇子。そう囁かれてきたであろう面差しへ、今もなお、細い棘のような視線が刺さっている。アルシオは、それを表情に出さない。慣れているのだ。その事実に気づいた瞬間、アエラの胸が小さく痛んだ。
(アルシオは、ずっとこんな視線にさらされて育ってきたのね……)
皇国は檻だ。あの夜、アルシオがそう言った意味が、少しだけ分かった気がした。アエラが思わず息を詰めた、その時だった。
「アエラマリーナ嬢」
アルシオの声が静かに届く。振り向くと、彼は半身だけ後ろを向いている。公の場だから、近づきすぎることも、手を取ることもできない。けれど、その声がアエラへ向けられていた。
「お疲れではありませんか」
何気ない気遣いの言葉だった。けれど、それだけでアエラは少し呼吸を取り戻す。
「大丈夫です」
そう答えてから、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「……少し、緊張しているだけです」
アルシオの目元が、かすかに和らいだ。
「それなら、よかった」
「何がよかったのよ」
小さく返してから、アエラははっとした。つい、学園での調子が滲んでしまった。ユリウスが隣で、くすりと笑う。
「気を緩めるのはまだ早いよ。今はまだ緊張していなさい。リーナは気を抜くと、皇国の廊下でも風みたいに歩き出しそうだからね」
「お父様」
アエラが低く咎めると、ユリウスは何食わぬ顔で肩を竦めた。そのやり取りに、アルシオはほんの少しだけ安心した。アエラは緊張しているけれど、その目は強い力を宿していた。――折れてはいない。皇国の視線を浴びても、ちゃんとアエラのまま立っている。
やがて、賓客用の区画へ辿り着いた。扉の前では、皇国の侍女たちが深く礼を取る。エストリア側の従者たちも、それぞれ控えの部屋へ案内されていく。
アルシオはユリウスとアエラを、主賓用の貴賓室へ通した。
「こちらでしばらくお休みください。歓迎の席の前に、改めてお迎えに参ります」
「ありがとうございます、アルシオ殿下」
アエラはきちんと礼を取った。けれど顔を上げた時、緑の瞳が一瞬だけ、アルシオをまっすぐに見た。――大丈夫。怖くないわ。そう言われた気がした。アルシオは小さく頷いた。




